家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

図書館記念日――本を読むのも大事だが

2006年04月30日 | 家について思ったことなど
4月30日は図書館記念日。
図書館法が公布された昭和25年4月30日にちなんで決めたという。

家づくりにあたって、知識を得るためには書籍が一番身近なツールである。
しかし、家づくりはたぶん人生で一度きりなのでたくさん買い込むのも躊躇した。すぐに図書館で借りるのが一番だ、との考えに至った。
これまで建築関係だけで数十冊(雑誌・ムックを入れたら100冊超えてるかも)は借りたと思う。「自分が払った税金を自ら有効活用できた」と実感できたのは初めてだ。

いろいろ読むうちに、確かに知識は得られてきた。一方、逆に本でミスリードされるリスクも感じた。ほぼ同じことが書いてある本もあれば、まったく対立する観点から書かれた本、宣伝本や警告本、薫陶本やら啓蒙本・・・。
いいこと書いてある本の中にも部分的にトンデモ理論がまじっていたりする。逆に、宣伝本も役に立つ読み方ができることもある。
そこで「施主のための住宅本の読み方」というのがあるといいよなあ、と思い至ったのだった。

さて、ホントに図書館にはお世話になったのだが、本による知識修得にあたっては、『耳学問』とか『生兵法』といった訓示も意識すべきである。本で得た知識ばかりで進めるとリスクがある。実物を見ることはもっと重要なのだ。「百聞は一見にしかず」である。


畳の日――4月29日

2006年04月29日 | 我が家のスペシャルな仕様
い草の緑色から、「みどりの日」の4月29日を「畳の日」と制定したという(全国畳産業振興会)。
「しかし、畳が緑色である期間ってそんなに長くないのになんでだろ」って思ってもう少し調べたら、い草の田園がみどりの日のころに緑一色になるところからきているらしい。

築一年となった我が家の和室の畳はもう緑色とはいえなくなった。
「女房と畳は新しいほうが良い」などというが、新しくないほうがよそよそしい感じがとれて、気兼ねしなくて良いように思う。これもエイジングといえばエイジングか。

せっかくなので、畳の上で大の字になって昼寝した。
畳の上で寝転がるのが気持ちのいい季節を象徴して「畳の日」、という決め方でも良いように思えた。

オール電化「CM」批判

2006年04月27日 | 家について思ったことなど
 オール電化のTVCMにひとこと言いたい。
 特に東京電力のほう。(ちなみに当地方は東京電力と中部電力のCMが流れている)
 ついこの間までのバージョンは、「オール電化にしないと時代に取り残される」というもの。江波杏子扮する義母が鈴木京香扮する嫁にやんわりとオール電化のよさを指摘されるのだが、その後に映し出される義母の脳内イメージは流氷の上に一人で取り残される構図だった。
CMの作り手に攻撃性を感じる。その攻撃性をコミカルな構成でごまかしているところがまたいやらしい。
オール電化の利点もわかるが、ガスの利点もある。なんら合理的な比較もなしに「時代に取り残される」というイメージの植え付けはいただけない。たまに流れるCMならばこんなふうに言及もしないのだが、くどいくらいに流していて、「洗脳でもするつもりか」と思えたので書かせてもらう。

さて、現在のバージョンにも文句を言いたい。
「中華料理の鉄人」陳健一が料理人仲間と鈴木京香の調理を眺めて、IH調理器の火力の強さに驚く、という図。
そこでおかしいのは、炒め物をするのにフライパンをゆすっていること。少し持ち上がっているようにも見える。IH調理器の上でゆすって、火力上どれほどの効果があるのだろうか。
IH調理器の火力の強さは向上しているのは知っている。しかしIHは、基本的に表面に接していなければ熱源が生かされないのではないか。
こんなCMを作ったのも、「IHは火力が弱い」という誤解を解こうという意図であるのだろう。そして、中華料理には向かないと指摘されているのを知って陳健一を登場させたのだろう。
しかし、中華料理の、特に炒め物は中華鍋をあおりながら調理するところに意味がある。IHではさすがにフライパンをあおりながらは作れないので、ゆすっている図を入れ込んだのだと思う。このあたりのCMの作り手の小狡さが気に入らない。
もし、陳健一の調理場で炒め物にIHを使うようになったならば、その映像を流せば効果は絶大なはず。それをやらないということで、おのずと実情が透けて見える。

