蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「雁と雁の子」を読むー父と子の絆とは?

2005-10-08 00:53:39 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 「雁と雁の子」 [父・水上勉との日々]
   著者 窪島誠一郎  平凡社 刊 2005.8.8 初版第一刷 157頁 1600円

ー帯ー
 いまは亡き、父への手紙 劇的な「邂逅」から27年、はじめて語られる父への想い

 水上 勉 私の好きな作家の一人だ。氏の故郷である若狭。私ももう半世紀も昔か、4歳から12歳まで同じ若狭湾の西のはずれ、丹後の宮津で過ごしたことがある。
 氏の作品には、そのどれを読んでもといってもそれほど多くを読んだわけではないが、故郷、若狭の独特の風土が色濃く感じられる。
 「うらにし」といわれると日本海特有の気候、夏から冬にかけてカラッと晴れる日は少なく、照ったり曇ったり、かと思うとしとしとと雨になったりと、鬱陶しい日が続く。
 そうした中で暮らしていると人の心もまた、うつうつとして、うらみっぽく、陰があって、といって人柄が悪いというわけではないのだが、どことなく言いたいことを言わずに自分のうちにためこんでしまうと言うふうになる。
 氏の作品には、そんな若狭人の湿っぽい恨み節が嫋嫋綿綿として伝わってくるように感じられる。
 だからこそ、しみじみと氏の語り口に惹かれて一冊を読んでしまうのである。

 27年前、劇的な「邂逅」と報じられた、大作家「水上 勉」が、まだ無名の若き日に心ならずも生ませ、貧しさ故に他人に渡してしまい、あの戦争で消息不明となった我が子に戦後30年余りもたって再会した事件。
 この事実をもとに、昭和55年3月、氏は「冬の光景」(毎日新聞社刊)を上梓した。
 
 その出版広告文には次のように記されている。
 
ー男と女の結びつき、親と子の絆とは所詮なんなのだろうかー死んだと思っていたわが子とのおもいもかけない30余年ぶりの邂逅ー「私」はふさがりかけていた傷口を自らおしあけ、指先を血にそめながら、古い暦をめくりはじめた。

 内容は、この紹介文のとおりだった。重いものが伝わってきた。「事実は小説より奇なり」とはこのことかと思った。氏の作品の多くに感じる「人間の哀しみ」の原点がここにあるのかと思った。
 よく自分をここまで丸裸にしてさらけだせるものだと思った。それがこちら側の心を打つ。自分の中にもあるいやらしさや狡さを白日のもとにさらけ出さされる思いがする。

 この本に基づいてTVドラマ化されたのも視た。中村賀津男が窪島氏の養父の貧相ではあるが実直小心なな靴職人を好演していて印象に残った。
 
 それ以来、新聞の文化欄やコラム等で二人の記事が出ると関心をもって見てきた。

 今回も、本書についての新聞の書評(日経か?)を読んで早速買って読んでみた。

 とても興味深かった。実の子でありながら、その実父に30過ぎて再会してみるとついに「お父さん」とは呼べないのである。甘えられないのである。

 親と子の絆について深く考えさせられた。所詮、家族とは「血」有無ではなく、共に日々を泣いたり笑ったりして暮らす中でこそ育まれるものでしかないのではないか。
 だからこそ、子のない人や独り暮らしの人が犬や猫など、他人がみれば単なるペットでしかなくても、その当人にしてみれば「家族」同様となってしまうのではないか。

 「雁と雁の子」文中P.152から

 最初の心筋梗塞で倒れた頃、一度だけ「せいちゃんは僕のこと恨んでいるだろうな」とおっしゃるんです。しらばっくれて「何をですか」と聞いたら、「捨てたんだからな、お前を」というんです。
 
 これが、実の父と子の会話である。

 上掲、「冬の光景」の中で「せいちゃん」ができたことについて次のような一節がある。
 …
 その稲取増子が、急に私よりは倍ぐらいの身長と体重をもつ巨体に見えはじめ、のしかかる重さで気になりだしたのは、妊娠を告げられた日からだった。正直、夏の末に越してきて間もなかった私は、このアパートで彼女と知り合い、秋半ばにはもうそれを宣告されたので、間尺にあわぬようなきがしたのである。
 俺の子か、と問いたかったのを押しころしていたように思う。彼女より一寸ぐらい背丈のひくい痩せっぽちの私には、彼女の「産みますよ」といったことばには威圧感があり、私は上目づかいに、背丈のたかい彼女のしたくちびるのあたりをみすえているしかなかった。

