家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

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しめ縄飾りワイルド

2006年12月27日 | 山小屋・ログハウス
 
山小屋に飾った「しめ縄飾り」。
父の手作りである。
幅は1.5mほどある。見たとおりワイルドなのだ。

よい正月が迎えられますように。
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ブルーベリーの紅葉

2006年12月27日 | 山小屋・ログハウス
 
今日は会社を休んで山小屋行き。
我が家恒例の餅つきをするためだ。昨年に続き、暖かく無風で絶好の餅つき日和
普段使わない筋肉を使ってへとへとになったが、ふと横に目をやると、娘の木「ブルーベリー」が紅葉していて、ちょっとうれしくなった。

ブルーベリーを植えたという報告をしているaiaiさんにトラックバック。
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コタツ待望論

2006年12月24日 | 我が家のスペシャルな事情
 ここのところ我が家で、にわかにコタツを懐かしむ声が増幅中。
床暖房で十分な暖かさは得ているのだが、ようするに「コタツでゴロゴロ」をしたいようなのだ。
我が家に色濃く受け継がれている原日本人の血が目覚めたか。

どうしたものだろう。
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創作四字熟語「○人○色」

2006年12月18日 | 家について思ったことなど
住友生命は、その年の世相を映した「創作四字熟語」を募集し、毎年12月に優秀作、入選作を公表している。今年は14日に発表した。
http://cam.sumitomolife.co.jp/jukugo/

優秀作を少し紹介すると…
・「虚業無常」(諸行無常) 
(きょぎょうむじょう)
一時期盛んにもてはやされた企業も上場廃止になった。
・「除冥処分」(除名処分)
(じょめいしょぶん)
冥王星が惑星から除外された。
・銀盤反舞(大盤振舞)
(ぎんばんそるまい)
身体をおもいっきり反らしてイナバウアー。

等々、いささか「笑点」的ノリを感じつつ、つい感心させられるものがあった。
住宅絡みでは、
「住人怒色」(十人十色)
(じゅうにんどいろ)
というのがあった。言わずと知れた耐震強度計算偽装事件のことだ。
姉歯の罪深さだけでなく、建設業界の様々な問題点をさらけだした。住人の方々が怒るのは当然である。まさに「今年の四字熟語」であろう。

さて、これでふと思いついた創作四字熟語がある。
「住人怒色」の「住人」と、そもそもの四字熟語「十人十色」の「十色」を合体させて、
「住人十色」(じゅうにんといろ)というもの。
十人の人間がいれば十通りの個性がある、という「十人十色」と同じように、十人の住人がいれば家についての考え方も十通りある、と考えたほうがよいだろうということだ。
先日紹介した大平さんのコラムように、家について画一的な考え方をしないほうがいい、と思っている私としてはそれを簡潔にあらわすいい言葉になるなあ、などとほくそえんだ。

と、ここまで書いてきて、はたと気づいた。
「『婦唱夫随』の時のように、誰かがもう使っている言葉かもしれない」と。
「住人十色」でググってみればブログ名に、コラムに、商品名に、意味合いはそれぞれ違うものの、いろいろな人が使っていた。当然、私と同じような考えで言葉を用いている人もいた。

最初に誰が言い出したのかわからないが、「住人十色」という言葉は住宅業界で使うにはなかなかいいキャッチコピーであると思う。家づくりにかかわる人の間でもっと広まっていいと思っている。
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「ながら」の常連

2006年12月13日 | 新幹線通勤
いや~、やってしまった。爆睡。とんでもない場所にいる自分の間抜けさ加減に呆れる。今回は名古屋まで来てしまった。(ちなみに前回
改札のか・わ・い・いおネーさん(注)に、いきなり「『ムーンライトながら』がありますよね」なんて言ってしまう自分の「慣れ」がこわい。
入線してくる「ながら」の神々しさに思わず拝まずにはいられなかった。

注)強調しているわけではなく、TBスパム対策。素直に書いたらあっというまに10個以上TBスパムが来たのでびっくり。まだくるかもしれないが、遅いので寝ます。
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共感――それぞれの「いい家」

