青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

屋久島での宿泊費の質問があったので

2024-10-08 12:52:20 | 雑記 報告

ゆみ様
コメントありがとうございます。コメント欄に返事を入れようと思ったのですが、この機会に状況を詳しく説明すべく、ブログ本体に疑問の答え(正確には「答え」はないので、「成り行き」のようなもの)を記すことにしました。冒頭に、ゆみさんからの質問を示そうと思っています。ブログへの転載をご了承いただければ幸いです。
 
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僕の置かれた現状について
 
読者の方から、コメントを頂きました。僕のブロブへのコメントは、ほぼ全く、と言って良いほどありません。読者そのものは結構多いみたいなんですよ! でもコメントはせいぜい数年間に一人、多くて一年に一回程度。ほかの方のブログを読むと、結構コメントが来ているようなので、羨ましく思うのです。だから、コメントを頂くと、とても嬉しい。コメントは、次のような内容です(投稿者の許可を得て再録)。
 
>はじめまして。
>どう辿り着いたのか、このブログに辿り着き、一生懸命に頑張っていらっしゃるのに興味が湧き読ませて頂いています。
>私も良く似た生活を送っているので親しみが持てるのですが、1つ疑問があります。
所持金一万円とかの生活の中、どうやって屋久島に2度も行けて長期滞在できる費用を捻出できるのですか?
>嫌味とかでなく単純に疑問を持って質問しています。私も生活がギリギリで家賃払うと何も残らないので先生も同じような生活だと親しみが湧いていたのに、急に旅にでられる余裕があるのは誰かの援助とかあるのなら、私には羨ましい限りです。
 
う~ん、ご質問をされる気持ちは、非常によく分かりますね。
 
早速返事をしようと考えたのですが、といって、どう説明すれば良いのか、、、。なかなかの難題です。それらの状況については、断片的にこれまでのブログに記してきたのだけれど、それを全部チェックして貰うわけにもいかんでしょう。
 
次のように、一言で返事を集約しようかとも考えました。
>>僕と同姓(青山)の有名漫画家がいるようです(僕は世間に全く疎く、その方の存在は、数年前にベトナムの山奥の小学校で教えて貰って初めて知った)。彼の人気作品の主人公探偵?の決め台詞が、『真実はひとつ!』なのだそうです。同じ苗字でも、僕の決め台詞は真逆で、『真実は一つではない!』。まあ、そんなところです。
 
でも、それだけだと何だか無責任なので、この機会に、可能な限り実情を述べていくことにします。
 
まず、僕が究極の貧乏人であることは、紛れもない事実です。今日の時点での所持金は、1135円(ほかに銀行の口座に558円が入っているのですが、僕の住む町には三井住友銀行がないので、引き出すには往復2500円のバス代を使って博多の銀行窓口まで行かねばならない)。これで今月いっぱい(あと24日間)過ごさねばなりません。1日の食費50円弱の計算です。
 
手元には、一玉38円のうどんと焼きそばが三玉、モヤシが少々、食パン3切れとバケットが半分、ベーコン1パック、卵2個、マーガリン、マヨネーズ、胡麻油(それぞれ残り少々)、麦茶のテイーバック(50袋172円の残り半分)、インスタントコーヒー(一瓶108円の残り半分)があります。
 
これでもいつもよりはなかなか豪勢なんですよ!でも、これで24日間は、到底無理です。ちなみに、一昨年末に生活保護を受けた時点で、役場を通じての困窮者救済機関であるソーシャルオフィスからアパートの一室を提供してもらい、その際、生活必需品として、冷蔵庫、トースター、炊飯器と湯沸かしポット、電気ストーブ、TV、寝具などの備品を無償(最初に少し払ったかも)提供してもらっています。TVが自室にあるのは、僕の76歳の人生で初めて、また(日本滞在時に)布団で寝るのは、2020年にコロナ騒動で帰国を余儀なくされて以来、初めてのことです。
 
たぶん、今月の中旬には、ソーシャルオフィスから、お米2キロぐらいが配給されると思います(それまで頑張って食つなぐ)。また、偶数月の15日には、2か月分の年金の(後述する東京の書庫代を支払った)残りの8000円を受領するのですが、今月に限っては、それをパソコン関連の支払いに回さねばならず(後述)受領が叶いません。
 
アパートの近くで、月一回、生活困窮者に向けての食料の無料配給が行われています。しかし僕はそれを受領することができません。石もて追い返されてしまいます。理由は不明。市役所で調べてもらったところ、生活保護受領者は対応外なのではないかと。しかし僕のアパートの同じ階にすむ若いキャピキャピの女性も生活保護を受けている由なのですが、彼女は毎回どっさりと食料を受給しているようです(先月はご飯パックをいくつか分けてもらった)。なんだかなあ~という、理不尽な思いがあります。
 
