合気道ひとりごと

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234≫ 渇いた馬  

2014-04-14 14:53:16 | インポート

 普段の稽古でのわたしの指導は、技法については結構説明が多く、自分で言うのもナンですが、なかなか親切ではないかと思います。いろいろ悩んで技を見につけてきた者としては、知っていることはできるだけ教えてあげたい、そうすればその人はその次の段階からスタートできると思うからです。

 でも、このごろ、それは必ずしも最良の方法ではないのではないかと考えるようになってきているのも事実です。どんな道であれ、自らの足で歩むとき悩みは付き物で、それを一つひとつ乗り越えることこそが修行というものであり、悩んで考えて答えを見つけることなくして目標に達することは難しいのではないか、という思いも片方にはあるのです。なにしろそれはわたし自身が歩んできたあり方そのものでもあるわけですから。

 これまでも述べていますように、わたしが今日まがりなりにも合気道家のはしくれとして斯界の末席に連なっていられる最大の理由は、入門から2年ほどたったころに黒岩洋志雄先生と出会ったことにあります。それまでのわたしは、合気道愛好者としては可もなく不可もなくといった程度のごく普通の稽古者でありました(今でも普通の合気道愛好者ですが)。ただ、生まれつき、完全なもの完璧なものを好む性癖があって、物事の根本がわからないと満足できないという面を持っていました。合気道においても、たとえば今やっていることが本当に武術的な意味で役に立つのかという疑問を持っているような、あまり素直とはいえない稽古者ではありました。

 そのような疑問に正面から答えてくださったのが黒岩先生でした。それはこれまで何度も言ってまいりましたのでここで繰り返す必要はないでしょう。そのことよりも、ここで屁理屈をこねるならば、答えをいただけるということは、こちらが、何が問題なのかということを明確に把握していて、その答えを欲しているということをきちんと伝えることができるということです。わたしはそのことによって合気道の素晴らしさを知ることができました。

 もしわたしが、最初から何の疑問も持つ必要がないような優れた指導者のもとに入門していたとして、それでも今より合気道家としての満足感や幸福感を得られていたかどうか、ここはちょっと考えるところです。疑問のないところに答えはない、とはいえないでしょうか。いつも水に恵まれてのどが渇くことのない人と、渇いたのどに水を得られた人とどちらが幸せか、これはまあ難しい比較ではあります。

 それが自分自身のことであれば、どう転がっても自分の責任ですから心の決着はつけることができますが、ひとに指導するということになると、そのあたりの按配がなかなか難しいと思うのです。

 そうしてみると、わたしはどうも教えすぎる傾向があるようです。完璧を求める性質が指導するときにも表れるからだと思いますが、こちらの間合いを相手に押し付けるのはよろしくないのかもしれません。

 馬を水場まで連れていくのは馬子の仕事だが、水を飲むか飲まないかは馬の勝手だといいます。とはいえ、その場合でも渇いた馬であってほしいとは思うのです、自分がそうであったように。

 わたしの指導を受ける方を含めて馬呼ばわりしているようで申し訳ないのですが、あくまでも物の喩えですので誤解なきよう。そんなところで間が悪いのですが、下に講習会のご案内を載せております。だからというわけではありませんが、今回は『間合い』ということを軸に内容を組み立ててまいります。ご興味がありましたら、お気軽に遊びにおいでください。

 やっぱり教えすぎちゃうかもしれませんけどね。

【お知らせ】

これまでもお伝えしておりますように、黒岩洋志雄先生の合気道理論と技法を軸に、≪遣える合気道≫とはどのようなものかを共に考究する=第8回特別講習会=を平成26年5月18日(日)に開催します。東北の片田舎までおいでいただける方はどうぞご参加ください。

詳細は本ページ左のリンク欄から≪大崎合気会≫ホームページをご覧ください。