2006年12月11日 | 家について思ったことなど
asahi.comの「住まい」欄に大平一枝さんという方が「小さな家の生活日記」というコラムを連載している。
その12月11日号は「古屋の寒さに思うこと」というタイトルだった。
古屋持ち」の私は興味深く読ませてもらった。

「古屋は寒い」と始まっている冒頭から共感したのだが、さらに共感が深まったのが以下の部分。
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今は情報があふれているようにみえるが、じつは一面的だったり、画一的だったりする。ほとんどの情報は、安全で安くて、耐久性、機能性の高い建材や建具をいいとしているが、「いい」の基準は人それぞれで、物差しは違ってよいのだ。私は、木だからこそのメリット、デメリットをてんびんにかけて、それでも、と今の家を借りた。
 結果から言うと、たしかに寒いし、木枠の窓のそばは寒いけれど、それ以上にたくさんの喜びを家族にもたらしてくれているので、とても満足している。
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我が古屋はかつて「サッシ」が出回りはじめた数十年前、危機を迎えた。「木の建具は機能は劣るし時代遅れ」というトレンドが押し寄せてきたのだ。しかし、「サッシにしたら」という勧誘に私の父は頑として応じなかった。「木だからいいんだ」とそのままにこだわった。
おかげで木の建具は現在、そのとき以上の風格をかもし出しプライスレスな価値を高めている。

住宅に関する情報を集めているときから、画一的に「いい」「悪い」を決め付けるような物言いが多いことに辟易としている。
住宅の供給者側が、「ウチに任せればこんなに『いい家』が建てられます」っていうアピールを発するのはいいけれど、それにあわせて「こういう家以外は『いい家』ではありません」って言うのには抵抗がある。
そして、プロである供給者側ならまだしも、先輩施主が「いい」「悪い」を一般論的に語るのはいかがなものかと思う。施主が語れるのは「自分にとって」の「いい・悪い」であるはずだ。

また、特定のスペックが劣っているからといって、「悪い家」扱いされたら、古い家はみんな悪い家になってしまう。
その風潮は「新品志向」を増幅して、日本の住宅寿命をいつまでたっても短命なままにさせかねない。

メリットとデメリットが表裏の関係にあるとき、メリットのためならデメリットを覚悟して住む、そういう人がいた方が面白い。そして、そういう生活や価値観を率直に認める(推奨するという意味ではない)社会のほうが健全だと思う。
画一的な行動しかできない種(生物でも、人種でも、国でも、組織でも)は、想定どおりに動いているときは強いが、何かが起きたときに総体としてもろいし、バリエーションの少なさが突然変異的な種の進化をもたらしにくくするからだ。

「いい」以外は「悪い」。
ひとつひとつのスペックに限定して言うならまだしも、家の総体をそんな単純な構図で説明するのは間違いの元だと思っている。


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「リビング」なのか

2006年12月07日 | 我が家のスペシャルな仕様
考えてみれば弊ブログではリビングのことをほとんど書いてなかった。
リビングといえば家の居室においては要(かなめ)ともいえる存在。
それなのになぜ正面から触れてこなかったのか自分でもちょっと不思議に思った。

我が家のはリビングなのかダイニングなのかはっきりしないことが、リビングというキーワードでの書き込みをしてこなかったことの背景にあるかもしれない。

現代の家の多くはリビングとダイニングがほとんど密着している。こう書くと我が家のもあんまり変わらないようにも思うが、我が家のは「密着」というよりは「融合」。「リビング部分」+「ダイニング部分」という図式にはなっていないのだ。
自分はリビングで食事をとっているのか、ダイニングでくつろいでいるのか、あらためて考えるとよくわからない。

