一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

仕事始め

2008-01-04 | あきなひ

ときどき引用させていただく内田樹先生のblogに、新年からためになる御言葉がありました。
「年頭に武道について考える」

以前、多田先生にお聴きした話を思い出した。
古武道大会の控え室で、ある流派の武道家がその家伝の術の妙であることを述べていた。やはり控えの席でそれを聴いた人が、「そちらの流派では手首をとられたときにはどう返すのですか?」と訊ねたところ、くだんの武道家はではやってみましょうと片手を差し出した。質問をした武道家はその小指をつかんでぽきりと折った。
話はこれだけである。
先生は「これは折られた方が悪い」とだけ短くコメントして、話を終えられた。
この逸話は端的に「スポーツ」と「武道」の差を表しているということが今になるとわかる。
折られた武道家は初期条件を決めておいて(それ以外に危害を加えるようなことはしないという約束の下での)効果的な身体運用の巧拙を競うことが武道だと思っていた。
折った武道家は両者を共扼するような条件がないときになお最適なふるまいをすることが武道だと思っていた。
だから、こういう状況について、べつに正解があるわけではない。
「あのね、うちではこうやるんです」と言って「はあ、そうですか。それは一つ勉強になりました。どうもありがとうございます」と穏やかな情報交換がなされて、これがきっかけで仲良くなるということだってあるだろう(現に「そういうこと」の方が多いから「こういうこと」が起きるのである)。
「いやいや他流の方にご教示するほどのものではございません。ひらにご容赦を」とにこやかに拒絶するという法もあるだろう。
「教えて差し上げてもよいが、そのためには入門を願わねばなりません」と教条主義的に対応するという手もあるだろう。
いろいろある。
どれがよいというのでもない。
相手の表情や口調や場の雰囲気など、総じて「文脈」から推して、どう応ずべきか瞬時に判断する。自分たちがたまたま身を置いている「ちゃぶ台」の脚部の安定性やテーブルの表面積や材質を勘定に入れる習慣があれば、そうそうやすやすと小指を折られることはないはずである。
武道とは本来そのような種類の「デインジャー」に適切に対処するための術のことではないのか。

「穏やかな情報交換」「にこやかな拒絶」「教条主義的な対応」というのはビジネスでも日常的に繰り出されるカードであります。
しかも自分の組織内、ということも多かったりして・・・

でもそれじゃぁ、「デインジャー」には対処できないんだよね、というjか、正確にはデインジャーが起きたときにそれに自ら積極的に対処しようというマインドを持った人間は育たないんですよね。


てなことで、今年は(も?)指をぽきりと折るような挙に出ることをためらってはいけないな、また万が一ぽきりと折ってしまっても、志ある方にはご寛恕いただけるはずだと心に強く思い、仕事始めの所信とさせていただこうと思った次第です。


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