今日は大宮神社のお祭りでした。
我が錦町の”錦龍”が上田屋にやってきました。
暗闇の龍は鋭い青い目をして妖艶な出で立ちです。
「わっしょい!わっしょい!!」と大盛り上がり!!
上田屋前でちょっと休憩。ビールをガソリンに、もうひと頑張りです。
他の地区の御神輿も通って行きました。
御神輿を見送った後は、我が家で夕食を食べながら花火を鑑賞!
(うまく撮れませんでした 泣)
花火はとっても綺麗でした。
年に一度の楽しみです。御神輿担いだ皆さん、お疲れさまでした!
上田屋のし店
今日は大宮神社のお祭りでした。
我が錦町の”錦龍”が上田屋にやってきました。
暗闇の龍は鋭い青い目をして妖艶な出で立ちです。
「わっしょい!わっしょい!!」と大盛り上がり!!
上田屋前でちょっと休憩。ビールをガソリンに、もうひと頑張りです。
他の地区の御神輿も通って行きました。
御神輿を見送った後は、我が家で夕食を食べながら花火を鑑賞!
(うまく撮れませんでした 泣)
花火はとっても綺麗でした。
年に一度の楽しみです。御神輿担いだ皆さん、お疲れさまでした!
上田屋のし店
先日こんな絵葉書を購入しました。
世界地図(左側がアメリカ大陸、右側に日本)が描いてある葉書に、針と赤い糸がついています。
ちょうどアメリカのメリーランド州Baltimoreに住む友人に手紙を書こうと思っていたので、
この葉書を使ってみました。
BaltimoreはWashingtonの近くで、アメリカのこの辺です。
付属の針と糸を使って、長野県とBaltimoreを繋いでみました。
あれ?何だか一直線。
調べてみると、緯度がほとんど一緒でした。
正確には盛岡あたりがちょうど同じ緯度あたります。
すごく遠いと思っていましたが、まっすぐ進めば着きそうな気がして妙に近く感じました。
アメリカ人の友人には、この葉書と熨斗のしおりをプレゼント。
友人の名前はKate、 私に英語を教えてくれた人です。
国が違うからか日本人と感覚が違い、I miss you とか
I miss hearing from you とか、あまりに素直に言ってくれるので、
聞いている私の心も柔らかくなります。
大切な事だなぁって思います。
「遠く離れているけれど、ほら、気持ちは真っすぐ繋がっているよ」って
手紙に書きたいと思います。
(ええと、英訳しなくちゃ????)
返事が来たらお知らせしますね。
上田屋のし店
もう数年来会っていなかったし、元々それほど親しいという訳でもなかった友人からの突然のメール。
我社の熨斗の事で用があり、今日は飯田に行くからという事なので、
品物を取りに来てもらう事にしました。
ホントに珍しい事です。
小川路峠に立った時、この友人が上村の人であった事が脳裏をかすめた事を思い出しました。
なぜなら、今回は飯田側に車を停めて上って来たので、
飯田側に下らなくてはなりません。
上村側に下りた時、どうすれば飯田に帰れるか考えていた時
ちょっと上村に住むこの友人を思い出したのです。
いやいや、あまりに自分勝手、こんな時だけ友人はないでしょう・・と
自分の考えは打ち消して、もうすっかり忘れていました。
午後3時、友人が品物を取りに来ました。
久し振りなのでちょっとジュースでも飲んで行かない?と部屋に上がってもらって
「先週、ここに行ったよ」とこの写真を見せました。
突然返って来た返事は
「家の土地に入ったの?」
どうゆう事???
「この峠には茶屋があり、その茶屋は自分の家だった」と言うのです。
自分と言っても友人のおじいちゃんがやっていて、S.5年生まれの父親が一年生になる年に
今の場所に引っ越した。
と言うのです。
確か、峠にも説明書きが・・・、写真を見直してみると、
ありました!!!!!