我が家では以前から使っていた業務用ガスコンロを施主支給しているのだが、先々のことを考えたら、オール電化はともかくIH調理器の利点は理解できるので、将来ガスレンジがいよいよダメになったときには妻と相談しようと思っていた。
しかし、東電のイメージCMによって悪印象は強まるばかりである。えげつないやり方はお客を逃がしかねないと言っておく。

今回のエントリはオール電化への批判ではなく、東電のオール電化のCMへの批判なのでお間違えなきよう。小雪がやっている中部電力のCMはスマートだ。女優としては鈴木京香の方が好きだっただけに残念だ。

縁側で湯上りビールを満喫

2006年04月22日 | 我が家のスペシャルな仕様

気持ちのいい季節になってきた。
今日は湯上りに縁側でビールを飲んだ。
かすかな風に庭木が揺れるのを眺めながら、ゆっくり飲む。これぞのんべえの幸せ。

夏涼しく冬暖かいのもいいが、気持ちのいい季節に気持ちよさをしっかり享受する仕組みも組み込んでおいて良かった。
縁側古屋・・・、こういうものをしみじみ眺めて楽しむようになったのは爺になったということか。





業界人のボヤキ情報の活用

2006年04月21日 | 家について思ったことなど
私は楽観的な方だが、ネガティブな意見を読むことは嫌いではない。大げさなネガティブ表現は注意して読むものの、それでも何がしか得るものはある。
情報には必ず何らかの価値がある。間違った情報は価値がマイナスということになるが、ネガティブな情報は決してマイナスの価値ということはない。

これだけネットが普及してくると、ネガティブ情報に遭遇することは多い。そういったものの一つが建築業界人がポータルサイトの掲示板や、HP、ブログでこぼすボヤキである。
商売仇のやり方をズバズバ切りまくる人もいれば、顧客である施主一般にまで苦言を呈する人もいる。
・工務店社主が自分のところでない別のヒドイ現場を見てため息をつく
・設計事務所の人が同業(と思いたくないらしい)「建築家」の仕事ぶりに文句をつける
・もっといいグレードで安く上がるのに、有名ハウスメーカーに客を取られたとこぼす工務店
・バカな施主が、調子のいいセールストークに躍って喜んでいる、と愚痴るビルダー

ボヤキばかりだと読むのは疲れるが、こういうボヤキを「悪口」とか「ひがみ」とか「営業妨害」とか「我田引水」とかいうように短絡的に受け止めることもないと思っている。そういう要素が含まれることは重々承知のうえで、少々ムリヤリにでも発信者の良心・信念からの警告と読めるものはそう読んでしまえば役に立たないことはないのだ。

多くは「そっちに行ってはいけない」という警告であるのだが、「そっちは○○がいるから気をつけろ」という警告だとして読めばいい。
「マムシ注意」の立看板のあるエリアに入っていかないとおいしいきのこが採れない、などということもある。あえてそちらに進むことだってあるのだ。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という覚悟があるならば、その「虎穴」のリスクをリサーチするのは当然といえば当然。その時に業界人のボヤキ情報は使えなくはないはずだ。ボヤキの対象は大抵その業界人にとっての商売仇なので、ハウスメーカーでも工務店でも設計事務所でもそれぞれがどこかで「虎穴」扱いされている。なんらかのリスクが提示されているのでそれを注意点として記憶しておく。

問題は、実際には「虎穴」ほど恐くはないのに、「虎穴」以上に危険かのように大げさな表現も多いということ。ネガティブ情報は自分のリテラシー能力を考えつつ活用したい。

"A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty."  悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす (ウィンストン・チャーチル)

お得な時期に建てたと思う

2006年04月15日 | 我が家のスペシャルな事情
日銀が量的金融緩和策を解除し、利上げ時期が取りざたされるようになってきた。
実は内心、「してやったり」という心境である。