 父、水上 勉 にとって、窪島誠一郎氏が「信濃デッサン館」や最近良く取り上げられる戦没画学生の遺作を収蔵した「無言館」等の設立者というような”優等生?”でなく、多額の借金を抱え著名な父の昔の非情を詰り、ゆすりたかりするような子であったら、あるいはもっと気がらくになれたのではないかという想像してみた。

 また、子である窪島氏も、「父が著名な大作家でなかったら」どうであったろうかと思うのである。

 ちなみに私は、4歳のときあの戦争で父をフイリッピンの戦野で失い、「父」を知らない。だから、よけいに「本書」にはある羨ましさを感じてもいる。
 

「雁と雁の子」を読むー父と子の絆とは?

2005-10-08 00:53:39 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 「雁と雁の子」 [父・水上勉との日々]
   著者 窪島誠一郎  平凡社 刊 2005.8.8 初版第一刷 157頁 1600円

ー帯ー
 いまは亡き、父への手紙 劇的な「邂逅」から27年、はじめて語られる父への想い

 水上 勉 私の好きな作家の一人だ。氏の故郷である若狭。私ももう半世紀も昔か、4歳から12歳まで同じ若狭湾の西のはずれ、丹後の宮津で過ごしたことがある。
 氏の作品には、そのどれを読んでもといってもそれほど多くを読んだわけではないが、故郷、若狭の独特の風土が色濃く感じられる。
 「うらにし」といわれると日本海特有の気候、夏から冬にかけてカラッと晴れる日は少なく、照ったり曇ったり、かと思うとしとしとと雨になったりと、鬱陶しい日が続く。
 そうした中で暮らしていると人の心もまた、うつうつとして、うらみっぽく、陰があって、といって人柄が悪いというわけではないのだが、どことなく言いたいことを言わずに自分のうちにためこんでしまうと言うふうになる。
 氏の作品には、そんな若狭人の湿っぽい恨み節が嫋嫋綿綿として伝わってくるように感じられる。
 だからこそ、しみじみと氏の語り口に惹かれて一冊を読んでしまうのである。

 27年前、劇的な「邂逅」と報じられた、大作家「水上 勉」が、まだ無名の若き日に心ならずも生ませ、貧しさ故に他人に渡してしまい、あの戦争で消息不明となった我が子に戦後30年余りもたって再会した事件。
 この事実をもとに、昭和55年3月、氏は「冬の光景」(毎日新聞社刊)を上梓した。
 
 その出版広告文には次のように記されている。
 
ー男と女の結びつき、親と子の絆とは所詮なんなのだろうかー死んだと思っていたわが子とのおもいもかけない30余年ぶりの邂逅ー「私」はふさがりかけていた傷口を自らおしあけ、指先を血にそめながら、古い暦をめくりはじめた。

 内容は、この紹介文のとおりだった。重いものが伝わってきた。「事実は小説より奇なり」とはこのことかと思った。氏の作品の多くに感じる「人間の哀しみ」の原点がここにあるのかと思った。
 よく自分をここまで丸裸にしてさらけだせるものだと思った。それがこちら側の心を打つ。自分の中にもあるいやらしさや狡さを白日のもとにさらけ出さされる思いがする。

 この本に基づいてTVドラマ化されたのも視た。中村賀津男が窪島氏の養父の貧相ではあるが実直小心なな靴職人を好演していて印象に残った。
 
 それ以来、新聞の文化欄やコラム等で二人の記事が出ると関心をもって見てきた。

 今回も、本書についての新聞の書評(日経か?)を読んで早速買って読んでみた。

 とても興味深かった。実の子でありながら、その実父に30過ぎて再会してみるとついに「お父さん」とは呼べないのである。甘えられないのである。

 親と子の絆について深く考えさせられた。所詮、家族とは「血」有無ではなく、共に日々を泣いたり笑ったりして暮らす中でこそ育まれるものでしかないのではないか。
 だからこそ、子のない人や独り暮らしの人が犬や猫など、他人がみれば単なるペットでしかなくても、その当人にしてみれば「家族」同様となってしまうのではないか。

 「雁と雁の子」文中P.152から

 最初の心筋梗塞で倒れた頃、一度だけ「せいちゃんは僕のこと恨んでいるだろうな」とおっしゃるんです。しらばっくれて「何をですか」と聞いたら、「捨てたんだからな、お前を」というんです。
 
