青山潤三の世界・あや子版

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なぜか中国Ⅲ

2018-03-16 10:35:07 | 「現代ビジネス」オリジナル記事



中国の都市と地方の「格差」は本当にあるのか?


2月7日記述 2月16日付け「現代ビジネス」掲載記事の元記事




中国は、2月16日、2018年の春節を迎えました。旧歴の元旦で、新暦の日付とは、毎年異なります。ちなみに昨年は1月31日。おおむね、日本の節分および春分の日の前後。中国では新暦の「1月1日」は“ただの普通の日”、圧倒的に「春節」が大事です。

人々は、都会からそれぞれの田舎に帰ります。我々外国の旅行者は、うっかりしていると、泊まることも、食事をすることも、出来なくなる羽目になります。



春節の行事の一つ、山道で先祖を供養する 広東省紹関市翁源県貴聯村2015年春節 Monica Lee撮影

ところで、この原稿は、春節の6日前に、アシスタントMが借りてくれたアパートで書いています。Mは今日から10日間、昨春生まれた赤ちゃんのお披露目でご主人の実家で過ごします。その間、筆者が一人で食事が出来るよう、2週間分のお米を買い置きしてくれました。

残り財産は2000円を切ってしまっています。次の原稿料入手は月末。それまでの20日間(せめてMが帰ってくるまでの10日間)、これで過ごさねばなりません。朝食兼昼食が白飯(日本から持ってきたお茶漬け海苔が4袋あるので半分ずつに分けて振りかける)、夕食が近所の食堂で100円のヤキソバ(焼きビーフンをはじめ様々なバリエーションがある)、、、2000円あれば楽勝です。

と思って、さっき夕食を食べにアパートの外に出たら、ウァー!真っ暗、まるでゴーストタウン、全てのお店が閉まっています。まだ春節初日まで6日もあるというのに、、、、、。
一時間近く探し回ったけれど、どこも開いていません。この辺りは大都市郊外の工場地帯なので地元の人はほとんどみんな田舎に帰ってしまっているのです。都心まで出れば食べ物屋は見つかるでしょうが、交通費諸々が勿体ない。

というわけで、これから10日間、朝昼晩を白いご飯だけで過ごさねばなりません。中国の油だらけの食事に比べれば、“唯の白いご飯”は最高のご馳走なのだけれど、さすがに3食10日間はきつい。でも仕方がありません。

実は、これまでも、春節の時期には、苦労をして来ました。例えば、2007年(今はすっかり有名になってしまった)雲南省の菜の花に撮影に行ったとき。

それ以前から毎年のように訪れているのですが、春節初日前後は避けていました。しかしこの年は、うっかり大晦日に当たる日に訪れてしまったのです。ホテルの食堂は営業していないし、町の中探しまくっても、食事を出来るところは見つかりません。

途方に暮れていたとき、バスターミナルからホテルまで乗ったタクシー運転手のおばちゃん(中国の地方は女性のタクシードライバーが非常に多い)が、困ったことがあったら連絡頂戴な、と名刺を渡してくれていたことに気が付きました。

連絡を取ったら、早速やってきてくれました。どこに食堂があるのだろうと思っていると、着いたのは、おばちゃんの家。実はご主人はお医者さんで、どうやら町一番の裕福な家庭のようです(と言っても、せいぜい日本の中流の下あたり)。

春節の間、私たちが面倒を見てあげる、といって、高校生のお嬢さんと、中学生の弟さんが、
つきっきりであちこち案内してくれました。

日本で言うおせち料理を食べながら、年を越す(世界の終わりかと思うほどの膨大な数の爆竹花火の轟音に包まれます)直前、急患が出たとのことで、ご主人(凄いハンサム)は、着の身着のまま飛び出して行きました。お医者さんは偉いなあ。

春節元日の朝からは、3人で菜の花の村を訪れました。姉弟の親友だという、道端の売店の子供たちに会いに行きました。広い個室を与えられている姉弟2人と違って、友人の部屋は、壁に取り付けられた狭い(寝台列車のような)ベッドです。

身分は大変な違いです。でも、本当に仲良しらしく、全然そんなことは感じません。

春節2日目の夜は、車で1時間、隣の貴州省の一族の村(雲南省・貴州省・広西壮族自治区の境付近にあります)での新年の集まりに、ゲストとして呼ばれました。ここでも爆竹花火、その余りの凄さに見とれ、撮影するのを忘れてしまった。

三省の境には、その数年前にも訪れたことがあります。その時見た光景が今も目に焼き付いています。ほとんど垂直の崖の道を、年配の男の人(たぶんお父さん)に手を引かれて、ウエディングドレスを着た花嫁さんが下りてきた。待っていた車に乗って、これから結婚式に向かうところなのでしょう。なんだかひたすら感動して、この時もうっかりシャッターを切るのを忘れてしまった。

中国の「田舎」のことを、皆さんは、どれぐらいご存知でしょうか?