前日のキャンペーンの話のなかで「家のお買い得な時期はあるのか」と言っておきながらなんだが、マクロな面で長いスパンをみると「お買い得」な時期はあって、我が家はその時期に建てることができたと喜んでいる。
日銀の金融政策の変化がその時期を判定する材料だ。
政策金利というのはあるのが普通の状態で、「ゼロ金利政策」は超特殊なオペレーションなのである。そこよりさらに踏み込んだ「量的金融緩和」なんていう金融政策は、それまでには考えられないような政策だった。住宅ローン金利をとりまく環境として、これ以上のものは考えられない。
到来するチャンスをうかがうようなシロモノではないので、運といってもいいのだが、自分としては、こんな未曾有のオペレーションは遠からず必ず解除されるという確信はあり、せっかく建てるなら今がチャンスだとは思って行動した。
今後しばらくは金利は低めに誘導されるとはいえ、上昇傾向にあることは間違いない。

そもそもデフレだからこんな金融政策になったのだけれど、デフレの恩恵にもちゃんとあずかれるようにとも考えていた。
家という金額の張るモノゆえに、個人のレベルから見たデフレの効果は大きい。自分の給料のことはさておいて、家を建てるのに、人件費・建材が安いデフレは歓迎すべきことだ。
この恩恵をより享受するために、少々無理した予算で「いい材料」を使うことにもした。

ここのところ、デフレから脱却しつつあることを示すように建材値上げのニュースをちょくちょく見かけるようになった。数年後には、「ホントいい時期に建てることができたなあ」と、より一層実感できる状況になるのではないかと考えている。

金利、物価面でここ数年は、数十年に一度、というくらいの「家づくりにお得な時期」だったのではないだろうか。ここまでいい時期に建てるのはめぐり合わせが大きく影響しそうだが、「いい家」を建てるためには前々から時期を意識していることは重要だ。(関連エントリ



キャンペーンの頻度

2006年04月14日 | 家について思ったことなど
 建ててしまったあとだし、実体験もしていなくてなんだが、もしハウスメーカーから「キャンペーン期間中なのでお安くなります」というようなセールストークをされたのなら、聞いてみたいことがある。

どういう狙いのキャンペーンなのか、ということだ。
「この地域のシェアを一段と拡大するため」とかいうならまあいい。シェアを獲るために利幅を抑えて通常より割安にしているということであるならば、施主にとってもメリットがあるからだ。
しかしそれも、キャンペーンが恒例化しているとなると怪しくなる。恒例にしないと売り上げ目標が維持できないからやっていると考えられる。
営業マンのノルマ期日にあわせていつもキャンペーンをしているとすると、別に割安でもなんでもないのではないか。
キャンペーン期間中とそうでない期間の売り上げ比率を見て、キャンペーン期間の売り上げ比率がかなり多いとなると、割安と称している方の価格が標準の価格に近いということになるし、他に同じ条件で契約した人がたくさんいるわけで割安感はほとんど感じない。

だから、キャンペーンを強調されたら、開催頻度を聞いたらいいと思う。
3か月に1回もやっているようなキャンペーンだったら、せかされるのもばかばかしいので「次回のキャンペーンまでに考えますから」と言ってしまいたい。
「キャンペーンといっても種類が違う」というような言い分もあるかもしれない。だとしたら、キャンペーンのラインナップを提示してもらい、何がどうお得なのか解説してもらうことにする。
いずれにしろ、3-5年に一度くらいのキャンペーンだったら少しは興味があるが、毎年やるようなキャンペーンに魅力は感じない。それは決算対策にすぎない。

衣料品なら季節商品の「在庫一掃バーゲン」で安く手に入れるというのは説得力があるが、家はこれからつくるものであって在庫一掃という概念は基本的にないから、「お買い得な時期がある」ということ自体がおかしなことだ。決算対策で安いのは原価も安くあげようとするのではないかとの懸念が頭をもたげる。