携帯電話は、これまで長い間、日本では使用していませんでした。もとより携帯電話の使用を拒否していたこともあるのですが、使おうと思っても、なぜか(理由は教えて貰えない)契約そのものができません。しかし、飯塚市で生活保護を受けるに当たって、携帯電話の所持が必須ということで、幾人かの仲介者を経由して、近所の町工場の社長氏の計らいで、使用が叶いました。月々の支払いが2000円~4000円(毎月月初めに保護費の中から支払っている)。その社長氏には、仕事に使うポジフィルム→デジタルスキャン機などをメルカリで建て替え(分割払い)購入などしていただいています。
 
生活保護費ですが、月々の受領は平均2万円弱、少ないときは8000円くらい、多い時で2万4000円ほど。支給の基本金額は10万円余なのだそうですが、そこからまず後期高齢者の不要生活費(老人は食費が少なくて済むから、という謎の理由によるらしい)や何とか保険料が差し引かれ、年金月約3万8000円(ほぼ東京の書庫代3万5700円とバーター)が差し引かれ、福岡の家賃3万5000円が差し引かれ、実際に受領できるのは、2万円余、ほかに収入(自主出版本の売り上げなど)があれば、その分(収入の内容によって比率が違い、作品販売の場合はほぼ全額)差し引かれて、少ない月では手取り8000円前後となります。そこから電気代、水道代(ガスは止まっている)、電話代が差し引かれ、手元に残るのは、少ない時でゼロ円、多くて1万5000円ほどです。
 
本来ならば、さらに5年前に破壊したHDDの修復費52万円の分割払い(残り7万円、そのHDDが戻ってこないことには、今後の仕事ができない)月5000円、福岡移住前の東京(青梅市)における生活保護停止にかかわる裁判の弁護士費用(月5000円の分割)、昔の彼女の92歳になる父上からの借金(先代パソコンの建て替え購入費用10万円の月5000円ごとの分割支払い)なども計上しなくてはならないのですが、さすがに難しく、待ってもらっている状況です。
 
選挙が近づいています。それに関わる、ビラ配り、ペンキ塗り、大工仕事などの仕事が貰える可能性があります(脊椎がやられているので重いものを持つ作業ができない)。そのような仕事には普段有り付けない(飲食店の皿洗い・便所掃除などのバイトの募集も面接以前の段階で落とされてしまう、、、ネックは、年齢、保証人etc.)のですが、選挙の時は人手が足りず例外です。今日もこの後、ダメもとで(今まで一度も交渉成立したことがない)交渉を行う予定です。
 
結局、日本で収入を得るには、本来の自分の仕事(執筆や写真提供)を行うしかない。材料は山ほどあって、本(作品)を作ろうと思えば、100や200はいつでも可能です。
 
しかし、それを流通ルートに乗せて、収入に結び付けるには、多大な困難が伴います(というか、そのルートへの乗せ方がわからない)。
 
20年ほど前ならば、大手の出版社から、年に一冊程度の刊行は、比較的に楽にできたのです。新聞連載や週刊誌などへの寄稿も、割と簡単にできました。しかし今は時代が完璧に変わってしまっていて(ことに活字媒体の衰退)、そう簡単には受け入れてくれなくなってしまっている。
 
僕の(海外の出版社および自費出版以外の)日本の大手の出版社からの刊行物は、単行本では岩波ジュニア新書「屋久島~樹と水と岩の島を歩く」2008年、新聞連載は産経新聞「中国の蝶~青山潤三の写生」2013~2014年、ネット媒体では講談社「現代ビジネス」(中国の庶民生活の紹介、香港デモのレポートなど)2017~2020年が最後です。それ以外は、全く仕事にありつけない状況が続いています(僕が本気でアプローチしていない結果ということも出来るのでしょうが)。
 
そこで、自主製作(いわゆる自費出版)に舵を切ることにしたのです。しかし、これもまたなかなかに難しい。早い話、すでに数10冊の作品が完成し、このブログをはじめとして、あちこちで購入依頼を発信しているのですが、この20年ほどの間、ほとんど一冊も売れていない、という惨状です。
 
唯一、スムーズに行えるのが、東京にある生物学専門図書(主に昆虫関係)通販からの委託販売。一昨年から昨年にかけて、主に中国の蝶についての作品を、35作品ほど(うち24作品は「週刊中国の蝶」)委託販売してもらいました。1作品1冊について約1000円の純利、各作品10冊前後を買い取ってもらえるので、月2冊刊行するとして、純利が毎月2万円ぐらいです。1年ほど前まではそれを続けていたのだけれど、この1年ほどはやっていません。様々な理由によるのですが、ぶっちゃけ言えば、月2作品100頁前後の作品制作は、相当にしんどいということ(それと生活保護費との関係)。背に腹は代えられず、来月から再開しようと考えてはいますが、、、。
 
