昨日、この判決について「何で死刑にならないのか?」と勤務先の女性に質問されました。
昼食時に女性陣の間で話題になったそうです。
星島被告に無期懲役判決 江東区マンション女性殺害事件
(2009年2月19日(木)01:23朝日新聞)
東京都江東区のマンションで昨年4月、会社員女性(当時23)が殺害され遺体が切断されて捨てられた事件で、殺人や死体損壊などの罪に問われた元派遣社員星島貴徳被告(34)に対し、東京地裁は18日、無期懲役の判決を言い渡した。
素人のうろおぼえの知識ですが、こんな答えをしました(間違っていたら訂正島なきゃいけないのでご教示ください)。
相場論(過去の判例)でいえば、初犯で一人しか殺していない場合は、よほど計画的で悪質でないと死刑にはならない。
遺体を切り刻んで下水に流した(らしい)ことについては、確かに残忍だけどそれは「死体遺棄」であって、「殺人」の実行行為の態様ではない(最初から計画された一部ではない)ので多分量刑の要因としてはあまり考慮されないのではないか。
現代においては、刑法(刑罰)は犯罪者への報復・応報というよりは犯罪の抑止のためにあると考えられていて、死刑というのは被告人を除去してしまうという究極の手段なので、被告人が「更正不可能」であったり社会秩序の根底を揺るがす脅威となるような犯罪に限るべきという考えが背景にある。
なので、今回も犯罪行為としては悪質だが、それが即死刑が相当といえるかどうかは難しいのではないか。
もっとも光市の母子殺人事件での最高裁の差し戻し判決などをみると、裁判所も市民の感覚を量刑に反映させようという流れにはあるようだ。
また、裁判員制度の導入というのも市民の感覚を刑事裁判に反映させようという試みといえる。
この件も裁判員制度の下であれば死刑判決が出たかもしれないが、模擬裁判員のモニターをやった経験から言えば、素人が量刑を判断する場合どうしても結論から逆算してしまいがちになるし、極端な厳罰に走るか、逆に「死刑」という人の命を絶つ判断までできないか、けっこう振れ幅が大きくなるのではないかとも思う。(模擬裁判の体験談についてはこちらのエントリなど参照)
話をした後に思い出したのが、村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ。
(内容は極東ブログの翻訳などをご参照ください。)
印象に残った部分として「壁と卵」のたとえ話がありました。
It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.
The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.
この立ち位置(「現代社会の喪失感」だとか「価値判断の留保」だとか言われるところ)は確かに村上春樹の小説の世界を特徴付けていて、それ自体評価の分かれるところかもしれませんが、意識してそうあろうとすることは、かなりの努力の要ることだと思います。
たとえば地下鉄サリン事件の被害者を取材したドキュメンタリー『アンダーグラウンド』の後にオウム側の人間を取材した『約束された場所で』を書くことにもつながっているのかもしれません。
そして村上春樹のスタンスをこの裁判にあてはめると、"wall"である刑事裁判制度と"egg"である星島被告人(被害者との関係では"wall"ではあるものの)との間では、躊躇なく星島被告の側に立つということを意味すると思います。
しかも「被告人の人権」などという"right or wrong"の視点を抜きにして。
これは僕にやれ、と言われても自信がありません。
弱いものは正しい、または守られるべきだ、というような価値判断を抜きにして常に"egg"の側につくことを選ぶことは小説だから可能なのであって、実生活で実践するのは非常に困難だと思います。
ただ、「弱いものを守ることが正しい」と思った瞬間に、その考え自体が"wall"になることに自覚的であれ、と村上春樹は言っているように思いますし、その視点を持つことなら可能です。
たとえば自分が裁判員になって"wall = The System"の側として被告人の自由を奪うことになる量刑の判断をするとき、その判断が"to protect us"なものなのか、その判断は"it takes on a life of its own"になっていないか、ということを常に自戒する役ことは大事です。
それは「星島被告人は死刑にすべきだ」という意見をいうことと、「星島被告人を死刑にする」という意思決定に加わることの差を自覚することにもつながります。
でも本当にそんなことがわたしたち一般市民にできるのでしょうか。
最後に再び冒頭の記事からの引用です。
量刑理由の要旨は次の通り。
本件は強姦(ごうかん)目的で被害者宅に押し入って殺害し、死体を細かく切断して投棄したもので、犯行は甚だ悪質だ。動機は住居侵入、わいせつ略取については女性を「性奴隷」にしようというゆがんだ性的欲望のため、殺人、死体損壊、死体遺棄については犯罪の発覚を恐れたためで、いずれも極めて身勝手で自己中心的なものである。
犯行態様は包丁で被害者の頭部を突き刺すなど残虐かつ冷酷なうえ、死体を細かく切断して投棄したという戦慄(せんりつ)すら覚えるもので、死者の名誉や人格、遺族の心情を踏みにじる極めて卑劣なものだ。
被害者は何らの落ち度がないのに尊い命を奪われており、結果が誠に重大であり、遺族らの処罰感情が峻烈(しゅんれつ)を極め、社会に与えた衝撃も大きい。被告は証拠を隠滅し、事件と無関係を装っていた。これらの事情に照らすと、検察官が死刑を求めるのも理解できないことではない。
しかし他方で、殺人の態様は執拗(しつよう)なものではなく、冷酷ではあるが残虐極まりないとまではいえない。死刑選択の当否という場面では、死体損壊、死体遺棄の悪質性を過大に評価することはできない。
被告は当初意図していた強姦はもとより、わいせつ行為にすら至らなかった。殺人、死体損壊、死体遺棄には計画性は認められない。量刑の傾向も踏まえて検討した場合、特に酌量すべき事情がない限り死刑を選択すべき事案とまではいえない。
被告は逮捕された後は犯行の詳細を自供し、その後も一貫して事実を認め、公判でも自己の犯罪に向き合い、被害者に冥福を祈るなど、謝罪の態度を示している。前科前歴がなく、職に就いて一定の収入を得るなど、犯罪とは無縁の生活を送ってきた。
こうした被告に有利な主観的事情も考慮すると、被告に死刑をもって臨むのは重すぎる。無期懲役として終生の間、生命の尊さと自己の罪責の重さを真摯(しんし)に考えさせるとともに、被害者の冥福を祈らせ、贖罪(しょくざい)にあたらせることが相当と判断した。
前半は読んでいたのですが続きがアップされていたんですね。
今回のスピーチはガザ振興(だったらいいのですが)もといガザ侵攻への批判が取り上げられていて、「壁」と「卵」の比喩も、政治的なメッセージとしての取り上げられかたが多いのですが、僕としては作家としての立ち位置についての話なのではないかと考えていたので、内田ブログの後半部分の方はすっきり腹に落ちる感じがしました。
「国家権力対市民」という比喩でとらえた場合には国家権力や社会制度自体が自分自身も参加して作ったものである以上、どちらが常に正しいという議論には無理があるし、とはいえ村上春樹の立ち位置は作家という仕事だから可能なのであって、社会生活を送っている個人個人の行動としては、その社会や他人との関係性自体を日々掘り崩しながら生活するというのも難しいよな、とか思いながら、今回の無期懲役の判決や裁判員制度とかにからめて文章を書いたので、読み返してみると何言っているのかよくわからない文章になってしまっているかもしれません。
私が尊敬する内田樹先生のブログで、村上春樹氏のエルサレム・スピーチが2回にわたって解説されています。(解説というよりも、翻訳といったほうがいいかもしれませんが)読んでいて感動しました。
ご参考まで。