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シベリア抑留者の誇り  ~ウズベキスタンとの友好の絆

2011年01月29日 18時10分45秒 | 歴史
 第二次大戦で、日本がポツダム宣言受諾後し、日本軍の武装解除後にソ連が不可侵条約を破って侵攻してきました。多くの日本兵や在外日本居留民が連行され、シベリアに拉致されました。そして飲まず食わずの抑留生活で強制労働させられ、ソ連のあらゆるインフラ整備に使役されたのです。その過酷な生活でたくさんの人が亡くなりました。
 その奴隷状態の労働はいつ果てるともしれず、希望の持てない日々が続きました。1953年3月にスターリンが死んだことを契機に、やっと日本政府との間で釈放交渉が始まり、その年の11月に祖国へ帰る迎えの船が到着しました。なんと拉致から8年以上の年月が経っていたのです。このシベリア抑留について、ねずきちさんのブログ「ねずきちのひとりごと」に感動的な話が話が載っていましたので、転載します。


国立ナポイ劇場



中東に近いロシアに、ウズベクスタンという国があります。

「スタン」というのは、「国」という意味です。

ウズベクスタンは、古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市として栄えたところで、13世紀にはモンゴル帝国に征服されるけれど、14世紀になるとティムール王朝が興って、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げた歴史を持ちます。

そのウズベキスタンの首都都タシケント市に“国立ナポイ劇場”(写真)があります。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成したものです。

その後、タシケント市には、二度、大地震が起こりました。
地震で、市内の建造物は、そのほとんどが倒壊しています。

ところが、二度の大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。

タケシントのウズベク人たちは、劇場を眺めて次のように語ってくださっているそうです。

「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。素晴らしい民族だ」

そうです。この建物は日本人のシベリア抑留者が造ったのです。

同じ抑留者でも、ドイツ人たちは、ロシア兵に反抗もするし、自分たちの権利を主張しました。
ロシア兵たちもドイツ人たちは、同じ白人種であることから、あるていど大目に見ていたといいます。

ところが日本人は黄色人種です。反抗したら殴られる。殺される。ひどい差別を受けた。

それでも日本人たちは、威張らず、文句も言わず、黙々と作業をした。

その姿に、市内の作業現場では、タシケント市民は、ソ連と戦争をした日本人に、かえって尊敬と畏敬感をいだいたといいます。

ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しました。
そのうち60人が、建築途中で亡くなられています。
10人にひとりが亡くなったのです。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみてもあきらかであろうと思います。

使役させられた日本人たちの様子がどうであったのかは、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。

裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている男の肛門まで、上から見えた。
ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、クレーンの先端まで駆け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した等々、涙をさそう逸話が数多く紹介されています。

シベリアに抑留された日本人は65万人です。
このうち、2万5千人が、このタシケント市内の13箇所の収容所に入れられました。

シベリア抑留者というのは、ただソ連によって強制連行され、抑留させられた、というわけではありません。

シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団です。

ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。

そして、日本人技術者たちを強制連行してソ連のインフラ整備のために無料で使役しています。

65万人の技術者集団です。
彼らを単に抑留するだけなら、食費やら施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
65万人に給料を払うなら、たとえば今の相場で月30万円の給料を出すとなれば、それだけで月に2千億円、年間2兆4千億円の費用がかかる。

それを、給料無料、ろくな食事も与えないで、日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械や設備をまるごと持ち帰って、ソ連の建国のために使役した。

道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。

旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使ってソ連全土で展開したのです。

ソビエト社会主義連邦共和国は、かつて人類の理想郷のように言われました。
人々は働かなくても、国家から給料がもらえます。

人々が働かなくても、町のインフラは次々と整い、道路ができ、鉄道がひかれ、建物ができる。

あらゆる工業生産物も、生まれる。
農業も振興され、食料生産高も飛躍的に向上する。
人々が「働かなくても」です。

労働者階級は、ほんのちょっと仕事をするまねごとをするだけでよい。
クレムリンが、計画経済○か年計画を策定するだけで、国民はなにもしなくてもみるみる経済が成長し、豊かになる。
国家の力で、インフラは整備され、工業・農業の生産高は飛躍的に向上する。
これぞ理想郷。これぞ人類の夢の社会・・・。