 これが、実の父と子の会話である。

 上掲、「冬の光景」の中で「せいちゃん」ができたことについて次のような一節がある。
 …
 その稲取増子が、急に私よりは倍ぐらいの身長と体重をもつ巨体に見えはじめ、のしかかる重さで気になりだしたのは、妊娠を告げられた日からだった。正直、夏の末に越してきて間もなかった私は、このアパートで彼女と知り合い、秋半ばにはもうそれを宣告されたので、間尺にあわぬようなきがしたのである。
 俺の子か、と問いたかったのを押しころしていたように思う。彼女より一寸ぐらい背丈のひくい痩せっぽちの私には、彼女の「産みますよ」といったことばには威圧感があり、私は上目づかいに、背丈のたかい彼女のしたくちびるのあたりをみすえているしかなかった。

 父、水上 勉 にとって、窪島誠一郎氏が「信濃デッサン館」や最近良く取り上げられる戦没画学生の遺作を収蔵した「無言館」等の設立者というような”優等生?”でなく、多額の借金を抱え著名な父の昔の非情を詰り、ゆすりたかりするような子であったら、あるいはもっと気がらくになれたのではないかという想像してみた。

 また、子である窪島氏も、「父が著名な大作家でなかったら」どうであったろうかと思うのである。

 ちなみに私は、4歳のときあの戦争で父をフイリッピンの戦野で失い、「父」を知らない。だから、よけいに「本書」にはある羨ましさを感じてもいる。
 

ちょっとの散歩のつもりが標高1000M以上とは!

2005-10-04 01:08:48 | 田舎暮らし賛歌
田舎暮らし賛歌

 今日昼前、天気よくここのところいつも雲に隠れていた鳳凰三山のあたまが見えた。急にちょっと出かけてみたくなった。
 こんなときは軽トラが最高。どんな狭い道でもスイスイ行ける。
 国道20号を横切り鳳凰三山に誘われるように青木鉱泉(約25分)との標識に誘われその道に入る。だんだん人家は無くなり道幅は狭く舗装がなくなりじでこぼこの砂利道になった。
 今時、公共工事大盤振る舞いのお陰で日本国中たいていにの道という道は舗装されてしまった。だから田舎といえども舗装されていないということはそうとう覚悟を決めてはいらないととんでもないことになる。行き止まり。Uターン困難等々。

 それでも前方に泥ぼこリがたっている。ということは先行車がいるということ。やや心安らかになって前へ進む。
 やがて、思いがけず舗装路に出たと思ったら御座石鉱泉だった。

 平日と言うのに2、3台他県NOの車が駐車している。
 其処を過ぎて更にいくと精進滝への入り口についた。

 標高100なんMとか書いてある。でも案内板を読むと、駐車場から滝までは片道40分とある。軽い気持ちで出てきたので飲み物も何も持っていない。
 つり橋をを渡って少し山道を登り何か紫いろのホタルブクロに似た野草の美しさにみとれて引き換えしてきた。その道すがら2、3人の婦人の登山者とすれ違った。「こんにちは」と挨拶してくれる。
 うれしくなぜか幸せな気持ちになる。 

 これもまた田舎暮らしの醍醐味である。

 おおげさな旅支度なんかしなくてもちょっとそこらの公園へ行く軽い気分であっというまに大自然の懐にとびこめるのだ。

 10月8日追記
 
 冒頭の写真の野草、図鑑で調べてみたらトリカブトのようでした。
 
猛毒につき触ってはダメとありましたが、この写真を撮るため、一茎折ってしまいました。美しい花には毒があるとは聞いていましたが、なんとも可憐な花でした。

 そういえば、前にトリカブト殺人事件なんてのがありましたが、この花だったのでしょうか。

 今のところ、私の身には別状ないようです。

 よっぽど人を喰ってきたせいか毒には強いようです。





この秋の収穫ーさつまいも

2005-10-01 23:58:02 | 田舎暮らし賛歌
田舎暮らし賛歌

 
 久しぶりの良い天気。しかし明日はもう雨模様とか。家内が言う。さつまいも早くとらないと甘みがおちるんだってよ、と。
 そうか、じゃあ今日掘ってみるかと昼過ぎから、庭先の5m×3のさつまいも畑の蔓を刈り取りふうふう言いながら掘り出してみた。

 春先、のんきな私が苗を買いに行くともう半ば時期はずれ、売れ残りにこれでもつくのかなと一本20円で買ってきた芋苗。

 それが今立派にほくほくとあかあかと土の中からまさに芋づるしきに出て来た。

 自然の恵みはつくづくありがたいなと思う。

 老妻と二人暮しでは手に余る収穫、明日はさっそく孫のところへ宅急便で送ろうとおもう。

 まさに田舎暮らしの醍醐味ここにありの感を深くした。

虚しい「靖国参拝論議」は、もうやめよう!