本当にお得なキャンペーンはどのくらいあるのだろうか、といつも疑問に思っている。

住宅業界に向けたコンテンツの提案――たぶん実現困難

2006年04月13日 | 家について思ったことなど

住宅業界は顧客獲得のため、それぞれがいろいろな情報を出している。
施主の視点から、こんな情報があったらと面白いというものを列挙してみる。

 ・ 建築家嫌いな業界人が認めざるを得ない建築家・設計事務所の名前 
「建築家」嫌いの業界人は少なからずいて、そういう人々は機会があれば「建築家」を批判している。ただ、「建築家」というか設計事務所にもいろいろタイプがあるわけで、総体として批判的であっても、個別には「評価せざるを得ない」設計事務所はあるのではないか。少なくとも、「まあ認めてやっても良い」とか「酷評するほどではない」という程度のところはあるはずだ。

 ・ 建築家が評価する設計力・デザイン力のある工務店
「設計は古臭くて、デザインもダサい」などと工務店が十把ひとからげに評価されることがあるが、いろいろ見ているとデザイン・設計力に優れた工務店はちゃんとある。建築家が感心するくらいの設計力のある工務店を知りたい。

ハウスメーカー関係者に聞く、自社以外のハウスメーカーベストテン
 とかくハウスメーカー営業マンは自社の良さと他社の悪さばかりを語りたがる。しかし内心、評価している他社はあるだろう。どこかで読んだ施主向けの指南に、「複数の営業マンに2番目にいいハウスメーカーはどこか聞くといい」というのがあったが、いっそのこと統計をとってくれるとありがたい。その統計をとる過程で、実は自社製品に自信のないメーカーほど回答率が悪い、なんていう「使える副産物」も得られそうだ。

工務店や建築家に聞く、あまり割高でないハウスメーカー
  広告費の大きさや、住宅展示場や営業マンを抱える費用を指摘して、「ハウスメーカーの建てる家は割高になる」という業界人を良く見かける。ただ、その一方でハウスメーカーはスケールメリットで部材を安く調達できるという面もある。そこで、実物のグレードを見て判定してもらって、「割高さ」に乏しい(または割安な)ハウスメーカーをあげてもらう。


 実際問題、業界人から上記のような情報は出てこないだろう。自分のビジネスに直接つながらないからだ。
ただ、情報としては間違いなく面白い。ネットで出したら、施主予備軍を引き寄せるコンテンツにはなるように思う。だけど、やっぱり出てこないだろうなあ。


「建具の日」――職人の「仕事」を大切に

2006年04月10日 | 家について思ったことなど
4月10日は「建具の日」。
「4(よ:良)い10(と:戸)」という語呂合わせによる。


実は、かつて我が家の向かいには建具屋さん一家が住んでいた。その家には私と同級生の長男を筆頭に3人の男の子がいて良く一緒に遊んだ。
いつも木のにおいがした作業場は、私の原風景のひとつといえる。

その家の親父さんは働き盛りに亡くなり、建具屋さんは継がれなかった。やがて息子たちはそれぞれ巣立っていき、家はご近所の方が譲り受けた。

作業場は、今は倉庫として活用されている。
我が家づくりでは、ご近所の厚意にずいぶん助けられたが、この倉庫を家財の一時保管場所として使わせてもらえたのは特にありがたかった(関連エントリ)。

家財の中に、かつて商売をしていたときに使っていた大きな反物(たんもの)棚がある。それは、父が建具屋の親父さんに特別に頼んで作ってもらったものである。3人の息子たちの学習机をその親父さんが作ったことを知っていたこともあり、大体の家具は作れるだろうと頼んだものだ。

今から思えばこの反物棚が、かつての建具屋の作業場が使えるよう、とりなしてくれたのではないだろうか。

この反物棚は作られてからかれこれ30年は経っている。今となっては建具屋の親父さんの数少ない現存する「作品」ということになる。
大人4人がかりで運ばなければならないような大きさで、貧乏性を自認する我が家が簡単に捨てられるようなシロモノではなかった。どことなく「昭和のにおい」のような味わいもあり、はなから処分するという発想はなかった。
この反物棚は、現在は「ミシン室」にぴたりと収まっている。
設計段階ですでにそう決めていたことは言うまでもない。