都市部との凄い格差、貧乏極まりない、、、本当にそうなのでしょうか?

確かにその通りなのかも知れません。月収100万円近くを稼ぐ都市のエリートに対し、1円2円の稼ぎを得るために、汗水を垂らして働いているのは、事実です。

でも筆者には、田舎の人々がことさら貧しいとは思えません。言葉の綾になるでしょうが、貧乏ではあっても、貧しくはない。








お医者さん姉弟の友達が住む町 2007年春節

中国の人々を、とりあえず3つに分けてみました。

A大富豪。 
B田舎の人々(地方都市住民ではなく、本当の田舎の村の、農民・漁民)。
Cそれ以外の人々(沿海・内陸にかかわらず、都市の住民)。

Aについては評論のしようがないです。桁外れなのでしょう。筆者個人的な感覚では、とてもまともな人たちであるとは思えません。

いわゆる都市の「富裕層」はCに入ります。都市の「貧民層」もCに入れました。横綱と幕下の違いはあっても、同じ土俵上で戦っているからです。

それに対し、BとCは関連性を見だすことが難しい。早い話、土俵が違うのです。

中国では、身分が「都市戸籍」と「農村戸籍」に厳密に別れています。ここでは詳細は略しますが、「農村戸籍」の人々には、都市で暮らすうえで様々な制約が課せられています(例えば移動一つをとっても複雑な手続きが必要な場合があります)。

「農村戸籍」の人間が「都市戸籍」を取得するのは、並大抵のことではないようです。全ての田舎の住民(以下、漁村・漁民なども含め「農村」「農民」と表記)は、都市戸籍を得ることを、人生の究極の目標としている、と言っても過言ではないかも知れません。

都市で暮らす人間が「都市戸籍」住民だとは限りません。「農村戸籍」のまま都市で働いている人のほうが多いのかも知れません(当然収入には大きな差があります)。

ところで、あくまで例えですが(実際にはそんな単純な問題ではないので)、農民は、都市に出稼ぎに出ます。中には、首尾よく「都市戸籍」を得る人もいるでしょう。

中国の社会は、今の日本とは違って、家族(あるいは一族や村)単位で構成されています。個人はパーツです。稼いだ金の多くは、家族や村に還元されるのです。

農民自体の収入は、(戸籍を問わず)都市で働く人々の稼ぎに比べて、それはもう驚くほど少ない。しかし、それとは別に、(都市で働く農村出身者経由で)お金は入ってきています。物価はもちろん安い。相対的には、果たして貧乏と言えるのでしょうか?

もうひとつ別次元での「例え」を挙げます。都市の富裕層はお金を持っています。億ションを保有している人もいるでしょう。社会的な地位や名声を持った人も当然多くいます。

それら(お金そのほか)は「実在」するものなのでしょう? 都市における経済は、右肩上がりで急速に上昇していきます。物価も収入もどんどん上がっていく。それは永遠に(右肩上がりで)続くものなのでしょうか? 何らかの巨大なクライシスに面した時、「お金」も「億ション」も「地位や名誉」も、一瞬にして霧散してしまうことはないのでしょうか?

人々が「現実」だと信じている社会は、もしかすると「バーチャル」の上に成り立っているのではないでしょうか?