話がどんどん長くなってしまいました。ご質問の件に答えねばなりません。といって、最初に言ったように「答え」は絶対的なものではない。非常に複雑で、様々な要素が織りなされているので、納得していただけるかどうかの自信はない。
 
まず、ここ数年の僕の状況を話します。
 
2020年春、いわゆるコロナ騒動が勃発し、日本への帰国を余儀なくされました。すぐに中国に戻れる、と思っていたのですが、そう甘くはなかった。現在に至るまで丸5年間近く、日中間の正常な国交は閉ざされたままで、ノービザ滞在は未だ解除されていません。観光ビザでの入国が必要で、したがってアパートなどを借りて長期滞在することも、奥地で調査・撮影活動を行うことも、実質不可能です。辛抱強く解禁を待つしかありません。
 
中国に行けば、弟子のモニカ(とその家族)が、住居や食事を含め何かと面倒見てくれるので、不自由なく生活できます。でも、日本では、そうはいかない。身寄りも資産もない後期高齢者となり果てます。
 
最初の2年間は、東京のアパートで生活保護を受けて何とか暮らしていたのですが、3年目に(それまでの苦労人の中年職員から、大学出たての若い職員に)担当者が代わって、大変な事態になってしまった。もう露骨な嫌がらせ、実質的虐待の末、全く理不尽な理由で、保護が打ち切られてしまった。東京都と青梅市を裁判で訴えたのだけれど敗訴。その最中コロナに感染したりして、地獄を彷徨い続けたのです。
 
2017年から4年間(28回)続けていた「現代ビジネス」への掲載も、「香港デモ(僕の姿勢は学生たちに対する批判)」「コロナウイルス(マスクの拒否、コロナはただの風邪、そして風邪は非常に恐ろしい脅威)」「熱中症の原因は冷房の使用に基づく、科学に対する過信が人類を滅ぼす」といった僕の主張が、編集部に受け入れられなくなって休載。収入の目途が全くなくなってしまったのです。
 
その最中の2022年秋、(血の繋がりはないけれど実質娘)の「三世」と娘婿のギリシャ人ジョージが、様々な事情で急遽日本に来ることになり、その過程で僕が(三世がネットで見つけてきた)福岡県飯塚市に(東京青梅に段ボール箱120箱の資料を残したまま、青春18切符を利用して)移住し、生活保護を受けることになったのです(後から三世一家が転がり込むという目論見)。
 
近所のファミレスに籠りっきりで、翌2023年春に「中国胡蝶野外観察図鑑(日中英語記述)、全4巻600頁」を完成、次いで今年の春には「近所の森と道端の蝶・福岡県飯塚市編」を完成、自費出版しました。前者は(例の図書通販を通じて)そこそこ売れたのですが、後者は西日本新聞本誌で紹介してもらったのにも関わらず惨敗、一冊も売れなかった。
 
そして、去年の秋から、さらに悲惨な事態が続けざまに襲い掛かった。あまりに立て続けなので、具体的なことは省略します。最も大きなアクシデントは、これまで使っていたインターネットのアカウントのパスワードが突然変更されてしまい、それを知る由もなく、全ての人たちとの連絡が閉ざされてしまった(新たなアカウントを作ったのですが、旧アカウントは今に至るまで回復していず、多くの人たちとの連絡は閉ざされたままです)。
 
その最中、5月の末に、三世からメールが来た。彼ら3人(3歳になる孫娘を含む)は、一度飯塚に来たものの、様々な事情でそこを離れて、安いキャンピングカー?を購入して、沖縄から北海道を巡りながら、車中生活を続けていた。
 
鹿児島にいる、今すぐ来てくれ、と。詳細は略しますが、命に係わる案件です。躊躇する余地もなく、着の身着のまま、(手持ちの全財産を使って)急遽鹿児島に向かいました。(僕が以前長く関わっていた)屋久島に行きたい、というのです。そこに土地を見つけて(というよりもキャンピングカーの中で)暮らしたい、と。結局、様々な事情?(三世の言では黒魔術に襲われて)彼ら三人は、すぐに島を出て行った(今でも日本の各地を放浪している)。
 
僕が屋久島を訪れたのは、丸18年ぶりです。1960年代から40年間屋久島をフィールドとし(一時は島に在住)、1980年代から40年間中国がフィールド。1980年代からの20年間は両地が重なり、21世紀に入ってからの20年間は、中国主体となって、この18年間、屋久島には訪れてもいない、という状況です。
 
