アメリカ大統領選挙が終盤にさしかかっています。先日その候補者どうしの討論会があり、日本でもテレビ中継され多くの日本人が観たことと思います。よその国のことなのに物好きなことだと思いましたが、わたしもその物好きの一人でした。
それにしても、一国の、というよりも世界一の強国の元首を決めるための選挙活動があのような非難合戦、はたまた誹謗中傷や罵りあいで良いものでしょうか。品性のかけらもありません。そんな米国式民主主義や大統領制は願い下げです。まずはそんな醜態を目にしないだけでも日本人であって良かったと思っているわけです。
日本武術は本来闘争の、はっきり言えば殺し合いの技術ですが、それでも戦う相手に対する敬意は失いません。それを証明する逸話はいくらでもあります。もちろん、時代を問わず神仏を畏れぬ振る舞いをする愚か者がいないわけではありませんが、それらが日本人の心情を引き付けることはまずありません。
その、相手に対する敬意というものがないと上達しない武道、それが合気道です。合気道は、少なくとも稽古においては相手の意思や行動特性を理解していないとうまくいきません。互いに勝手なことをしていたらまったくさまになりません。このことはほとんどの方はおわかりだと思います。この、相手を理解するということがあらゆる人間関係の基礎です。理解したがゆえに嫌いになるということももちろんありますが、理解なしに好意や敬意を持つということは絶対にありません。
相互理解は敬意の前提であり、合気道をする上での必要条件です。そのようなことを日常的に経験する合気道家が、同時に優れた社会人であることは言うを俟ちません。罵りあいなどからは最も遠くにいる人間集団です。
このごろは何かというと世界標準こそが善であるかのような論調が幅をきかせています(わたし自身、自分の合気道技法を世界標準にしたいというようなことを以前に述べたことがありますが、これはちょっと脇に置いておいてください。もともと意味合いが違うので)。例えば、どこそこの国(アジアの小国)では学校教育に英語が用いられ言葉に不自由しないので将来性があるとか世界市民になれるというような話を聞きます。現実に英語が世界共通語であることに異論はありませんが、自国語で語り継ぐような文化や歴史は無いのだろうか(無いわけはないでしょうが)と心配してしまいます。
世界標準とは価値基準を一つにしようということであり、往々にしてそれに外れるものは好ましくないという論調を生み出します。しかし一方では多様な価値観を認めようという意見も強くあり、その時点で矛盾を生じています。そして、いずれの場合も判断の主体は自分です。要するに主観の域を出ません。仮にそれが善意にもとづくものだとしても、主観というのは言い方を変えれば身勝手ということで、そこには相手を理解しようとする態度や姿勢が欠けている可能性があります。
曖昧なことをごちゃごちゃ言ってしまいました。つまり、相手を理解することが上達の秘訣である合気道に縁を持ち、『和』を貴ぶ社会の構成員であることに、わたしは大いに誇りを持っていると、そういうことを言いたかったのです。
それにしても、かつての敗戦国日本があんな愚かしい国家元首選びを、世界標準だからと押し付けられずに本当に良かったです。
それにしても、一国の、というよりも世界一の強国の元首を決めるための選挙活動があのような非難合戦、はたまた誹謗中傷や罵りあいで良いものでしょうか。品性のかけらもありません。そんな米国式民主主義や大統領制は願い下げです。まずはそんな醜態を目にしないだけでも日本人であって良かったと思っているわけです。
日本武術は本来闘争の、はっきり言えば殺し合いの技術ですが、それでも戦う相手に対する敬意は失いません。それを証明する逸話はいくらでもあります。もちろん、時代を問わず神仏を畏れぬ振る舞いをする愚か者がいないわけではありませんが、それらが日本人の心情を引き付けることはまずありません。
その、相手に対する敬意というものがないと上達しない武道、それが合気道です。合気道は、少なくとも稽古においては相手の意思や行動特性を理解していないとうまくいきません。互いに勝手なことをしていたらまったくさまになりません。このことはほとんどの方はおわかりだと思います。この、相手を理解するということがあらゆる人間関係の基礎です。理解したがゆえに嫌いになるということももちろんありますが、理解なしに好意や敬意を持つということは絶対にありません。
相互理解は敬意の前提であり、合気道をする上での必要条件です。そのようなことを日常的に経験する合気道家が、同時に優れた社会人であることは言うを俟ちません。罵りあいなどからは最も遠くにいる人間集団です。
このごろは何かというと世界標準こそが善であるかのような論調が幅をきかせています(わたし自身、自分の合気道技法を世界標準にしたいというようなことを以前に述べたことがありますが、これはちょっと脇に置いておいてください。もともと意味合いが違うので)。例えば、どこそこの国(アジアの小国)では学校教育に英語が用いられ言葉に不自由しないので将来性があるとか世界市民になれるというような話を聞きます。現実に英語が世界共通語であることに異論はありませんが、自国語で語り継ぐような文化や歴史は無いのだろうか(無いわけはないでしょうが)と心配してしまいます。
世界標準とは価値基準を一つにしようということであり、往々にしてそれに外れるものは好ましくないという論調を生み出します。しかし一方では多様な価値観を認めようという意見も強くあり、その時点で矛盾を生じています。そして、いずれの場合も判断の主体は自分です。要するに主観の域を出ません。仮にそれが善意にもとづくものだとしても、主観というのは言い方を変えれば身勝手ということで、そこには相手を理解しようとする態度や姿勢が欠けている可能性があります。
曖昧なことをごちゃごちゃ言ってしまいました。つまり、相手を理解することが上達の秘訣である合気道に縁を持ち、『和』を貴ぶ社会の構成員であることに、わたしは大いに誇りを持っていると、そういうことを言いたかったのです。
それにしても、かつての敗戦国日本があんな愚かしい国家元首選びを、世界標準だからと押し付けられずに本当に良かったです。