・・・・・・・北側には宝暦時代から大正時代まで続いた(花菱屋)の5間半×12間の本棟作りが有り、
旅人の食事処や、馬の休憩所として栄えた。
この峠は遠山谷と伊那谷とを結ぶ生活物資の交換や文化の中心として、又秋葉山信者の信仰の道として
大いに栄え、賑わった・・・と説明されています。
次の言葉が
「家、花菱屋だけど・・・」
偶然というものは恐ろしいもので、
「えっ・・?今日何しに来たの?」と聞いてしまいました。
友人によると、この小川路峠、昔の住所は下伊那郡上村1番地でここから上村が始まっていた事、
おじいちゃんは、片道8kmを学校まで通い、一番近い隣まで30分、
一日馬100頭が往復したと、お父さんから聞いたと話してくれました。
今は、誰もいないこの場所に、1日100頭の馬が行き来して、人々の話し声が絶えなかったなんて、
今の風景を見ていて俄かには信じがたい、が、友人は
又、あまりに賑やかで忙しかったので、茶屋の勘定は店の前に置いた丼に放り込んで行って、
丼が常に一杯だったとの事、
1600mを越す、涼しい場所なので、蚕種を飯田の製糸工場から預かっていた事など
本当に、この道が生活の場だった事を生々しく話してくれました。
この日、峠から又飯田への道を下って来ましたが
次回は友人の助けを借りて上村に下りてみようと思いました。
それにしても、偶然て凄い。
家に来たのはもしかして茶屋をやってた花菱屋さん?
山も道も松も道標も観音様も、私たちも、みんな今でも生きているよ・・・って。
偶然というのはもしかして偶然ではなく必然なのかもしれない。
おわり
金毘羅様の松を後にし、しばらく歩くと随分標高も高くなって来たのか
辺りは霧に包まれてきました。
路も次第に細くなり、観音様に見守られながらこんな路を進みます。
少し広い場所は人の住んでいた跡。屋敷跡とあります。
屋敷の跡や、茶屋の跡もあり、この道を毎日沢山の人が往来していた事を
物語っています。
霧の間から、朝日が輝いて、光のシャワーを浴びているようでした。
姫の隠れ岩・・・という岩がありました。
丁度、すれ違いも出来ないくらい路が細くなっている場所を見下ろすように岩があります。
ああ、ここにも姫がいたんだ!!
木曽駒ケ岳、濃ヶ池の濃ヶ姫は、隠れる場所がなくなりつつあるけれど、
小川路峠の小川姫(勝手に名前を付けました)は、
岩に隠れなくても大丈夫、もうめったに人は来ないからって
誰か教えてあげなくては可哀そう。
出るに出られず200年。
歩き始めて約、3時間。
もう国道だって事、すっかり忘れていますよね。
ようやく峠に着きました。
ここ、手前が飯田側、向こうへ下れば上村に着きます。
霧の中、ひっそりとした小川路峠でした。
つづく
途中、こんなに大きなサルノコシカケを見つつ、優しく観音様に見守られながらしばらく歩くと、水場がありました。
5里の峠道は水場が少なく、唯一の水場であったと記されていました。
沢の水が木をくり抜いた舟に貯められています。
柔らかな水でした。
モミジなどの木もあり、紅葉の頃はさぞかし綺麗だろうと思わせる道が続き、
金毘羅様と書かれた場所に到着しました。
ここには、右の様な、石に彫られた(金毘羅山)と言う文字と共に菊の紋が彫られています。
寛政8年に福沢氏によって寄進されたと説明があったけれど、
寛政8年て・・・1793年?!
およそ200年前。
金毘羅様の松と呼ばれて、休み場になったり待ち合わせの場でもあった様で、
今は老いてひっそりと立っているこの大きな松は、
きっと若い頃は堂々たる大木だったに違いない。
200年以上も前から時代の流れを見、
大勢の人が寄りかかり、語り合い
大勢の人の笑い声や、嘆きを聞き、
炎天を遮り、雨から人を守り、
時代の流れと共に役目を終えた松の木。
切ないほど愛おしく感じました。
この金毘羅山と書かれた石の横に、もう一つ小さな石がありました。
それがこれ!!
道標です。
右ハ いいだ 左ハ のいけ
と記されています。
飯田から来た路と、千代ののいけから来た路の合流点である事を教えています。
石に、右ハ いいだ 左ハ のいけ と彫った古の人の
優しさが伝わって来るような
そんな場所でした。
書に精通している友人にこの写真を見せたところ、
「石の文字からも優しさが伝わって来るようです。道標には優しさと覚悟が現わされています」
とコメントをもらいました。
初めて石を好きになったかもしれない、道標でした。
つづく