小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

祈りを絶やさぬ政治  恩田木工の政治改革物語

2011年10月13日 04時22分05秒 | 歴史
 恩田木工の政治改革物語の続きです。古い雑誌なので、続きと思っていた部分が、どうも間が一つ飛んでいる気がします。とはいえ、どうしようもないので、そのまま転載しました。



 一同が村に帰って百姓たちを集め、このたびの御改革はこれこれしかじかと伝えるや、どの村でも大へんな喜びで、あの無法な年貢取り立ての役人どもが今後一人もやってこないだけでもどれほど助かるかわからないのに、恩田木工さまは決してうそは言わぬと誓いをお立てなされ、たびたびの苦役も取りやめにすると仰せられたからには、恩田様を切腹させてはならぬぞと一決した。明年、明後年の年貢まで取り立てられたものも、ここは我慢して帳消しにし、以後は催促されずともきちんと納めることにしようというのである。

 次には、今まで役人のした悪事、その他道理に合わぬことを書き付けにして、密封したうえで差し出せとの沙汰である。皆々小躍りして喜び、永年の意趣を晴らすはこの時とばかり、書いたり書いてもらったりして差し出し、恩田様が年貢のことで御心配であろうから、早々に参上して全て承服の旨申しあげようということになった。「誠に闇の夜に月の出(い)でたるここち、胸の曇も晴れて、これより行く末安楽になるべしと、悦びいさまぬ者こそなかりけり」とある。

 名主、長百姓(おさひゃくしょう)などが藩の役所に行って、仰せ出された趣きは百姓一人のこらず承服にて、御政道にお困りなら二年分でも納めたいとの申し出を伝えた。恩田木工は、その申し出が御前に達したらどんなに御喜びであろうと落涙して、それには及ばぬと言った。
 このあたりの機微は、真心の通じ合う消息である。いかほど声を大きくして国民のため、人民のため、苦しむ者のため、と言っても、今の世の政治家のように実は人気取りの票集めであっては、みんなが肌で知っているのだ。

 そのとき恩田は、次のように述べた。――さて、家業油断なく精をだすべし。これをおろそかにする者は天下の大罪だ。精を出して余力があったら、どんな楽しみをしてもよい。浄瑠璃、三味線もよいし、賭博でもかまわぬ。賭博は日本中どこでも御法度だから、これを商売にするものがいたら処罰せねばならぬが、ただの慰みにするぶんには人にかくれてやらずとも堂々とやってよい。
 もう一つ言いたいことがある。よく聞いてくれよ。神や仏の信仰がない者には、とかく災難が多い。もし安楽を願うなら、神仏を心から信仰して現当二世(現在と未来)の安楽を祈るがよい。拙者がこう言っておったと、みんなにつたえてくれよ。
 藩主・真田幸弘は、報告を受けて大いに喜び、恩田に向かって財政立て直しの見込みが立ったのは汝の大功、「金石に銘すべき忠勤なり」と言った。

 次には百姓たちの書き付け(護符)を、どう処理したものか。恩田はこれは拙者の見るべきものでない、殿さまが密々に御覧になるものだと申し渡した。後になって、あの不正事件はどう裁いてくれるなどという葛藤の発生を未然に防いだのである。

 幸弘はこれを見て驚いた。これほどの収賄や結託や強要や暴圧があるのかと、恩田にも見せて対策を問うた。このときの恩田の答えは非常に面白い。面白いばかりでなく、後代にわたって大光明を放つ金言である。
――かような悪事を働くには、よほどの器量がなくてはなりませぬ。この器量を善い方に使えば、ひとかどの御用に立つ者であります。なかには死罪にもすべき不届き者もおりますが、思うにこれは使いよう次第で善にも悪にも強くなるものゆえ、わが君はこれらの者どもを召しだされて、随分とお顔をやわらげ、このたび木工に政道の儀を申しつけたが、一人では行き届くまいから、その方どもは以後木工と肌を合せて木工を助ける相役を勤めよと仰せつけてください、と。

 それはゆくゆく汝の害毒になるやも知れぬぞと幸弘は言ったが、恩田は是非にとお願いして実行してもらった。すると、これらの不届き者はこっそり集まって、本日殿さまからじきじきに恩田殿の相役を仰せつかったのは恩田殿の取り計らいであろう。護符をご覧になった以上、重き罪はまぬがれぬところ、この頃は夜も眠れなかったのに、それをとりなして下されたは恩田殿にちがいない。かくなる上は、心を入れ替え、恩田殿の羽翼となって忠勤を尽くすよりほか生きる道はござらぬ、と話し合った。