農村の収入は、右肩上がり、とはいかないでしょう。いつまで経っても、ほぼ平行線のまま進んでいきます。収入の格差は、都市部と開くばかりです。

しかし、明確に言えることは、土地と資源は、都市の「現実」とは無関係に存在し、極端に増えはしなくても、消滅もしない(「資源」に関しては様々な影響を~汚染とかも含めて~都市社会から受けているでしょうが)、紛い無き「現実」の世界です。

都市では、給与とともに、物価も急速に上がっています。ここ数年で4倍になったなど、様々な報告がなされています。収入も横ばいでは取り残される。皆が右肩方向に上がっていかざるを得ません。

それに対し、農村部での物価は、筆者の知る限り、この10年20年の間に急激に上がったようには、とても思えません。上昇しているとしても、横ばいに近い、緩やかな右肩上がり程度、と言って良いでしょう。

もとより、農村と都市を同じ価値観で比較すること自体がおかしい。次元が異なるのです。

もしこの社会が、都市と農村が全く別個に成り立つならば、いくら格差があっても問題ではないはずです。農民は、横ばいのままの収入で、生活必需品に関しては、何一つ不足なく暮らせるのではないでしょうか。決して貧しくはありません。

筆者は今、30年間に撮影した膨大な量の写真を整理中で、そのほとんどは野生生物なのですが、人物の写真も少なくはありません。あることに気が付きました。都市部で撮影した人物は、大抵が無表情。それに対して田舎の人の写真は、老若男女皆が皆、満面の笑みを湛えているのです。その笑顔が物語っています、格差は本質的な問題ではない、と。


四川省雅安市宝興県隴東鎮東拉村

しかし、大前提があります。農村が、都市のほうを見ていなければ、という。問題は、農民の意識が、常に都市のほうを向いている、という事実。

都会の情報が入ってきます。インフラ、住居、食べ物、ファッション、、、全てが都会の方が魅力的です。しかしそれらは高額で、自分たちは手に入れることが出来るほど裕福ではない、という思い。そこに「格差」が生じます。

実際は、大して素晴らしいものではないのかも知れません。でも、そのことが分からないとしても、それは仕方がないことです。

バーチャルは、人を惑わせます。

例として一つだけ挙げておきます。ファッション。業界関係者には申し訳ないのですが、果たして人間にとって、どこまで必要なものなのでしょう?

衣服は、低温や外敵から身を守る、局部を隠す、ここまでは解ります。生物共通の、異性に対しての興味を引き付けるディスプレイとして必要、と言われれば、そうかも知れない、と思います。しかし、今の人間社会において実質的に大した意味を成しているとは思えません。

筆者は、基本薄着、というよりも1年中ほとんど同じ恰好(Tシャツ一枚)で過ごします。清潔さを保つことは大事なので、100円ショップでTシャツとブリーフと靴下を3セット揃え、常に洗濯、それとズボンを2本(1000円)、ポケットが沢山ついたサファリジャケット(1500円)、それらを年間通して使いまわしています。寒いときは、貰ったジャンパーを羽織ります。清潔でさえあれば、それで充分だと思う。衣食住の衣に関しては、年間3500円ほどの出費です。

しかし、どうやら多くの人々は、少し暑くなれば薄着をし、少し寒くなると次々と着込んでいるように思われます。予算もかなり割いているのではないでしょうか。

2度や3度の気温の変化でいちい衣服を変えていれば、筆者のように極寒の高山や熱帯のジャングルに行ったときに、どうするのでしょうか、、、、そんなところには行かない、と言われれば実も蓋もないけれど。
  
筆者は30年間、普通は一般人の行かない奥地の自然環境、いわゆる「秘境」を徘徊しています。ローカルバス、ヒッチハイク、徒歩(1日50㎞ぐらいは歩く)、むろんツアーなどには一切参加しません(この前の隕石探索が人生初めてのツアー)。

いわば、冒険家、探検家のように、、、、しかし実際は似て非なるものです(正直、彼らに対して失礼)。著者の場合は、好んで「冒険」しながら「秘境」に行っているのではありません。

たまたま調べたい対象が「秘境」と言われるような地(というより誰も知らない普通の地)に棲んで(生えて)いることから、そこに辿り着くために(なおかつ予算節約のため)、必要にかられて、仕方なく、さまざまな困難を伴う冒険まがいの行動を取っているだけで、秘境に辿り着くことと過程の困難自体を目的とする探検家・冒険家とは、根本的に異なります。

プラントハンターや、昆虫コレクターとも違います。いわゆる「珍しい生物」には興味がありません。身近な「普通の生物」の、例えばその祖先のような存在を探っている、と理解して下さい。「マニアック」と言われると、非常に腹が立つ。本人としては、極めて普遍的な、人類に役立つ活動をしていると信じているのです(笑)。

秘境に行くことも、途上の冒険もしなくて済むものなら、部屋の中で終日顕微鏡を覗いていたい(筆者のライフワークは蝶の生殖器の構造解析による系統考察)。夢は、熱帯の島のビ-チで若い美女に囲まれ、ヤシの木に吊るしたハンモックに終日揺られて過ごすことですが、いつか叶うのでしょうか?

