蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

女の時代!?―女侠客、追分のお侠?―

2009-01-12 19:04:51 | 日常雑感
1月12日(月)曇り時々小雪、時に薄日差す。

  昨日、何気なくTVを視ていたら全国都道府県対抗女子駅伝を報じていた。京都が五連覇の優勝とのこと。
その大きな要因が双子の中学生だという。しかもその一人、久馬萌さんは区間新記録とか。凄いものだ。
  これに反して、先日の男子、箱根駅伝では、低血糖症で脱落した選手が泣きじゃくる姿をみたばかりだ。
  京都の女性は、私にとって長年その優しい京都弁とともにあこがれのまとだった。その優しさの象徴のような京都の女性チームが5連覇もしていたとは、まさに私にとって衝撃の事実だった。
  昨年のオリンピックを見ても女子ソフト、バレーボール、サッカー、レスリング、柔道と女性の活躍ばかりが記憶に残った。
 
  ところで女性が活躍というか、元気な時代は、どうも世の中の乱れと関係があるようだ。

  というのは、先日、BSで珍しく東映時代劇、天保水滸伝をやっていた。今から見れば豪華絢爛キャスト。美空ひばり、市川右大衛門、片岡千恵蔵、東千代助、中村錦之助…。話はご存知、笹川の繁蔵と飯岡の助五郎の利根の河原の大喧嘩である。

  この映画では、飯岡の助五郎が笹川の繁蔵に殺されてしまうのだが、どうも私が前に読んだ史実とは違うようだ。
  そこで気になってグーグルで検索してみたらやはりそうだった。笹川の繁蔵は38歳で飯岡方の闇討ちにあって殺されていた。助五郎は近隣の人望も厚く六十余歳の天寿を全うしていた。

 そのついでに、「酔雲庵」さんのブログ、創作ノートに今川徳三著『新・日本侠客百選』の記述が目に止まった。
 それを見て驚いた。何と100選の名の知れた侠客の中に女性が3人もいたのである。 
 中でも私が興味を惹かれ想像をたくましくさせられたのは、追分のお侠という名であった。1820年頃(文政年間)の生まれで男装して、ドスの利いた声には東北訛りがあり、剣の腕前は相当だったとか、だが武蔵妻沼の祭礼賭博の縄張り争いの喧嘩に巻き込まれ重傷を負って亡くなったという。

 そこで歴史年表をめくってみると、1837年から翌々年にかけて奥羽地方では飢饉が頻発して餓死者や流民が多数発生したとある。
 このお侠さんも多分その奥州地方から食い詰めての流民の一人あったのではなかろうか。
 江戸末期、このように博徒が跳梁跋扈した背景は、江戸幕藩体制の弱体化、支配階級たる武士層の気概や実力の劣化によるところだという。
 逆に庶民の側では、養蚕が盛んになり、その担い手である女性が金を握り、その金を持ってお蚕の時期が終わると、みんなで大山詣でとか称して、一月近くも物見遊山の旅を楽しんだとか。男はその間、留守番とか、いわゆる群馬のかかあ天下はこれに端を発するとか…。
 そんな女性客を相手に女博徒も商売がしやすかったのではないだろうか…。
 
 ともあれ、今、活躍されている女性たちと、江戸時代の女博徒と一緒にして論じては誠に申し訳ないが、政治権力機構が腐敗堕落した江戸時代末期にも、まるで今はやりの劇画か漫画にみるような男装の女侠客が跋扈していたとは、なんとも面白いものではないか。
 否、鎌倉幕府崩壊の危機に際しては、尼将軍政子が、室町幕府騒乱の際には日野富子が等々。 これらを鑑みれば、今の女性陣の活躍振りは、まさに男性中心の政治機構支配システムが腐敗弱体化しているなによりものあかしではないだろうか。

  幕末、各地で博徒が跳梁跋扈して庶民を悩ませていた後、西郷隆盛、坂本竜馬、大久保利通というような維新の志士達が登場するには2、3十年を要している。果たして今の私たちは後何年待てば、今回米国人が選んだ未だ未知数とはいえ、何かを期待させるオバマのような一国のリーダーらしい頼りになる指導者の出現をを期待できるだろうか。

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