コロナの敵(原因)はマスク。
熱中症の敵(原因)は冷房。
ついでに、正義の敵は正義、平和の敵は平和。
集団性自己中で早晩人類は(たぶん最初に日本人が)滅びます。
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以下、断片的に(相互に直接の関連性はないです)。
長野(中野市)の事件。ネットに気になるコメントがありました。この事件、TVのニュースに登場する地元の人たちが、皆やたら饒舌で、容疑者や周辺人物の個人情報を喋りすぎる、そのような地域的背景が問題なのではないかと。僕はそれと正反対の意見なんですね。これ(無防備)で良いのだと思う。それを良しとしない(隠すことを美徳とする)現代日本の社会こそ問題の根源をなすのだ、と。
このことは何度も書いたけれど、中国人は「お金に汚い」「お金が全て」と言いますね。でも僕は逆だと思うんです。(お金に関してだけでなく人間関係に)無防備なだけです。距離が近い。その結果「人権」とか「個人情報」とかを無視することになって、それに基づいて成り立つ(日本のような)社会からは白眼視される。
なんだか現代社会は、「弱者」と「強者」がいつの間にか摩り替えられ(例えばハラスメントの在り方など)、双方向性を見失しなう(無意識的にそれを意図する)ことで突き進んでいるように思えてなりません。
台風中継の現地アナウンサー。どの局も「安全な場所からのレポートを行っています」という前置き。違和感を覚えるのですが、これはまだ良いです。違和感を通り越して猛烈な嫌悪感が沸き上がるのが、例えば野草観察番組などの取材時に示される「許可を得て撮影しています」というテロップ。道端の雑草を写すのに、許可(正確には免罪符)が必要なんですね。一億総責任逃れ。恐ろしい社会だと思います。
昨日のバタフライ・エフェクトは、独露戦争。人類が現れてから、戦争は永遠に終わらないんですね。同じことをずっと繰り返している。平和を叫びながら、、、。ゼリンスキーがヒットラーにダブります。てなことを書いてると、ブログ閉鎖命令が出るかも知れんです。実際、僕のユーチュブはワクチンを批判したので閉じられているみたいだし。
戦争も終わらないけれど、実はコロナも終わっていません。終わったようになっているだけ。まあ僕はコロナなんて存在しない(正確には「コロナが他の様々な脅威と比べて特別な存在というわけではない」)という立場を採り続けてきたのだけれど、いずれにせよ、壮大なる誤魔化し。
それで、コロナ後の短歌、という番組。若者の間で短歌が隠れたブームなんだそうです。みんな上手い。斬新さもあるし。でも僕からすれば、どうしても違和感を覚えます。上手すぎる、というか、“その先”に行けていないのですね。悟り(達観)のもう一つ先です。皆、感性も素晴らしいし、頭も良いし、でも、なんだか違う、、、。
長塚節「白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝は冷たき水汲みにけり」/島木赤彦「みづうみの氷は融けてなお寒し三日月の影波に移ろふ」/斎藤茂吉「雪の中より小杉ひともと出でておりある時は生あるごとく動く」(前にも書いたっけ?)
篠田博之氏(僕が一番尊している人です)のコラム。凶悪な犯罪者の側に立っての考察。でも今回は彼としては異質な(いわゆる軟派的な)人物を対象とした問題提起を行っていた。猿之助とマスメディア、という。常に「その先」に視点が置かれています。
毎日夜10時45分から15分間、藤子・F・不二雄SFとかいうのを放映しています。漫画の実写版。昨日の主人公は加藤茶に似ているなあ、と思っていたら、加藤茶本人でした。相棒が井上順。良い味出していました。さりげなく、ストレートに、老人排除の世界を切り取って、主張もなにもせず、ただ目の前に置いただけ、、、、ひとつ先に行っているんですね。彼(藤子F不二雄)の根本テーマが「時間(過去現在未来の双方向性)」であることを再認識した次第です。
慶応大学出身とかの気障っぽいコメンテーターが、結構良い事言っていましたね。事件の後にいつも示される「一人で悩まずにどこそこに電話相談を」。免罪符に成りかねない。問題の本質を有耶無耶にしてしまう危険性を指摘し、そうではなく、回りの人たちに相談できるような、ごく当たり前の方向性に持って行く努力をするべきではないかと(ということで、最初の話題に戻ります)。
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遡りフィールドチェック 2023.5.1(ちょうどひと月前です)
九州の在来タンポポはシロバナタンポポですね(実はその由来については深い物語があるんですよ)。そのうち、タンポポ連についての総括を行おうかと。固有種、在来種、史前帰化種、新帰化種、逸出栽培種、出戻り在来種(国内帰化種)、、、、。ニガナは在来種のカテゴリー。じゃあ、オニタビラコはどうなんだろう?