話を戻します。

人類は、無駄を排除し能率を挙げることに力を注いできました。にもかかわらず、それとは別の無駄な存在、本来バーチャルでしかないものが、いつの間にか現実化し、それが基準となって、世界を覆い尽くしてしまっています。

「毎日同じ服を着て出社するのは、社会人として恥ずべきこと」などと言う人がいます。筆者には、どこからそんな発想が出てくるのか、さっぱり解りません。

多様なファッションを否定はしません。でも本来、そんなのはお金をかけなくても出来るはず。バッグにしても、100円ショップの「布製手提げ」と、何万円もするブランド品と、どこが違うのでしょう。

なに、全てがバーチャルな価値観だけで成り立った「偽物」に等しい、と考えても、さほど間違ってはいないと思います。集団催眠を利用した、合法的な詐欺のようなものです。しかし、現実には、世界はバーチャルな空間の中で完結してしまっている。それが基準となり、否定しようにも元には戻れません。

本来、田舎が下、都市が上、というヒエラルキーはないはずなのですが、バーチャルは、都市が上、という幻想を作ってしまいました。というよりも、社会が(無意識的に)そう仕向けているようにも思えます。

「虚=都会」と「実=農村」を、無理やり同じ土俵に上げている。その結果、中国の農民は、都市に出る(可能なら都市戸籍を得る)ことを、人生の全ての目標に置くことになります。

格差に問題があるのではなく、そのような方向性(格差を強調し問題にすること)自体が問題なのではないでしょうか?

今の中国にあっては、格差の「是正」ではなく本質の「認識」が必要。問題があるのは、「地方の遅れ」なのではなく、「都市のバーチャルな発展」なのです。

地方が地方のままで、収入が少なくても相対的に豊かで、皆が笑顔で幸せに暮らしている、、、良いことですよね? いや、国家にとっては、それでは困るのです。

中国は、大国を目指し、大都市を基準として、物価を上げ、給料を上げ、国民の総収入を増やすことに全力を挙げています。田舎が田舎のままで、少ない収入で幸せであってもらっては困ります。田舎という存在は無くさねばなりません。だから、収入の格差にこだわり、煽り、田舎の人々は、それに乗せられる。

中国の都市は、田舎が徐々に発展して成ったものではなく、無理やり作られた(深圳などは、その典型)といって良いでしょう。だから表面的には、豪華で、煌びやかで、近代的に見えても、中身は出鱈目で空疎です。

筆者は中国のほか、東南アジア諸国に行くことが多いのですが、それらの国々を歩いていて感じるのは、それぞれに大きな問題を抱えているにしろ、(インドやアフリカ諸国など、滅茶苦茶大きな問題を抱えている国々ともども)ベーシックな部分では欧米社会とはさほど違わない、世界レベルでの“普通の国”であるということです。

中国以外の多くの国は、田舎が主体になって構成されているような気がします。田舎の存在が認められ、田舎のままグレードアップしていく。全体が徐々に底上げするわけですから、繁栄の速度は遅くなります。

中国は、まず都市ありき、です。大都市圏だけが、一気に(かつ、身分不相応に、出鱈目なまま)繁栄し、お金持ちの大国になった。まあ、成金みたいなものですね。

田舎は田舎のまま生き続けることが出来なくなり、滅亡するか、都市に吸収されるか、そのどちらかしか、選択肢が残されていません。それが、今の中国の姿なのだと思います。

ちなみに、道程は正反対ですが、田舎を切り捨てることによって、猛烈な勢いで大国になった国が、もう一つあります。それは日本。

日本と中国だけが、世界水準から大きく外れているような気が、、、。もちろん、お互いに正反対の方向にです。両国とも、ちょっと“独自の方向に行き過ぎ”ではないでしょうか?


雲南省デチェン蔵族自治州維西リス族自治県立馬花



我が谷は緑なりき





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