熨斗(のし)

のし(熨斗)について、趣味について、色々なことを綴っていきます

ガボッチョ

2018-06-23 00:58:32 | 

忙しい友人が「少ししか時間がないんだけど、どこかへ行ってきれいな空気をいっぱい吸いたいなぁ~」と言うので、

(きれいな空気かぁー)

少し歩けて、少し汗かけて、きれいな空気がいっぱい吸えて・・・なんて考えながら長野県の地図を見ていて、

車で入って行ける霧ヶ峰付近はどうだろう・・・と思った。

霧ヶ峰の「池のくるみ踊り場湿原」近くに、ガボッチョなんて言う変な名前の山を見つけた。

1678m、標高もちゃんと載っている。

ここへ行ってみよう!

とりあえずガボッチョを探しに行かなくちゃ!!と思って一人で出かけた。

 

「池のくるみ踊り場湿原」周遊コースの入り口から見た景色の中にガボッチョが見えていたことは後で知ることになったのだけれど・・・、

 

近くにいた人に

「ガボッチョへ行きたいのですけれど・・・」と言うと、

「ガボッチョの山頂までは登山道はないよ。ほとんど人が行かないからね。獣道を辿って行くといいかもしれない」という返事。

「ありがとうございます。行ける所まで行ってみます・・・」

池の周遊コースを半分歩き、

 

湿原を抜け、

 

ふと前を見ると背丈ほどのススキの向こうに茶色の丘が見える。

登れる山らしき物はここしかないよね。

この距離からはススキを掻き分け掻き分け、こんもりとした茶色の山頂目指して登る。

 

山頂は少しだけススキが刈り取られていて、ガボッチョと書かれていた。

    

山頂からは八ヶ岳の全容と茅野市、左に首を振ると車山の山頂と蓼科山。

 

何でガボッチョ??と思いながら、今度はどこから下ろうか獣道を探す。

来るとき会った地元の人が言っていた。

「見晴らしがいいから道に迷うことはないけれど、けがをしても誰もいないから、

大声で助けを呼んでも来てくれる人はいないからね。」・・・って。

確かに。

 

ススキを掻き分けて転げるように下りて来ると、ノビタキの声が聞こえた。

 

この付近にはノビタキがたくさんいる。

数年前、車山でノビタキの親子を見つけて、夕暮れになるまでカメラを向けていたことを思い出した。

 

ノビタキの赤ちゃんがゆっくりゆっくり細い枝の上に上って来た。

巣立ちの初めての日だったのだろうか。

枝から下りれなくなったらしく、じっと動かず数時間が過ぎた。

その下でお母さんらしきノビタキが赤ちゃんを見守りながらうろうろと動き回る。

夕暮れになるのにこの親子は大丈夫だろうか・・と思いながら、その姿を数時間見つめていた自分。

・・・その日の事を思い出しながら湿原の周りの遊歩道を歩き、

振り返ってみると、朝見た風景。

あぁ、あの緑色の森の向こうの茶色いこんもりした・・・あれがガボッチョだったんだ。

 

 

 

 

 

 

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大鹿村を歩いてみたら・・・⑤

2018-06-08 19:55:42 | 風景

御所平へ続く林道は今、リニア新幹線のトンネル工事の為、毎日大きなトラックが往来しています。

傍らの石仏が寂し気に工事を見守っているように見えるのは私だけでしょうか?

 

