3月18日(金)晴れ、寒気強き一日。
今回の地震災害について、海外の報道では、日本人のあり方を賞賛する報道が際だつと聞く。
例えば、3月16日付けの時事通信の記事では、【ワシントン時事】として、
『「なぜ日本では略奪が起きないのか」―。米メディアは相次いで、議論のテーマに取り上げている。
CNNテレビは、2005年に米国で起きたハリケーン・カトリーナ災害や10年のハイチ大地震を例に「災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか」として意見を募集。視聴者からは「敬意と品格に基づく文化だから」「愛国的な誇り」との分析や、「自立のチャンスを最大限に活用する人々で、進んで助けたくなる」とのエールも寄せられた。』
とある。
また、尖閣問題を巡っては、「日本人を殲滅しろ」とさえ、ネットで吹き荒れた中国では、今やその83%が「日本人を助けろ」という声があるとか。
そして、フジサンケイ ビジネスアイの同日の記事によれば、東日本大震災に、同じく地震に苦しむ中国が高い関心を寄せているとして、
『被災状況の報道の一方で、未曾有の震災に直面した日本人の秩序の良さや、防災対策を評価する声が目立っているとして、新京報(電子版)は「日本大地震はわれわれに何を告げたか」と題する記事を掲載。「教師は最後に電気を消してから教室を離れ、避難民は暗闇の中で秩序正しく並び救済物資を受け取る」と日本人が見せる秩序と冷静さを高く評価している。』という。
さらに、14日付の韓国紙、中央日報は、『東日本大震災で被災地の住民たちが譲り合いの精神を忘れずに対応し、怒号が飛び交うこともなかったと称賛する現地ルポを伝えた。
地震で停電した秋田市内のホテルでは非常食としてうどん10杯が用意されたが、
約50人の宿泊客らは先を争うことなく、互いを気遣ったと紹介した。
こうした冷静な行動は、他人への「迷惑」を避けようとする独自の文化によるものだと分析。被災地での略奪は一件も伝えられていないことに加え、津波に人が巻き込まれる場面を放映しないなど、報道機関も被災者に配慮していると指摘した。』と報じている。
これに対して、国内の報道では、被災者への献血で若い人々が多数応募し長い行列ができるほどだということで、若者を見直す記事もあった。
その一方で、『東京都大田区の大手スーパーでは15日、開店直後から店員の連呼する声が響いた。店員が商品棚にティッシュペーパーを置いたそばから買い物客がひったくるようにかかえていく。店内のカップめんや、缶詰コーナーの棚はすべてカラ。レジには、こぼれ落ちそうなほどに商品を詰め込んだかごを手にした買い物客の列が続いた。』ともある。
一体どちらの姿が今の我々なのだろうか。
思うにどちらもが我々の日常の姿の一面なのではなかろうか。
震災被害者として、行列に並び、避難所に集められた同じ状況の下で他人の目のある場所では、お互いの目を気にして冷静につつましくふるまうのではないか。少しでもお互いに近くに住んでいて知った者同士の隣人の目のある場所では、みっともないことはしたくないという先祖伝来の「恥の文化」が強く抑制として働くのではないか。
ところが都会というお互いの繋がりが無く、不特定多数の他人の目が気にならない場所では、生存本能が剥き出しとなってあらわれるのではなかろうか。
しかしそれはそれで、大都会というコンクリートジャングルの中で、バラバラの個として生きていくうえで、責めることのできない仕方のないことなのでは…。
前者の外国のメディアの目に映った日本人の姿は、渡辺京二著の「逝きし日の面影」で記しされている来日した外国人が見た明治維新前後の古き日本人の良さそのものである。
こうしてみると、まだまだいざとなれば古き良き日本人のDNAが、我々の内にしっかりと残っているということではなかろうか。真に誇らしいことではないか。
そして特に、今や地方で暮らしている日本人の大多数が、そのような良き日本人なのではなかろうか。
その反面で、最近のメディアで報じられる石原夜郎自大閣下がのたまった物欲我欲の天罰を受けるべき日本人とは、我々の上澄みに浮遊するゴミのような僅かな存在を、売らんがために面白おかしく針小棒大にさしてのことではなかろうか。
今回の大震災は、我々が忘れていた本来の自分たちの良さを再認識させ、新たな国づくりに自信を取り戻す契機となりうるのではなかろうか。
それはGDPで何番目というような安易な数字では計られないものとしてである。
