前作の 「ゲゲゲの鬼太郎」 が 大したことなかったので、
期待していなかったのですが、今回は かなりよくできていました。
鬼太郎が人間を助けても 何も報われないことに 嫌気が差していたり、
単なる勧善懲悪でもなく、きれいごとでもありません。
妖怪ぬらりひょん (緒方拳) が 人間を破滅させようとするとき、
自然を破壊して 争いを繰り返す人間の 愚かさを述べます。
これに対する鬼太郎の言葉、普通なら 「それでも人間には、優しさや希望もある」
とか言うようなところでしょうが、ちょっとひねりが利いていました。
CGも効果的で、鬼太郎の髪の毛針や 砂かけ婆のしょぼい武器も、
スケールアップされています。
終盤の 巨大な骸骨の化け物も 見応えはありました。
妖怪・ぬれ女 (寺島しのぶ) と 人間 (荻原聖人) との愛情も、
ぐっと涙を誘います。
憎しみを抱き続けるのは 虚しいということも思わされましたね。
それにしても、ウエンツ瑛士は どうしてもミスキャストだと思われてなりません。
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ところで、「妖怪」 というのは元来は、「起こる」 ものなのだということです。
僕が所属している 「ユング心理学研究会」 の、
「妖怪学」 のセミナーで聞きました。
(参考:http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29076643&comm_id=1454900)
例えば、寝ているときに足音が聞こえる という 「現象が起きる」 とします。
これは 「ざしきわらし」 がいるからだ、という 「名前」 が付けられます。
足音という 「起こった現象 (=事) 」 に 名前を付けることによって、
不思議な 「事」 を記述してきたのです。
昔からの妖怪の話は 言葉によるものだけで、目に見えないものでした。
水木しげるが描くキャラクターは、コミックの中だけのものです。
在る 「コト」が、居る 「モノ」 に 成っていったということです。
妖怪は、この世的なものと あの世的なものとが 交わる領域に現れるものです。
「物」 と 「心」 の間にある 「事」 として現れるのが、妖怪なのだそうです。
人間は それに名前を付けることによって 人格化し、
相手が何者か 特定して語り合います。
妖怪と人間の付き合いは、「事」 と 「名」 の間に あるというお話でした。