熨斗(のし)

のし(熨斗)について、趣味について、色々なことを綴っていきます

浪合を歩いてみたらー②(念流山)

2018-07-14 22:26:00 | 飯田・下伊那

浪合神社近くに念流山(1050m)があります。

 日本の剣道の創始者と言われている慈念和尚は、各地を修行した後晩年を浪合で過ごし、念流山山頂に有る摩利支天を本尊として

修行に努めたと言われています。

せっかく浪合に来たついでに山頂まで行ってみようと思いました。

あまり登る人もいないような感じもしたけれど、道は綺麗に整備されていました。

  

空の見えない森の中、約2m四方もあるような大きな石があり、

「座禅石」と書かれています。

慈念和尚が座禅を組み、瞑想したと言われている石だそうです。

山頂には幾つもの大きな石がありました。

その上に念流山摩利支天の祠が安置されています。

時々、山頂近くに摩利支天のある山があり、「摩利支天」て何だろう?・・って思っていたのですが、

今頃になって辞典で調べてみました。

幾つかある辞典の中で、この説明が一番しっくりきました。

「サンスクリット語マリーチの音写語。かげろう、日の光を意味することばで、その神格化でもある。

昔、帝釈天が阿修羅と戦った時、日と月を守ったと言われていて、自らは陰形、つまり姿を見せないがこの神を

念ずると他人はその人を見ず、知らず、害することなく、欺くことなく、縛することなく、罰することがないという。

日本では武士の守護神とされた」らしい。

 

その他、浪合には「浪合関所跡」がありました。

舗装された道路が行き止まり、100mほど歩くと・・・

向こうの方に「関所跡」が見えてきました。

説明より(略)

戦国時代、伊那谷を手中にいた武田信玄は、駿河・三河への進出を計画し、

この伊那往還を軍事用として整備を進め、街道の整備と共に南信濃の諸将の動向を監視するために、

6か所の関所を配置した。その中でもこの浪合関所は重要視されていた。

信州と三河を結ぶ伊那街道は、江戸・京都間の中山道や東海道の裏街道として庶民に利用され、

江戸時代に入ると厳しく「入り鉄砲、出女」が厳しく取り締まられた。

浪合関所南門は復元ですが、礎石4基や周りの石垣は当時のまま残されていて、

往時を偲ぶことができます。

関所が存続した期間は、信玄創設以来315年、明治二年に廃止された。

敷地内には古い稲荷神社も残されていました。

 

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浪合を歩いてみたらー①(大鹿から浪合へ歴史は続く)

2018-07-09 11:57:38 | 飯田・下伊那

 以前大鹿村を歩いてみてー

南北朝時代に生きた宗良(むねなが)親王(後醍醐天皇の第八皇子)は「信濃の宮」とも呼ばれ

30余年に渡って大鹿村大河原に滞在し、南朝復興に尽力したが念願叶わず大河原の地に没した。

大鹿村はその歴史の中で宗良親王の東国南朝の基地また精神的拠点として重要な役割を果たしていたことが分かった

のですが、宗良親王のその後(子孫)の事は知るに至らなかった。

 

たまたま見かけた阿智村浪合のパンフレットの中に「尹良(ゆきよし)親王」という名前を見つけました。

 

阿智村浪合にある浪合神社に行ってみると・・

立派な杉並木の参道に導かれた先には浪合神社の謂れを書いた説明書きがあり、

そこには「尹良親王は後醍醐天皇の第八皇子宗長親王の第二皇子で、御母は井伊城城主(静岡県)井伊介道政の娘。

南北朝(1336~1392)動乱の時代、御父宗良親王と共に東国までも遠征して、南朝の再興に奔走されまし

た。」・・・・とある。

確か宗良親王は青崩峠を越えて遠山郷に抜け大鹿村大河原に入ったと言われていた。

 

昨年の大河ドラマの主人公井伊直虎とも関係があるのだろうか?

井伊直虎を調べていたらこんな記述がありました。

「遠江井伊家は弓と歌の家」・・・・

【新古今和歌集】の編纂で歌人として名高い宗長親王を保護していた折、井伊家でも和歌がブームになった

ことに由来していると書かれていました。

別の書物には、宗良親王は1338年東国攻めの海上途中、暴風のため駿河湾白羽の湊に漂着、井伊城に身を寄せまし

た。その後、信濃国大鹿村大河原に入ったと書かれています。

 

なるほど、ここで井伊城との繋がりが出てきました。

ただ、尹良親王の浪合での歴史は悲しい物語です。 

 

杉並木を抜け石段を上った先に初夏の日差しを受けた浪合神社が見え、

誰もいない静まり返った境内には夏ゼミの声が響き渡っていました。

・・・・宗良親王と共に南朝の再興に奔走した後南朝と北朝が統一し、室町時代に入ると、北朝軍の攻撃を受け、

勢の従臣に守られて上野国から三河に向かう途中、この浪合の地で北朝側の土賊に襲われ命を落としたと書かれてい

ます。

浪合神社は室町時代この地で命を落とした尹良親王の魂を祀った事が始まりであるとされています。

多くの従臣と共に浪合の地で戦死した尹良親王は

「思ひきや幾瀬の淵をしのぎきて この浪合に沈むべきとは」という歌を詠んだと伝えられています。


神社から少し離れた所に

尹良親王の御墓があり、尹良親王の御首を埋め奉った場所」と伝えられ御墓が築かれていました。

又、境内には「明治天皇勅使の来村の経緯が刻まれた「勅使参向の碑」があります。

この勅使来村後、明治天皇は尹良親王御事蹟の調査を命じ

明治14年尹良親王の御墓は正式に後醍醐天皇皇孫尹良親王御墓と認められ、以来宮内庁管轄下に置かれることにな

ったことが「なみあい」の書物には書かれています。

 

尹良親王の墓の近くにはいくつかの小塚(杜)があり、親王に殉じて戦死した戦死者を埋葬した場所と伝えられ

ます。

今も尹良親王の近くで親王をお守りしているかのように静かに祀られていました。

浪合村中心部の東方に御所平と呼ばれる場所があり、

ここは尹良親王の御座所があったところと伝えられ親王を祀る祠があります。

御所桜と呼ばれる桜は、今は浪合のとうもろこし畑の緑の中で緑の葉を広げゆったりと風に揺られていました。

   

参考文献「なみあい」他、パンフレットなど

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