 これより、恩田木工の相役たちは、よからぬ頼みごとや相談を持ち込む者があっても、これに加われば身の破滅と思い、一切受け付けなくなったので、恩田が目を光らせなくても、役所では「盗人はなくなりけり」とある。


慰みには博打も構わぬと言って万事をゆるめ、窮屈らしいことは全く申し渡さなかったが、自分と家族や家来たちは身を堅く保ち、隠れて贅沢するようなことは一度もなく、学問と武芸に励み、そのあいだ怠りなく神仏にお詣りした。また、藩主幸弘も文武の二道を専らにし、神仏への信仰に心の喜びを体得した。これがいつしか藩の気風となり、誰が教えるということもなく、幼少の子供まで文武二道に励むようになって、頽廃した人心が次第に改まった。
その頃になって、藩士の子弟のために学問と武芸と娯楽の非常に均衡のとれた時間割ができあがって、非行に走る青少年がいなくなったのである。為政者が自己を抜きにしてどんなに熱心に教育施設や教育体系を整備しても、それは仏作って魂入れずの徒労に終ることを恩田は知り抜いていたのである。

その頃ギャンブルといえば博打で、それにまつわる斬った張ったや一家の離散が絶えないのであった。恩田は時期を見てお触れを出し「藩の許しで慰みのため博打をやり、敗けて難儀に及ぶ者は、お救いくださるに付き遠慮なく申し出よ」と言った。その申し出を吟味して、勝負の相手を確かめ、勝ったものを呼び出して、博打で得た金子は全て敗けた者に返せと命じた。それは平にご容赦をと歎願したら、恩田が言うには、さてはその方どもは博打を商売にしておったか、そうではあるまい、慰みなら許されると知ってやったことであろう、さすれば、さんざん慰んだ筈だから、金子は返却するのが当り前である。それを返却せぬとあらば、天下の法度に基づき厳罰に処するほかないぞ、と。

これよりして、一般庶民は博打に興味がなくなった。勝った金を使ってしまい、返済に困る者が多くいたので、それでは却って損だというのだった。こうして松代藩には、紙一枚でも賭けて勝負する者はいなくなったといわれる。敗けて損した者が進んで役所に助けを求めるので、勝っても儲けることができず、何々組などという暴力団を作る抜け穴がなくなったのである。

『日暮硯』には詳説されていないが、恩田木工の業績として特筆すべきは、山野荒蕪地(こうぶち)の開拓や養蚕の奨励を始め、多方面にわたる事業を興し、五年を経ずして藩の財政を立て直し、進んで繁栄の基礎をつくりあげたことである。

彼は家老職恩田木工民清の子、享保二年の生れで、宝暦五年に藩政改革の大任を背負ったときには三十九歳であった。そして見事に大任を果たして退き、宝暦十二年に世を去ったが、このとき四十七歳の若さだった。病気重しと聞いて、領民は各所に集まって平癒を祈り、江戸では目黒の不動尊で水垢離をした。その上下挙げての祈願も空しく世を去ったときには、正月というのに門松などを取り去り、謡ものや鳴りものも誰いうとなく取りやめ、領内がひっそりとしてしまったという。藩士の書いた文書に「むかし物語には聞きしが、かくばかり人の慕いつきしを見たることは、此時はじめなりけり」と書いてある由だ。


次のような逸話も『日暮硯』に記されている。――あるとき公儀(幕府)の命令で公儀の御役を勤めることになった。江戸の藩邸から、この勤めを果たすには二千両を持参されたいと言ってきた。
松代藩では、だれが二千両を持って行くかということで評定があった。このとき、恩田の「相役二人」というから、多分さきの護符で槍玉にあがった不届き者だったと思われるが、この二人が進み出て、われら両人が江戸へ行って勤めを果たすと申し出た。

出発に際し、両人が言うには、よく勘定しまするに、この勤めに二千両はかからぬ。恐らく千三百両でこと足りる筈でござる、と。恩田のいわく、公儀の役目に、出費を吝(おし)んでけちけちしてはならぬ。金は存分に使うがよい。但し、公儀以外のことには節約して、江戸詰めの役人と心をあわせて万事首尾よくお勤めするがよい、と。このとき恩田は腹の中で、にっこりしたことであろう。なにしろ藩の金をうまくかすめ取った経験のある二人だ。いわば銭勘定の名人(エキスパート)に相違ない。だから二千両はかからぬと見込んだのである。両人は江戸へ行って幕府の役目を立派にやりとげ、見込んだ通り千三百両使って残りの七百両を持って信州松代藩に帰任した。恩田は藩主幸弘に進言して、二人を大いに称美し、おのおの百両を褒美として与え、江戸藩邸の協力者たちにも褒美として総額三百両を送った。それでも、なお二百両が残ったわけである。こうして役人たちも昼夜、かげひなたなく精を出して一段と忠勤を励むようになったという。うまくごまかして得をしても、内心びくびくして暮らさねばならない。それよりも正直に努力して大いに面目をほどこす方がどんなに嬉しいことか。