屋久島は、中国とともに、僕の「故郷」でもあるのです。多くの作品も執筆・刊行してきました。思い入れは、誰よりもあります。
 
けれど正直のところ、2006年を最後に、きっぱりと縁を切ろうと決意していました。生涯再訪することはないと。いうまでもなく、自然は圧倒的に素晴らしいのだけれど、人間関係では嫌なことばかり。僕の人生は、屋久島の(一部の)人たちによって、滅茶苦茶にされた、という思いがあります。
 
そのような前提で、今回(6月前半)、思いもよらず(半ば嫌々ながら)屋久島を再訪することになったのです(行きのフェリー代と帰りの交通費はジョージ持ち)。
 
屋久島の人々は敵だらけ、という思いがあったのですが、行ってみると18年ぶりに会った旧友たちは、皆喜んで迎い入れてくれた。敵もいるのですが、味方も大勢いたのです(みな歳はとっていたけれど)。ある旅館経営者の旧友は、僕の部屋を用意してくれて、いつまでもいていいよ、と宿泊費無料、食事付きで泊めてくれた(6月上~中旬の2週間と、8月中~下旬の2週間)。8月は、往復の交通費も立て替えてくれた。
 
条件は、改めて屋久島の自然に関わる良い作品を著すこと。実は、1987年と、2007年に、2度「屋久島の植物図鑑」を作りかけていたのです。ともに事情があって断念した(それぞれ別の企画~フィールドガイドなどに移行)のですが、再度、それに取り組もうと。
 
材料はいくらでもあります。誰よりも持っている。そして、周辺諸島、および日本本土、琉球、中国大陸との関わりの中での屋久島の植物相の成り立ちを考えることは、僕にしかできません。古い資料を再集積し、後世に残すことは、僕の使命かも知れないのです。
 
その執筆活動のために、日がな旅館の一室に籠城して、作品制作に取り組んでいました。計30日の間に、ほとんどどこにも出かけなかった。所用で隣町に2度出かけたほかは、せいぜい半額弁当を買いに、夕方徒歩5分のスーパーに出かけるくらい(あとは役場などでの打ち合わせ)。
 
一度福岡に戻り、8月に再度屋久島を訪れました。屋久島発祥の老舗の製薬会社「恵命我神散(恵命堂)」というのが東京にあって、2002年から2021年までの20年間、そこのカレンダーの写真を僕が担当していました。途中で写真を一括して売り渡していて、この10数年接触は途絶えていたのです。
 
そこの会社の先代社長が今春亡くなり、僕のカレンダーの写真を担当していた若い末弟が、4代目社長に就任するとの情報。早速電話をしたらとても喜んで下さり、8月19日にとんぼ返りで屋久島に行くので、できればそこで再会して、今後の企画を探りましょう、ということで、再度屋久島に向かったのです。
今回は、国や県や町の関係諸機関、島の有力者、鹿児島の新聞社やTV局の人たちと面会し、「屋久島の植物」(全4巻900頁余)が完成してからの、今後の方針を探っていくことにしました。帰路は台風とかち合い、大変な思いをしたのですけれど。
 
本が完成次第、年末あたりに再度屋久島を訪れる予定です。
 
波乱万丈です。ほぼ作品が完成した先日、大変なアクシデントに見舞われてしまいました。
これまで使っていたパソコンが、完全にクラッシュしてしまい、パソコン本体が使えなくなってしまったどころか、収納していたデータの(もちろん完成寸前の「屋久島の植物」も)消滅の危機に晒されてしまった。神も仏もない、と嘆くしかありません。
 
一縷の望みを託し、往復4時間かかる(バス代の往復600円が捻出できない)PCデポセンターというところを尋ねました。仮にデータが復元できるとしても、前回のHDD同様50万円単位の出費を覚悟しなくてはなりません。
 
「捨てる神あれば拾う神あり」でしたっけ、あるいは「楽あれば苦あり」とか。アクシデント頻発の中でも、良いこともあります。結論を言えば、最善の方向性。内臓HDDの修復費、新たなパソコンの購入費等々、軽く10万円以上の経費が必須だった(むろん僕には捻出不可能)ところを、特例(社内コマーシャルに出るという条件)で、ほとんどの経費が免除され(月5000円の分割支払いのみ)、目出度く新たなパソコンと、回復したデータを手にすることができたのです。そのうえで、今度インターネットに関わる様々な相談ができるという、「災い転じて福となす」でしたっけ、どん底の状態からの脱出の機会が与えられたわけです。
 
(少額とはいえ)そのための出費で、今月の食費がほぼ無くなってしまったわけですが、最悪の事態に落ちいったままのことを思えば、何とかなります。さっき、近所の工場の社長氏から電話があって、来週は選挙に絡むペンキ塗りの仕事がある、と。なんとか乗り越えることができそうです。
 
頑張るしかありません。



コメント (1)
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