私の買った本には下の画像とは別に、
本木雅弘さんが、
この『納棺夫日記』に感動して、
映画「おくりびと」が誕生しました。
というコピーがついていました。
こちらが元ネタならば「アカデミー賞受賞に便乗」といっては失礼ですね。
ということで、映画はなかなか見るチャンスがないので、こちらを先に読みました。
著者は詩人を志して早稲田大学を中退し、その後出身地の富山で居酒屋を開業するも倒産したあと葬儀社に勤務し、納棺の仕事をしながらつづった日記とそれにまつわる随想をまとめて地元の出版社から1997年に出版されたのが原著です。
著者はこれで地方出版文化功労賞を受賞しました。
文春文庫版では一部改訂し、著者の出版後のエピソードなどもつづられています(ただし映画化の話についてはなし)。
ということで小山薫堂氏の脚本になる映画とは、「納棺夫」(本来こういう言葉はないそうですが)というモチーフだけが共通点なんだと思います。
本書は「言い話」とか「感動」を与えられるというよりは、考えさせられる本です。
著者自身、当初は納棺の仕事に対しての違和感がぬぐいきれず、あるきっかけ(映画に使えそうな数少ないエピソードです)で吹っ切れた後は、死者と生者の間に立つ視点が芽生えます。
考えてみると今日まで、毎日死者に接していながら、死者の顔を見ているようで見ていなかったような気がする。
人は嫌なもの、怖いもの、忌み嫌うものは、なるべきはっきり見ないように過ごしている。きっと私も本能的にそうした態度で接してきたようだ。しかし今は、死者の顔ばかりが気になるようになっていた。
そして、葬儀をめぐる様々な因習にもアウトサイダーとしての視線を向けます。
私がこの葬送儀礼という仕事に携わって困惑し驚いたことは、一見深い意味を持つように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂であることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである。
人々が、死をタブー視することをよいことに、迷信や俗信が魑魅魍魎のようにはびこり、入らずの森のように神秘的な聖域となって、数千年前からの迷信や今日的な俗信まで幾重にも堆積し、その上日本神道や中国儒教や仏教各派の教義が入り交じり、地方色豊かに複雑怪奇な様相を呈している。
たとえば葬式に「導師」が登場して死者の霊魂に引導を渡して成仏させているのに、なんで追善供養(一周忌、三回忌など)が必要なのかなど、がいい例で、仏教界などに対してもかなり手厳しい記述もあります。
(出版を機に寺での講演も増え)僧職者達と話す機会も増えたが、話しているうちにがっかりさせられることの方が多かった。真面目に努力されている方々も多く見られるのだが、突っ込んで話していくと、教条的な観念論になってしまうのだ。
そこには生死の現場から遊離した、観念だけの宗教学を教わった僧侶たちが、現場の対応に戸惑っているうちに、やがて葬式と法事に埋没されてゆく姿があった。
最後の章は死生観についてのエッセイになっていて、ちょっと理屈っぽい部分もありますが、興味深い考え方が示されています。
たぶん映画を観た後に本書を読むと、追体験でなく違った感銘を受けるのではないかと思います。
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