蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

この秋の収穫ーさつまいも

2005-10-01 23:58:02 | 田舎暮らし賛歌
田舎暮らし賛歌

 
 久しぶりの良い天気。しかし明日はもう雨模様とか。家内が言う。さつまいも早くとらないと甘みがおちるんだってよ、と。
 そうか、じゃあ今日掘ってみるかと昼過ぎから、庭先の5m×3のさつまいも畑の蔓を刈り取りふうふう言いながら掘り出してみた。

 春先、のんきな私が苗を買いに行くともう半ば時期はずれ、売れ残りにこれでもつくのかなと一本20円で買ってきた芋苗。

 それが今立派にほくほくとあかあかと土の中からまさに芋づるしきに出て来た。

 自然の恵みはつくづくありがたいなと思う。

 老妻と二人暮しでは手に余る収穫、明日はさっそく孫のところへ宅急便で送ろうとおもう。

 まさに田舎暮らしの醍醐味ここにありの感を深くした。

虚しい「靖国参拝論議」は、もうやめよう!

2005-10-01 00:18:13 | 時事所感
 今日、小泉総理の靖国参拝を巡り違憲とそうではないとする異なる判決が出た。公用車を使用したとか秘書官が同行したとかの有無によるとか。

 全くくだらない話と思いませんか。

 あの冷酷無情、クールなお人柄と世評の高い小泉総理が何故かくも不戦の誓いとか称して靖国参拝に拘るのか、私には理解しかねる。

 かく言う小生の父も名誉の戦死とかで靖国に祭られているらしいが、私も母も、直ぐ傍の新宿区に住んでいるときもついぞお参りなんかしたことはない。
 そんなところに父の魂がはるばるフイリッピンの戦場から立ち返り、ちんまり納まっているなど想像できないからだ。これをもって不忠不幸の息子と指弾されるのだろうか。

 大体日本人の何人が、霊魂不滅などということを信じているのだろうか。私は人の死後の魂なんぞこれっぽちも信じない。

 ただただ死者の面影は、その肉親や縁在りしひとのの心の中だけにその人が生ある限り生き続けるのだとは思う。私は、そのことを大切に思う。

 そのために、わざわざ靖国とか墓石とか戒名などという装置はみじんも必要だとは思わない。

 靖国を必要とするのは、他人に犠牲を押し付けて自分だけ要領よく生き残った心疾しい輩が自己を正当化するため、或いは気休めのためにでっちあげた空の菓子箱以上の何者でもないのではないか。

 そんなことは百も承知の唯物史観に立脚しているはずの中国共産党がやっきになって、「参拝するな」何んぞというのを聞くと、中国共産党そのものの思想性の脆弱性を疑いたくなる。

 靖国をお参りすることが一体誰のためになるのか?。
 今、こうして書いていてふと思った。それは結局、現に今生きている遺族のためにではないかと。こんなことを書くと、何だお前そんなこと今気がついたのかとばかにされそうである。

 遺族に言わしめれば、「あんたがた、今生きていられるのは誰のお陰よと。私の夫や息子が国の犠牲になったからじゃあないのと。絶対に私たちが国のために払った犠牲を忘れてもらっちゃ困る。許さないよ」と。

 しかし、それをいうなら軍人ばかりではない。それに倍する無辜の国民、朝鮮の人や中国の人々、日本が蹂躙したさらに多くのアジアの地域で犠牲になった人々。その人々に対していかにして贖罪、哀悼の意を示すのか。それをおいて軍人ばかりを何故祭らなければならにのか。

 まして、その戦争に積極的に国民を誘導してしていったA級戦犯をあがめるとは。死んでしまえば神になるなぞと言うのは身内にだけしか通用しない言い方ではないか。
 日本人は、昔から平将門、菅原道真のように政敵として滅ぼしておきながら、後でその祟りが怖いといって神に祭ってきた。

 さすれば先の大戦についても国民一人一人戦時中は万歳三唱してきた疾しさから、東条一派ににだけ戦犯の罪を着せたのではその祟りが怖いので一緒くたに祭り上げることにしたのかと問いたい。
 しかし、こんな屈折した日本人特有の心理を中国共産党に理解しろといっても土台無理だろう。

 靖国は単なる「ゲーム」でしかないのではないか。
 過去のことは直ぐに水にながしてあいまいにしてしまいたい日本人と、いつまでも執拗に敵失を追求し其処から何がしかの利益を貪ろうとするスッポンのような貪欲な者との。

 死者の魂なぞどこにも無いのだ。殺されたものたちに生き残ったものたちがどんに慟哭しようが叫ぼうが、騒ごうが何にも届きはしないのだ。
 この冷厳、厳粛な真実の前でいつまで愚かしいお芝居ごっこをすれば気が済むのか。

 それよりも、幸いに今を生きるものたちどうし、人間がかってにつくりあげた縄張りでしかない国境なんかは、かるがると乗り越えて、ともに手を携えて仲良く生きていこうとしないのか。

 過去の戦争で無くなった無数の死者たちの今わの際の願いは、まさにその一点につきるのではないだろうか。