この大鹿村という場所。

今、交通手段が車や電車になり、交通の便では不便な山の中という印象を拭い切れないけれど、

宗良親王を匿い守る為には絶好の場所だったーと、ぐるりと四方を見渡してみると納得するのです。

特に大河原は東西を聳え立つ南アルプス赤石連邦と伊那山地に囲まれている、地球規模での要塞となっているわけで、

日本中探してもこんな地形の所はないのではないかと思うのです。

確かに下伊那地方に落ち武者が隠れ住んだのも頷ける・・。そして、

人が歩いて生活していた時代の事を考えると、

この大河原からは赤石山脈を越える事も不可能ではなく、南下して地蔵峠を越え遠山へ、そして青崩峠を越えれば静岡に至る秋葉街道。

そのまま南下すれば浜松方面、愛知県へ至る。

下の写真の崖崩れ跡が傷跡の様に残る伊那山地の北端大西山を登り、唐松峠を越えて飯田へ、そして木曽の御坂峠を越え岐阜に至る東山道へ。

北に向かえば分杭峠を越えて今の伊那市長谷から高遠へ入り、入笠山を越えて富士見、山梨から関東へ、高遠から杖突峠を越えて諏訪方面へと四方に道は広がっている。

それも、恐らくはそんなに長い時間を費やさなくて峠越えはできただろうと実際に歩いてみて思うのです。

主要地域のほぼ中心にあり、山を越えればどこへも最短距離で行けるというこの場所にリニアが通るのも、

皮肉でもありながら納得がいく気もするのです。

 

宗良親王を敵の攻撃から守る為、山奥の釜沢の奥に御所を建て、宗良親王に仕えたのが大河原城主であった香坂宗高。

南北朝時代、30余年にわたり皇子を守り通し、1407年、大河原城で没したとされています。

大正4年、香坂崇高は宗良親王に忠誠を尽くしたその功績に対して従四位を送られ、

香坂神社に祭られていると書かれていました。

香坂宗高の居城であった大河原城跡は

小渋川を望む絶壁の上にあり、険しい地形を生かした城であったことが想像されます。、

今は城跡碑と説明版が木々に囲まれて静かに立てられていました。

 

その他、この赤石岳を望む上蔵地域には

長野県最古(鎌倉時代 1160年建立)の木造建築として国の重要文化財に指定されている福徳寺や

 

木造二階建ての廻り舞台のある野々宮神社などもあり、歴史の古さを感じさせてくれます。

 

小渋川に架る小渋橋は国の登録有形文化財に指定されています。

 

「山深き 世のひとこともきこえぬに 何を空蝉 なきくらすらん」

「世のうめき 見えぬ山路の蔦の風 いかにふけはか 先うらむらん」

釜沢集落の奥、宗良親王が隠れ住んだ安住の地、御所平まで歩いてみると、

700年も前の句も身に染みて理解できる・・・そんな静かな南アルプスの麓。

( 参考   おおしか村ってこんな村)

リニアのトンネル工事のトラックが歴史ロマンの邪魔をする・・・

 

 

 

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大鹿村を歩いてみたら・・・④

2018-06-06 01:30:06 | 風景

上蔵地区の一段高い静かな森の中に佇む信濃宮(しなのぐう)

信濃宮(しなのみや)と呼ばれた宗良親王を偲んで昭和15年に建立されました。

私自身、歴史に詳しくないので、少し宗良(むねなが)親王について調べてみました。

≪大鹿村ってこんな村より(略)≫

後醍醐天皇の第八皇子・宗良親王は征夷大将軍として、30有余年にわたって大河原に滞在し、明治天皇親政の規範となったと言われる

南北朝時代の動乱の中で、父君の天皇親政樹立のためその人生を捧げるが、志叶わず悲運のうちにこの地で亡くなられた。

親王は後醍醐天皇を父に、二条家の流れを汲む藤原為子を母とし、1311年、生を受ける。

1339年、後醍醐天皇薨去後南朝の勢力は衰退し、宗良親王は遠州・越中・越後など転々とした後、

1343年、大河原の地に足を踏み入れている。

親王32歳、その後の生涯の後半生を大河原で過ごした。

 

宗良親王は歌人でもあり、多くの和歌を残していて、

信濃宮にある石碑に掘られている宗良親王の和歌からも、当時の心境を偲ぶことができる。

  

「君のため 世のためなにかおしからん すててかひある いのちなりせば」

「我を世に ありやととはは 信濃なる伊那とこたえよ 峰の松風」

この地にあって、京都・比叡山や吉野の事を思い詠んだ歌と共に

「いはて思ふ 谷の心もくるしきは 身をうもれ木と 過ごすらん」

「稀にまつ 都のつてもたえねとや 木曽のみさかを 雪埋むなり」

「思いやれ きそのみさかも雲とつる 山のこなたの 五月雨の比」

など、当時最も厳しいと言われていた東山道の神坂峠越えの事も詠まれており、今同じ場所に立ち、同じ道を歩き、同じ峠を越える時、

この歴史ロマンの中に思いを馳せながら、歴史に守られてある今を実感するのです。

この信濃宮から約4km、更に山の中に進むと宝篋印塔(宗良親王の墓標塔と言われている)があり、

 

