合気道ひとりごと

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141≫ 得物考

2010-11-14 16:21:39 | インポート

 言うまでもなく武道において得物(えもの)とは武器あるいは得意技のことです。ここでは合気道における武器術のあり方について私見を述べます。

 最近、ある団体で行なわれた招待演武会の映像を観る機会がありました。そこに収録されているのは、わりあい名の通っている方々による演武で、そのうち複数の方が組太刀、組杖あるいはまた刀取り、杖取り、杖捌きなどを披露しておられました。

 それで思ったことは、合気道における得物の扱いといいますか地位といいますか、つまり冒頭に申しましたように、合気道修行において武器術はどのようなポジションを与えられているか、または与えられるべきかということです。

 大先生は各種武術を研究され、その中には鹿島新當流なども含まれており、また昭和10年前後には本部道場(皇武館)で剣道の稽古も行なわれて各種大会にも出場するなど、合気道は剣術、剣道と浅からぬ関係があります。当時の剣道には組討もあって、合気道の理合が剣の理合と共通するといわれるのも、そのような背景を知れば首肯できるものです。

 しかしながら、現今の指導要領で剣に関わる項目といえば、太刀取りくらいなものではないでしょうか。それ以外のことについては特に指導力を求められるわけでもなく、せいぜい各指導者の興味と能力の範囲でそれぞれに行なっているにすぎません。近年はまた、本部が関わる公式の演武会等においては剣術や杖術をやらせない方向に進んでいます。これは体術が基本の合気道において、稽古の中心は体術であるべきであり、見ばえだけにとらわれて得物を多用することに歯止めをかけておこうという判断によるものであろうと思います。また、本部でやっていないものをあちこちで勝手にやられると権威に関わるという思いもあるかもしれません。

 それらに一理あることを認めた上で、やはり《剣の理合と共通する》という認識を変えないのであれば、それこそ真剣に剣との技法上の連関を明確に示す必要があるのではないでしょうか。それがないから、いろんな先生が独自に剣術、杖術を編み出してこられ、結果として玉石混交の合気剣、合気杖の氾濫を惹き起こしているのだと思います。

 ちなみに、なにが玉でなにが石かを合気道修行の側面から判断するならば、剣や杖を持っての動きが、どれくらいのパーセンテージで体術に変換できるかという点が重要です。なぜならば、合気道において得物を用いた稽古は、得物が求める動きによって体術で陥りがちな勝手な体遣いにしばりをかけ、理に副った動きを手にいれようとするものだからです。したがって、それはあくまでも体術稽古の補完であり、それをもって剣術家や杖術家に対抗しようというものではありません。ですから、いかに格好良くても体術に還元できないような剣杖法は、合気道修行としては意味がありません。

 さて、得物を扱うには最低限知っておかなければならない技法や作法があります。初歩的なことでいうと、たとえば、日本刀というものはきちんと鞘から抜いて鞘に収めるだけでも、なかなか難しいものです。それは木刀でも同じことであって、鞘がなくてもあるごとくに扱う心構えが必要ですし、まして刃部を握るような行為は決して許されるものではありません(言うまでもないことなのですが、往々にしてそのような扱いを目にするので)。ほんの少しでも剣の素養があればわかることなのですが、それでさえ各個の判断に任されているのが実情です。

 これらのことは、お叱りを覚悟で言えば大先生にもいくばくかの責任がおありになるのです。黒岩洋志雄先生にお伺いしたこととして以前に紹介しましたが、本部道場で弟子同士が見よう見まねで剣術の稽古をしていたところ、そこに来られた大先生に見つかり大目玉を食らったすえ、『これさえ覚えておけばよい』と教えていただいたのが《松竹梅の剣》だったということでした。それ以前には岩間の斉藤守弘先生が大先生直伝ということで伝えた合気剣、杖がありますが、大先生としてはいずれかの時点で封印されたということでしょう。かつて斉藤先生の傘下にあったところでは現在も教授されていますが(わたくしの住まいする県もそれに含まれます)、合気会として広めようとはしていません。むしろ、やらないでくれたほうがありがたいというスタンスのように見えます。大先生が最終的に集約した剣術技法としての松竹梅の剣でさえ今はほとんど教伝されていません。

 そういうわけで、剣の理合がどういうものであるかを知りたいと考える人は独自に居合道や古流剣術に頼るしかないわけです。このことは独立した武道としての合気道のあり方として、はたして正常進化といえるのだろうかと考えてしまいます。もちろん、他武道を知ることは大いに結構なことですが、武道たるもの、その武道自身の範疇で教伝が完結していることが前提で、その上で他武道を参考とすべきではないかと思うのです。その意味では、合気道として剣、杖に取り組むカリキュラムが考案される必要があるでしょう。それがしっかり確立されれば、合気道に内包されながら気づかれていない魅力が湧き出してくるのではないかという期待もあります。

 それでもまあ、黒岩先生の棒切れ術が(これ、なかなか的確に合気道の理合を表しているのですが)剣杖に伍して今以上に日の目を見ることはないでしょうね。遺産としてしまうには惜しいのですが。