阿智村園原の人里離れた山裾にひっそりと古い神社が建っています。
ここ御坂神社には・・・万葉集防人歌碑として
(現存する日本最古の和歌集である万葉集に
「ちはやふる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)まつり斎ふ(いわう)命は母父(おもちち)がため」
という歌が詠まれています。
歌の大意は「荒ぶる神の領域である御坂峠に(幣)を手向けて我が身の安全と無事帰還をつつしみ祈るのは、故郷に待っている父母のためである」というもので、
755年、九州北辺を警備する防人として徴発された信濃国の若者が、御坂峠を越えて行く時に詠んだものである・・・)という意味の説明書きと、
漢字で「知波夜布留賀美乃美佐賀煮怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米」と刻まれた歌碑が建てられています。
この古い神社の傍らを古代東山道が通っています。
この古代東山道が万葉集、防人の歌に詠まれている「御坂峠」を通って伊那地方から美濃に抜ける古道です。
この御坂神社には大きな古い杉の木があります。
この杉は日本杉と言われ、樹齢2000年を越していると書かれていました。
父はこの古木を前から後ろからじっと見つめて
「この木は根で二股に分かれてしまったから栄養を取られてしまって太くなれなかったんだなぁ・・・
もっと太くなれたはずだが・・」と私を呼んで言いました。
父の哲学は自然から学ぶ事が多い・・それだけに樹木や植物を注意深く見つめます。
この日の飯田地方は午前中濃霧注意報が出され、辺りが真っ白で身動きが取れず、
昼近くなって父とこの御坂神社に向かいました。
この古代東山道を通って富士見台まで行く為でした。
御坂神社に車を停め歩き始めました。
今は綺麗に下草が刈られ登山道は歩きやすい道に整備されています。
1200年以上も前の信濃の国の若者もこの地を踏んで御坂峠を越え、信濃の国を後にした記述が残されている事って凄い事です。
この時代の防人の任期は3年であったが、当時としては生還しがたい厳しい兵役であったと言われています。
どんな思いで信濃を後にしたのか、思うはきっと残して行く年老いた両親の事だったのであろうと・・、
自分の命は惜しくはないが、帰還を待ちかねている両親の事を思う時、
無事に帰って来なくては・・・と峠の神に祈ったのだろう。
もう葉が落ちて晩秋の装いの山道は、急登な箇所はなく、
「昔の人達は足が丈夫だったんだなぁ・・・この道を通って岐阜に出たんだ」と
父と二人で話しながら古を思い起こすこの時間は、
きっととても大切な時間に変わって行くのだろうと思いながら
私はもう一度父の顔を見ました。
約2時間で御坂峠近くの萬岳荘に着きました。
富士見台は霧のため真っ白。
ここで持って行ったおにぎりを食べ帰路に着きました。
この萬岳荘までは岐阜の方からは車で入る事が出来ます。
もう一度御坂神社に戻った時・・
時代が変わり社会や環境がどれほど変わっても、
人には変わらない心があり、
御坂神社の古い杉の木は、
2000年もの間その歴史を見つめ続けて来たとのか思うと、
厳かな気持ちになりました。