今回の地震災害について、海外の報道では、日本人のあり方を賞賛する報道が際だつと聞く。
例えば、3月16日付けの時事通信の記事では、【ワシントン時事】として、
『「なぜ日本では略奪が起きないのか」―。米メディアは相次いで、議論のテーマに取り上げている。
CNNテレビは、2005年に米国で起きたハリケーン・カトリーナ災害や10年のハイチ大地震を例に「災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか」として意見を募集。視聴者からは「敬意と品格に基づく文化だから」「愛国的な誇り」との分析や、「自立のチャンスを最大限に活用する人々で、進んで助けたくなる」とのエールも寄せられた。』
とある。
また、尖閣問題を巡っては、「日本人を殲滅しろ」とさえ、ネットで吹き荒れた中国では、今やその83%が「日本人を助けろ」という声があるとか。
そして、フジサンケイ ビジネスアイの同日の記事によれば、東日本大震災に、同じく地震に苦しむ中国が高い関心を寄せているとして、
『被災状況の報道の一方で、未曾有の震災に直面した日本人の秩序の良さや、防災対策を評価する声が目立っているとして、新京報(電子版)は「日本大地震はわれわれに何を告げたか」と題する記事を掲載。「教師は最後に電気を消してから教室を離れ、避難民は暗闇の中で秩序正しく並び救済物資を受け取る」と日本人が見せる秩序と冷静さを高く評価している。』という。
さらに、14日付の韓国紙、中央日報は、『東日本大震災で被災地の住民たちが譲り合いの精神を忘れずに対応し、怒号が飛び交うこともなかったと称賛する現地ルポを伝えた。
地震で停電した秋田市内のホテルでは非常食としてうどん10杯が用意されたが、
約50人の宿泊客らは先を争うことなく、互いを気遣ったと紹介した。
こうした冷静な行動は、他人への「迷惑」を避けようとする独自の文化によるものだと分析。被災地での略奪は一件も伝えられていないことに加え、津波に人が巻き込まれる場面を放映しないなど、報道機関も被災者に配慮していると指摘した。』と報じている。
これに対して、国内の報道では、被災者への献血で若い人々が多数応募し長い行列ができるほどだということで、若者を見直す記事もあった。
その一方で、『東京都大田区の大手スーパーでは15日、開店直後から店員の連呼する声が響いた。店員が商品棚にティッシュペーパーを置いたそばから買い物客がひったくるようにかかえていく。店内のカップめんや、缶詰コーナーの棚はすべてカラ。レジには、こぼれ落ちそうなほどに商品を詰め込んだかごを手にした買い物客の列が続いた。』ともある。
一体どちらの姿が今の我々なのだろうか。
思うにどちらもが我々の日常の姿の一面なのではなかろうか。
震災被害者として、行列に並び、避難所に集められた同じ状況の下で他人の目のある場所では、お互いの目を気にして冷静につつましくふるまうのではないか。少しでもお互いに近くに住んでいて知った者同士の隣人の目のある場所では、みっともないことはしたくないという先祖伝来の「恥の文化」が強く抑制として働くのではないか。
ところが都会というお互いの繋がりが無く、不特定多数の他人の目が気にならない場所では、生存本能が剥き出しとなってあらわれるのではなかろうか。
しかしそれはそれで、大都会というコンクリートジャングルの中で、バラバラの個として生きていくうえで、責めることのできない仕方のないことなのでは…。
前者の外国のメディアの目に映った日本人の姿は、渡辺京二著の「逝きし日の面影」で記しされている来日した外国人が見た明治維新前後の古き日本人の良さそのものである。
こうしてみると、まだまだいざとなれば古き良き日本人のDNAが、我々の内にしっかりと残っているということではなかろうか。真に誇らしいことではないか。
そして特に、今や地方で暮らしている日本人の大多数が、そのような良き日本人なのではなかろうか。
その反面で、最近のメディアで報じられる石原夜郎自大閣下がのたまった物欲我欲の天罰を受けるべき日本人とは、我々の上澄みに浮遊するゴミのような僅かな存在を、売らんがために面白おかしく針小棒大にさしてのことではなかろうか。
今回の大震災は、我々が忘れていた本来の自分たちの良さを再認識させ、新たな国づくりに自信を取り戻す契機となりうるのではなかろうか。
それはGDPで何番目というような安易な数字では計られないものとしてである。
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