恩田木工が若くしてみにつけていた教養や学問について『日暮硯』は、ほとんど何も記するところがない。父が藩の家老職だったことゆえ、当時の家風として幼い頃から儒教的教養を身につけていたことは確かであるが、そのうえに現実の政治のあれこれを父を通じて見聞し、自分ならこうする、ああすると考える機会が多かったであろう。
ただ、あれだけの大改革を断行しながら、ほとんど何一つ人を処刑することなく、上は藩の重役から下は名もない領民の末に至るまで心服しないものはなかったのは、まことに驚嘆すべきことである。

『日暮硯』の末尾の近くに次のような一部があり、神仏への信仰が彼の教養の一つだったことをうかがうことが出来る。
「木工殿は政道に心を用ふるのみならず、信心を第一にして、公(藩主真田幸弘)にも勧め、自身にもなほもって神仏を信仰して、平日帰依僧を招き供養して、先祖の追福厚く祈り、自身にも日課念仏を勤め、後生菩提のみを願ふこと、目前希代の賢仁なり」

ここに「後生菩提」とあることに注意しよう。文字の意味は死後の悟りということで、一般には死んで極楽浄土へ往生するというほどの意味である。この教養は広く一般庶民に浸透していたもので、それが人に見られずとも悪を造らず、人に知られずとも善を作すという日常の道徳とも深く結びついていた。しかし、権力の座にある者は、当面する問題の処理に追われる内に、いつしかこの教養を見失うことが多い。『日暮硯』が恩田を讚歎して「目前希代の賢仁なり」と言ったのは、そのためであったろう。

前世、現世、来世の教養はいわば人間の息を長くするものである。現代のように現世だけの教養が横行すると、先祖の恩も子孫への願いも失われ、ただ現世の世渡りだけに専念することになる。政治家の場合には、父祖の志を継いでこれを後代に伝えようとする心がなくなり、国家百年の大計はおろか、十年後のことすら念頭になく、「国益」などと称して実はその場その場の算盤勘定で政策を進める。極言すれば、「後は野となれ山となれ」である。そのために後代に至って災害が生じても、そのときはもう、俺はこの世におらんのだし、あの世なんてないのだから、そこまで気を配るのは馬鹿げているのだ。現代の日本の政治ほど息の短くなった時代は、いまだかつてないのである。

政治と宗教が分離した。それは、両者が血で血を洗う争いを続けたヨーロッパの生んだものである。わが国では、元来そんなものは不必要だった。
たとえ政治と宗教が分離しておっても、「政治家」と宗教とは分離すべきでない。宗教と政治が分離したので、いつのまにやら政治家と宗教までも分離したのが今の姿である。息が短く、その場限りの、出たとこ勝負の政治家が充満するようになったのはそのためである。
支那の古典に「小官は多く律を思う」という言葉がある意訳すると、木っ葉役人はみんな法律のことだけを思う、ということだ。ところが、今では小官だけでなく、大官もそうだし、議員もそうだ。それが庶民の末にまで波及し、俺の入院した病院の待遇が悪いのは、文化的生活を保証した憲法に違反するというふうで、何でも法に訴えて争うことになった。おかげで、法文解釈に明け暮れる小官、弁護士などがこの世の春の花盛りである。

しかし、それにもかかわらず、人の心の奥底には、神仏を求めてやまぬ本性がある。恩田木工の時代は経済の窮乏、天災地変、世相の頽廃、政府の苛斂(かれん)、賭博の横行、役人の収賄で手のつけようもないほどだった。しかも、この人が名君に抜擢されて改革に身命を打ち込むと、五年にして見事に浄化され再建されたのである。そこには祈りを絶やさぬ政治があり、そこに神仏の加護があった。




松代藩が生んだ日本史上有名な人物として恩田木工と佐久間象山がいる。恩田木工民親は1755年、家老職勝手係に取り立てられ、藩財政の立て直しを計った。倹約を励行して自らも実践、税法を月割定納法に改めて納税の実を上げ、殖産興業に力を尽した。さらに、詩歌音楽など人生の楽しみも奨めるなど、幅広い経世家として知られる。
事績を綴った「日暮硯」は経世済民の良書として著名で、二宮尊徳もこの書を座右の銘として愛読した。
1763年没。正五位を贈られる。墓は真田家の菩提寺、長国寺にある。




最新の画像もっと見る