やっと、「中国の野生植物」全100巻DVDの、第一巻「シャクナゲⅠ」(原版写真2500枚、テキスト385頁収納)が出来上がって、テキストの英訳(モニカに中国語訳して貰うため)も終えました。しんどかった。いつ完成するかも、どのように役立てるのかも、全く展望はつかないのですが、あと99巻、根気よく続けるしかありません。
僕の(勉強・仕事の)守備範囲(「研究」とか「専門」とかの言葉は嫌いなので使わない)は、蝶と蝉であり、アジサイを中心とした植物(野生、ただし一部は人為との関り)であり、それらを題材に「日本~東アジアの生物相の成り立ち」(殊に「琉球/南西諸島」の本質)を考察することです。それは(生活の糧に結びついているか否かに関わらず)仕事です。趣味ではありません。
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趣味は、アメリカン・ポップス(主に1960年代前半)と、明治文学(ことに明治20年代)ですね。もっとも、「仕事」にしろ「趣味」にしろ、全てにおいて、言わんとしていることは共通しています。
「事実は一つではない」、、、、多様性の(便乗意見や“御為ごかし”ではなく、心からの)肯定です。換言すれば、「無意識強要同調空気」の否定。
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「涙くんさよなら」は、正真正銘、ジョニー・ティロットソンの日本(およびアルゼンチン、チリ)に於ける大ヒット曲なのですが、いつの間にか、(当時は全くヒットしなかった)「坂本九」のヒット曲に置き換えられてしまっている。それを大衆が「是」とし、異論を(無意識的に)排除する(あるいは無視する)。「どうでもいい事」と言えば「どうでもいい事」なのですが(笑)、実は(普遍的な問題として改めて見つめると)「大変な事」なのですね。
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「正義とは何か」「悪とは何か」、、、(例えば「宇宙の果ては何処にあるのか?」などの命題共々)誰もが、子供の頃(若い頃)、一度は思い巡らしたのではないでしょうか?でも、大人になってからは、その「逡巡」を放棄してしまっている。いや、さっさと(都合のいい)答えを出してしまっている気がします。
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僕は頭が悪いので、なかなか“答え”というものが出せません。
誤解を招くといけないので、「マスク」について、一言付け加えておきます(前にも言ったと思うけど)。僕は「マスク拒否論者」ですけれど、常にマスクは持ち歩いています。自分で「規則」を作っています。
次の状況ではマスクを着用する。
>2m以内の距離で一定時間(数秒以上)人と対面するとき。
>密封空間で複数の人々と隣接して滞在するとき(車内など)。
>病院の中。
それ以外の場合はマスクは着用しません。誰もいないところでマスクをしている人を見ると、不気味にしか感じません。実は、上に記した状況下でも、マスク着用が必要だとは必ずしも思っていないのです。でも、怖がっている人に対して、更に不安を煽るのは、本意ではありません。でもでも「マスク着用を強要する社会は決して良い将来には繋がらないですよ」という警告は発し続けたい。というわけで、誠に面倒なのですが、その時々に応じて、マスクを付けたり外したりしているのです(通常は外している)。
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一昨日は広津柳浪の「今戸心中」を、昨日は斎藤緑雨の「油地獄」を再読しました。
想うこと、多々あり、です。