<建具関連のエントリ>
古屋の「雪見障子」のこと
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/af01eeeccb0d56ff1016c4a3995baaff
山小屋の物置に旧家屋の戸を再利用したこと
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/18b552081bafed2ed4cd0acf3af1cbd7
新しい家には「ドア」がひとつもないこと
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/f0f6fea20b41aabc27d6d941cf93ef20

春のやまぼうし

2006年04月08日 | やまぼうし
遠距離通勤のため、起床15分後にばたばたと出かけ、夜に帰宅する私は日中のやまぼうしを見るのは週末だけである。
やまぼうし連合のfinziさんノアノアさんの報告があったので、急いで我が家のやまぼうしを見てみると、うれしいことに新芽が出ていた。

きっと初夏のころには青々と葉を繁らせることだろう。いまから楽しみだ。

成分解析してみた

2006年04月07日 | その他
成分解析
http://seibun.nosv.org/


garaikaの解析結果

garaikaの45%は罠で出来ています
garaikaの40%は波動で出来ています
garaikaの8%はミスリルで出来ています
garaikaの5%は成功の鍵で出来ています
garaikaの2%はお菓子で出来ています


家づくり、行ったり来たりの解析結果

家づくり、行ったり来たりの72%は欲望で出来ています
家づくり、行ったり来たりの11%はスライムで出来ています
家づくり、行ったり来たりの6%は心の壁で出来ています
家づくり、行ったり来たりの6%は理論で出来ています
家づくり、行ったり来たりの5%はお菓子で出来ています


だそうなので、どうやらこのブログは注意して読んだほうがよさそうです。

息子の木、娘の木

2006年04月06日 | 山小屋・ログハウス
 山小屋の周囲には何種類か樹木がある。杉や柿は以前からあったもので、コナラやもみじ、イチョウは後から植えた。

その中に、子供たちの木もある。いずれも両親が孫のためにと植えたものである。

息子のは「さくらんぼの木」。
まあ結局は「さくら」なのだが、「さくらんぼがなる木が欲しい」という言葉を聞いて、ちゃんと実のなるはずの木を調達したこともあり、「さくらんぼの木」としている。

娘のは「ブルーベリー」。
一時期、ブルーベリージャムが気に入った娘を喜ばせようと植栽したものだ。

悲しいかな、貧乏性で食い意地の張った私の性質を子供たちはしっかり受け継いでいる。

それはさておき、自分の木がある、ということは子供たちにもきっと楽しみになると思う。情操教育にもつながるような気がする。

子供と植栽に絡んでは少し悔やんでいることがある。
娘のために、「桐(きり)」を植えておけば良かったということだ。
昔の人は娘が産まれると、桐の木を植えたという話を聞いた。娘が成長して嫁にいくころには、桐も大きくなっていて、それでタンスを作ったのだという。
昔の人はそういうスパンで物事を考えていた。現代人はそういう考え方ができるだろうか。

きっと現代でソレをやったら、もう数が少ない桐箪笥のベテラン職人が面白がって腕まくりしていいものを作ってくれそうな気もする。

まあ、そんなところまで想像をするのも、結局、私の貧乏性の根深さを現していると言えるのだった。

数値性能と住宅の寿命の因果関係

2006年04月04日 | 家について思ったことなど
いわゆる「高性能住宅」の寿命はそうでない住宅と比べて長いといえるのだろうか、という疑問。

一口に高性能といっても、いろいろな性能があるのだが、数値で示される性能をもって「高性能住宅」としていることが多いので、その切り口で考えてみた。

住宅を単にハードとしてみれば、「高性能住宅」はたぶん、そうでない住宅より頑丈で寿命が長いだろう。
それなのになぜ疑問に思うのかというと、施主の家づくりの思考過程を想像するからだ。数字で判定する高性能さにこだわると、将来、その数字があだになって寿命を短くさせはしないか、ということである。