2005-10-01 00:18:13 | 時事所感
 今日、小泉総理の靖国参拝を巡り違憲とそうではないとする異なる判決が出た。公用車を使用したとか秘書官が同行したとかの有無によるとか。

 全くくだらない話と思いませんか。

 あの冷酷無情、クールなお人柄と世評の高い小泉総理が何故かくも不戦の誓いとか称して靖国参拝に拘るのか、私には理解しかねる。

 かく言う小生の父も名誉の戦死とかで靖国に祭られているらしいが、私も母も、直ぐ傍の新宿区に住んでいるときもついぞお参りなんかしたことはない。
 そんなところに父の魂がはるばるフイリッピンの戦場から立ち返り、ちんまり納まっているなど想像できないからだ。これをもって不忠不幸の息子と指弾されるのだろうか。

 大体日本人の何人が、霊魂不滅などということを信じているのだろうか。私は人の死後の魂なんぞこれっぽちも信じない。

 ただただ死者の面影は、その肉親や縁在りしひとのの心の中だけにその人が生ある限り生き続けるのだとは思う。私は、そのことを大切に思う。

 そのために、わざわざ靖国とか墓石とか戒名などという装置はみじんも必要だとは思わない。

 靖国を必要とするのは、他人に犠牲を押し付けて自分だけ要領よく生き残った心疾しい輩が自己を正当化するため、或いは気休めのためにでっちあげた空の菓子箱以上の何者でもないのではないか。

 そんなことは百も承知の唯物史観に立脚しているはずの中国共産党がやっきになって、「参拝するな」何んぞというのを聞くと、中国共産党そのものの思想性の脆弱性を疑いたくなる。

 靖国をお参りすることが一体誰のためになるのか?。
 今、こうして書いていてふと思った。それは結局、現に今生きている遺族のためにではないかと。こんなことを書くと、何だお前そんなこと今気がついたのかとばかにされそうである。

 遺族に言わしめれば、「あんたがた、今生きていられるのは誰のお陰よと。私の夫や息子が国の犠牲になったからじゃあないのと。絶対に私たちが国のために払った犠牲を忘れてもらっちゃ困る。許さないよ」と。

 しかし、それをいうなら軍人ばかりではない。それに倍する無辜の国民、朝鮮の人や中国の人々、日本が蹂躙したさらに多くのアジアの地域で犠牲になった人々。その人々に対していかにして贖罪、哀悼の意を示すのか。それをおいて軍人ばかりを何故祭らなければならにのか。

 まして、その戦争に積極的に国民を誘導してしていったA級戦犯をあがめるとは。死んでしまえば神になるなぞと言うのは身内にだけしか通用しない言い方ではないか。
 日本人は、昔から平将門、菅原道真のように政敵として滅ぼしておきながら、後でその祟りが怖いといって神に祭ってきた。

 さすれば先の大戦についても国民一人一人戦時中は万歳三唱してきた疾しさから、東条一派ににだけ戦犯の罪を着せたのではその祟りが怖いので一緒くたに祭り上げることにしたのかと問いたい。
 しかし、こんな屈折した日本人特有の心理を中国共産党に理解しろといっても土台無理だろう。

 靖国は単なる「ゲーム」でしかないのではないか。
 過去のことは直ぐに水にながしてあいまいにしてしまいたい日本人と、いつまでも執拗に敵失を追求し其処から何がしかの利益を貪ろうとするスッポンのような貪欲な者との。

 死者の魂なぞどこにも無いのだ。殺されたものたちに生き残ったものたちがどんに慟哭しようが叫ぼうが、騒ごうが何にも届きはしないのだ。
 この冷厳、厳粛な真実の前でいつまで愚かしいお芝居ごっこをすれば気が済むのか。

 それよりも、幸いに今を生きるものたちどうし、人間がかってにつくりあげた縄張りでしかない国境なんかは、かるがると乗り越えて、ともに手を携えて仲良く生きていこうとしないのか。

 過去の戦争で無くなった無数の死者たちの今わの際の願いは、まさにその一点につきるのではないだろうか。