「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

触法精神障害者と 刑事責任能力 (5)

2010年05月30日 20時33分40秒 | 凶悪犯罪と心の問題
 
(前の記事からの続き)

 昨日のフジテレビ 「刑事・鳴沢了」 で、

 触法精神障害者の事件をやっていました。

 連続女性殺人事件の犯人が 精神障害 (詐病) で罪を逃れ、

 被害者遺族が 犯人を殺そうという話です。

 ラストシーン、 遺族役の遠藤憲一の 真に迫る演技は、

 やり場のない 遺族の激しい怒りが 痛切に伝わってきました。

 責任能力がないからといって、 家族を殺された遺族の 犯人に対する憎しみは、

 到底おさまるものではありません。

 その悲しみや怨念は、 僕にも 身を切られるように理解できました。

 では、 詐病の場合は別にして、

 責任能力のない者でも 罰するべきだということになるでしょうか? 

 例えば、 もし仮に 加害者が、

 誰かに催眠術でもかけられて 殺人を犯してしまったとしたら、

 遺族の怒りは 加害者よりも、 催眠術をかけた人間に 向かうのではないでしょうか。

 加害者本人は 殺意も通常の意識もなく、 ただそうさせられてしまっただけで、

 その人に責任があるのではないということが、 遺族にも分かるだろうと思います。

 それと同じように、 例えば 精神病の幻覚や幻聴のために 人を殺めてしまったら、

 それは 本人の意志ではなく、

 「別の力」 によって やらされてしまっただけなのです。

 しかし その場合には、 遺族の感情の ぶつけ所がありません。

 そのため怒りは 加害者向かうしかないのでしょう。

 でも 催眠術の例で考えれば、 加害者に責任はなく、

 憎しみは 加害者に向けるべきではないということが 分かるはずだと思います。

 そこで 刑罰とは別に、 遺族の 怒りや恨みを和らげる、

 心のケアの対処が 必要になってくると考えるのです。

 それは難しいからといって 加害者を罰しても意味はなく、

 法治国家として 国民の心の安寧を 保障していかなければならないと思います。
 

〔追伸〕
 
 催眠術では、かけられた人が元々悪だと思っていること(道義的にできないと思っていること)は、やるように仕向けられてもできないということを、以前TVでやっていたのを思い出しました。
 それは願わしいことですが、上記の日記は例えですから、不都合はないでしょう。
 
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