宗良親王のこの地での薨去を裏付けていると言われています。

 

更に2km先、今でも林道釜沢線の終点となっている地点に

御所平と言われている宗良親王の居住地跡が残されています。

 

大河原城城主香坂高宗に守られ、古い開墾地であるこの地を安住の地とされ、

 

ここでもまた、いくつかの和歌を詠まれています。

 

「信濃の国大河原と申し侍りける深山の中に 心うつくしく庵一二ばかりして住み侍りける。

谷あひの空もいくほどならぬに月を見て侍りし」

「何方も 山の端ちかき柴の戸は 月みる空や すくなかるらむ」

「かりの宿 かこふはかりの呉竹を ありしそのとや 鶯のなく」

説明板にある「谷あひの空もいくほどならぬに月を見て侍りし」・・・を読み

庵の前に立ち見上げた空は、やはり小さく、

おそらく何十年、なん百年の時が経とうと変わってはいないであろうこの山の端の風景を見ながら、

  

月の夜ばかりではなかったろうにと思う時、聞こえてくるのは夏ゼミの声と遠くで聞こえる鹿の鳴き声。

そして、キツツキの木を叩く音。

御所平から戻る道、一番山の中の釜沢集落が木々の間から見え、

上蔵集落が見えて来るまでには、歩いて約1時間半ほどはかかる道のりだった。

今でこそ車が通れる道ではあるけれど、昔はきっと獣道くらいであっただろうに・・と思う。

上蔵集落に戻って、宗良親王を守った大河原城主、香坂高宗の墓と大河原城跡を見て行こう。

 

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大鹿村を歩いてみたら・・・③

2018-06-02 01:35:53 | 風景

大西山公園に車を停めて歩き始めた大鹿村ウォーク3回目ー大河原地区です。

最初に見たのが「大鹿村騒動記」のロケ地にもなった大磧神社。

毎年5月3日に大鹿歌舞伎春の定期公演が行われる神社です。

林の中の細い道を歩いて行くと、村の人たちに「お堂」と呼ばれている三十三所堂が見えてきました。

山里の遅い春、透き通るような新緑の中にひっそりと建つお堂。

かつては尼僧が住んでいたと言われているこのお堂の前に立つと、

一人、タイムスリップしたような畏れを感じ、鳥のさえずりで我に返る・・

そんな時を過ごし森の中から抜け出しました。

赤石岳が目の前に大きく見えてきました。

沢戸集落から上蔵集落に向かう道です。

眼下に見える上蔵(わぞ)集落の中心部。

大銀杏の木の横に県下最古の木造建築で国の重要文化財の福徳寺が見えます。

 

 

この小さな集落の中に、重要文化財の福徳寺や廻り舞台のある野々宮神社、大河原城址と城主だった高坂高宗の墓など見たいところはいっぱいなのですが、

私的にもっと魅力的だったのはこの石を積み上げた畔のある田んぼ。

 

上蔵の中心部が小さく見えるようになるほど高い所にある集落の外れには、

城壁の様に几帳面に積み上げられた石垣の畔に囲まれた棚田がありました。

山と山の間にある僅かな斜面で米を作る為の、先人の知恵と努力の結晶が今尚この村で生きているのを肌で感じ、

てくてく歩いてきて良かったな・・・と思ったのです。

「今は田んぼが作れず草むらになってしまったところや、石垣が崩れてしまったところもたくさんあるけれど、

僕らが子供の頃はこういう田んぼがいっぱいあったに。」と村の人が教えてくれました。

 

しばらく歩き、林の道を抜けると山あいにあったのは・・・木造校舎???

 

「延齢草」という名の木造校舎の宿でした。

大河原中学校の木造校舎を移築、復元した建物だそうです。

「延齢草」という看板に(延齢草の群生地でもあるのか)と,導かれて辿り着いた、

この日最も遠い場所。

温かい木造校舎の建物の中で少し休ませて頂きました。

又ここでも村の人に親切にして頂きました。

 

ここから上蔵集落の中心地に戻ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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