住宅性能というものは絶えずなにがしか進化している。
となると、30年後、自分がこだわった数字はその時点で陳腐化している、ということはないだろうか。
あるいは別の数字で表せる概念が登場して、その数字の優劣をエキセントリックに語る連中が出てきやしないか。
数字ばかりに固執して家を建てると、将来のある時点での新築住宅の数字と比較して、自分の家が低スペックの時代遅れなものに思えてしまうだろう。
まだ使えるのに住人の心情に建て直したいという欲求を生じさせ、結果寿命を長くすることができなくなるのではないかと懸念する。

実際、現在の「高性能住宅」が、数字で表される部分の優劣を武器にして売り込み、「まだ使える住宅」を建て直させている流れを見るにつけ、寿命を延ばす効果を疑念視せざるを得ない。
数字を比較すれば、現在の「高性能住宅」はきっと未来の「高性能住宅」にかなわない。次世代の「高性能住宅」が現代の「高性能住宅」の建て直しを促すという循環が続けば、家の寿命は延びようもない。

家には数字で表現できない性能がたくさんある。
空間の心地よさ、採光、通風、動線、質感、外観、内観、庭・・・
それらは数値で表される性能とも両立するが、その性能単独でも、それぞれに満足感は得られる。

本当に「高性能」な住宅を建てるのならば数値で表せない性能も重要視すべきだ。将来、数値性能部分が未来の住宅に劣ってきても、慣れ親しんだ他の性能が陳腐化していない(場合によってはエイジングして向上している)ことによって、わざわざ壊すこともないと考えることができるだろう。

昔からある「縁側」のような価値のあるパーツを簡単に捨て去った「高性能住宅」のチラシを見るにつけ、そんなことを思う。

メンテナンスフリー考

2006年04月02日 | 家について思ったことなど

 最近の家づくりではメンテナンスフリーなものが好まれる。
 手間要らずって確かに魅力的だ。その流れはおかしなことではない。
だけど、なにもかも手間要らずにすることもないんじゃないだろうか。
家も、手間をかけて「育てていく」ということだってあっていい。

メンテナンスフリーの新建材は劣化が遅いというメリットがある反面、風格・味わいといったエイジングは期待しにくい。新品が最高の状態で、進行は遅いといっても徐々に劣化していく。
メンテナンスフリーでない建材の中には、新品よりも経年変化したモノのほうが価値が高くなっているものもある。そういう素材も新品は新品なりの気持ちよさがあって、その気持ちよさは減退していくものの、日に焼けたり、掃除したりしていくと色がなじんできて落ち着く。そこから別の気持ちよさともいえるエイジング効果が期待できる。

メンテナンスフリーなものの姿は、たぶん今年より来年のほうがつまらない。
メンテナンスフリーな新建材は、劣化が遅いので一見家の寿命を延ばす効果があるように思われるが、30年も経つと、その時代に新しく出てきた新建材に比べてみすぼらしく思えて、むしろ建て直しを後押しすることになりはしないか。
メンテナンスが必要なものは、年々面白みが出てくることがある。大事に使って、風格やその家のオリジナル性が出てくれば、廃棄するには惜しくなり、逆に家の持続性に効果があるだろう。

アンティークの価値はデザインの時代性ばかりではない。長い年月をていねいに使ってきたからこそ滲み出す風格が価値を生んでいることもある。
家もそうした流れがある。ヨーロッパの古い街並みはアンティークに似た価値が見える。


とはいえ、いまどき新建材をまったく使わない、というのは無理がある。
言いたいことはメンテナンスフリーの新建材のカタマリのような家だとさきざきの変化がつまらないかも、ということである。やみくもにメンテナンスフリーを追い求めるより、エイジングを楽しめる部分を確保しておいたらどうかということだ。

メンテナンスという行為は持ち主がそのものに注ぐ愛情と言えるのではないか。
「大事に使っている家」を見てほんわかとした気分になるのはきっとそれを感じるからだ。


余談だが、宮崎駿のアニメーションに出てくる各種大道具・小道具の味わいは、「メンテナンスしている感」がもたらしていると思う。