ところが誰も生産活動に従事しないで、労働成果物だけが生まれるわけがありません。
では、いったい誰が労働していたのか。

それが、シベリア抑留者達です。
なかでも日本人は良く働いた。

資材は、満洲からのお持ち帰り品です。
足りないものはない。人もモノも全部揃っている。しかも労働力を使うために必要な賃金(カネ)は、栄養失調寸前の申し訳程度の食糧支給だけ。犯罪者として抑留しているのですから、もちろん給料なんてない。

ちなみにいまでもロシアに残る社会インフラで、ちゃんと稼動している施設は、ほぼ日本人抑留者が造ったか、ソ連以前の帝政ロシア時代の建造物かどちらかです。
旧ソ連時代にできたものは、あまり多くない。あっても陳腐化して使い物にならない。

要するにソ連は、人だけでなく、モノと技術を一緒にソ連に運んだのです。
そして日本人を奴隷のように使役し、モスクワの町やらイルクーツクの街並み、カザフやウズベキの街や道路、発電所、建築物等を作らせた。

ウズベキスタン



ウズベキスタンのタケシント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。

運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかされ、過酷な気候条件と厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。

しかし、彼らが造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとなっている。
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっている。

ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。

日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。

中山恭子元内閣特命大臣がウズベキスタンに大使として赴任したのは、平成11(1999)年のことです。

いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。

その元監督は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出話を、中山恭子大使に涙ながらに語った。

苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。

昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。

それほどまでに過酷な情況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。

だから、いまでもウズベキスタンの母たちは子供に「日本人のようになりなさい」と教えているといいます。

ウズベキの人たちは、当時抑留されていた日本人たちの姿を見て、
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。
ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。
強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。」

日本人墓地があります。
細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいる。

聞くと、旧ソ連時代、日本人の墓など作ってはならない、墓はあばいて、遺体は捨てろ、という命令もあったのだそうです。

それでも、ウズベクの人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれた。
それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベクの人々の生活をささえてくれてることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。

実は、中山大使赴任の三年前の平成8(1996)年、ソ連崩壊で、独立したウズベキスタンでは、大統領のカリモフ氏が自ら進んで、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げてくれています。

そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

ナポイ劇場正面に掲げられたプレート



ひたむきに努力をし、異国の地で果てた日本人。

この報せを受けた中山恭子大使の夫・中山成彬元国土交通大臣は、みんなの力で、ウズベクの日本人墓地の整備をしようと、呼びかけます。

そして宮崎の事務所を拠点にして、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募った。
寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集まります。

そして中山夫妻は、ウズベクに行き、このお金でお墓の整備をと、申し出ます。

すると、ウズベクの大統領は、これを拒否した。

「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。
このお金は受け取れません。
わたしたちで、日本人のお墓の整備をさせてください。」

そしてウズベクの人々は、日本人墓地を、美しい公園墓地にし、日本人を顕彰します。

中山成彬ご夫妻は、集めた寄付金で、それならウズベクの学校に教育機材をご提供しましょうと申し出ます。
そしてパソコンや教材などを買いそろえ、寄贈した。
これは喜んでウズベクの人々が受け取ってくれます。

中山成彬先生



さらに残った費用で、日本人墓地と、ウズベクの中央公園に桜の木を贈ろうと話します。

きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい。

そして中山成彬氏は、日本さくらの会に交渉し、日本から桜を、ウズベクに寄贈します。

ところが、桜の木は弱酸性の土でないと育ちません。
ウズベクの土はアルカリ性です。
これでは桜が枯れてしまう。

そこで日本から弱酸性の土も一緒に運び込むことなった。

いま、ウズベクの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。

ちなみに、あまりにも桜が美しいことから、「桜どろぼう」が出た。
桜の木を根こそぎ持って行ってしまう。

ウズベクでは、そのための対抗策として、日本から寄贈された桜を守るために、なんと専門の「さくら番」を雇い、桜の木の保護をしてくれました。いまでもずっとです。


シベリア抑留者の悲劇。
その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。

祖国に帰れなかった彼らのために、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。

その心を大切にするために、1年365日、桜番を雇い、警護までしてくれているウズベクの人々の誠意。

本当の外交と言うものは、虚偽の捏造にあらず。
こういう人と人との真心のつながりこそが、真実の友好を結ぶものであると思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。








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