一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『三陸海岸大津波』

2011-04-17 | 乱読日記

三陸地方は明治29年と昭和8年にも地震による三陸地方に大きな被害を受けましたが、そのときのことを作家の吉村昭が地元で資料を集め古老の話を聞きいてまとめた本です。

これを読むと、今回の津波とほとんど同じ場所で、同じ規模の災害が起きていることがわかります。

古老の証言や、当時の尋常高等小学校の生徒の作文には胸を打つものがあります。

単行本としての出版は1970年頃のようですが、今は文庫になっていて、今回の大震災で注目が集まったようで。この4月1日に重版になっています。 


昭和8年の津波がが来た当時はまだ明治29年の大津波の記憶が残っていたのですが、深夜に起きたこと「冬には起きない」という言い伝えがあったことなどから避難が遅れて被害が大きくなってしまったそうです。


二度の大きな被害にあいながら、なぜ海辺に住み続けるかについても、考察をしています。

 田老町は、明治29年に死者1,859名、昭和8年に911名と二度の津波襲来時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。
 「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的打撃を受けた田老は、人の住むのに危険きわまりない場所と言われたほどだった。
 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが、環境に恵まれた豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかったのだ。
 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢をとった。
 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防波堤の建設をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防となって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭和33年3月に至って全長1,350メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ10.6メートル)という類をみない大堤防を完成した。またその後改良が加えられ、1,350メートルの堤防が新規事業として施行されている。

このような防御策の限界も著者は既に指摘していました。

 しかし、自然は、人間の想像をはるかに超えた姿をみせる。
 防波堤を例にあげれば、田老町の壮大な防波堤は、高さが海面より10.65メートルある。が、明治29年、昭和8年の大津波は、10メートル以上の波高を記録した場所が多い。
 私は、田野畑村羅賀の高所に建つ中村丹蔵氏の家の庭先に立った折のことを忘れられない。海面は、はるか下方にあった。その家が明治29年の大津波の折に被害を受けたことを考えると、海面が50メートル近くも這い上がってきたことになる。
 そのような大津波が押し寄せれば、海水は高さ10メートルほどの防波堤を越すことはまちがいない。
 しかし、その場合でも、頑丈な堤防は津波の力を損耗させることはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるに違いない。

最後の一文だけ現実が著者の予想を上回ってしまったことになります。


漁業を中心とする海辺の生活をどう安全を向上させて復興させるか、どのようなリスクを回避し、どのようなリスクを許容するか、本書は今回が「三度目の正直」だということを考えて臨まないといけないと強く示唆しています。

コメント
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