設計に入る前は「リビングとダイニングが密着していて、時に間仕切りできるような仕組みがほしい」というような要望を出していた。
ところが設計事務所が出してきた案は最初から融合型。それは要望を無視したということではなく、予算や他の部屋との配置関係、そして我が家の部屋での過ごし方を勘案して、まずは打診してみたという感じのプランであった。
当方は「間仕切り式リビングダイニング」という案を気に入っていたので、プランをにらめっこして何とかならないかと検討した。しかし、さすがプロ。設計図面の全体を見ているうちに、「これでもいいかも」と思えてきてしまった。
そもそも「間仕切り可能に」という要望は、リビングを通って他の部屋(古屋を含む)にたどり着くことを想定していて、お客さんが来たとき散らかったダイニングを見せたくないということがあった。また、広めのダイニングとリビングが合体することで大空間ができることも期待していた。
しかし、プランでは屋根つきの縁側があって、リビングを通らないで他の部屋に行くことが可能になっていたし、その幅広の縁側のおかげで見た目の空間は広くなっていたのだった。
プランはその後ちょっとずつ変わっていったが、リビングとダイニング融合案は結局最終プランまで変わらなかった。
そうして我が家の「リビングダイニング」というか「ダイニングリビング」というか、そんな居室が出来上がった。キッチンとの間にあるカウンター上部の吊収納の面はミラーとしたため、リビングを広く見せるような工夫もあった。このあたりもプロの設計だと感心した。

ここに設置したダイニングテーブルは高さがやや低いものを選んだうえに、家具屋に頼んでさらに2cm足を切っている。それはリビングとしての空間を意識したせいだ。すなわちテーブルもリビングテーブルとダイニングテーブルが融合したものになってしまった。

住宅の形状を現す「○LDK」という表記があるが、ウチは「LD」の部分を表現しにくいなあ、なんて思っている。
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程度が重要――日常の適応力を考えたい

2006年12月04日 | 家について思ったことなど
私は季節の移り変わりが好きだ。四季のある国に生まれてよかったと思っている。
そうはいいつつも、厳しい季節のきつい環境を無防備に受け止めるわけにはいかない。
厳しさは家の性能によって緩和してもらうことになる。

この緩和具合が重要だと思っている。
季節感をどのくらい享受できるか、という視点から考えると、その厳しさを完璧に遮断しなくてもいいのではないだろうか。もし高レベルの遮断を是とするならば、住宅はだんだんと宇宙船の構造に近づいていく。

人間は適度なプレッシャーとかストレスがないと変化の楽しみ方もわからなくなり、ひ弱になっていくということが気になる。
若い世代は身体的なプレッシャーには耐性があり、むしろその環境変化を楽しむこともある。楽しむとまではいかなくとも慣れてしまって、少々の変化はストレスにならない。
子供のころはこうした変化への適応力をつける場面が必要だと思う。
こういうことを言うと「家は修行の場ではない」とか言い出す人がいるが、それは極論だ。なにも我慢大会をしようというほどの厳しい環境がいいといっているわけではないのだから。

私が危惧しているのは、言わば、あまりに管理された空間で過ごすことに慣れてしまうことである。
どこかにあった超高性能住宅のセールスコピーのように、「もう他の家では暮らせないね」なんていうような状況は、人間の環境適応能力を劣化させそうで気になってしまう。
私は子供たちには「きょうはちょっと寒い(暑い)よね」って余裕で語れる人間になってほしい、というか、少々の気温変化で大騒ぎしたりグチグチいったりする人間になってほしくない。

文芸春秋の12月号の特集で「家畜化する子供たち」という記事があった。
記事はセンセーショナルにあおっている感があるものの、自宅のトイレ環境・機能が良すぎて外のトイレに入れないというような話は、快適が過ぎると適応力をなくす例そのもののように思えた。
適応能力は戸外で鍛えればいいという意見もあるが、それだけ親が意識しなければならないわけであり、日常生活というシチュエーションで慣れるということも大事だと考えている。
これまでは日常生活で「自然に」身につけられたことが、このごろは住宅が高性能になりすぎて「自然には」身につけられなくなっている、という状況になっているのではないだろうか。温度変化しかり、トイレしかり、である。

一方、年をとって適応能力が衰えてきたときに若い世代と同じでいいとは言えない。家の性能の高さが頼りになってくる。厳しい温度変化を効率的に抑える仕組みは大いに価値がある。

最近、「性能・機能をどのように運用するか」ということが重要だと思いはじめている。
「バリアアリー」(関連LINKその1 その2)の考え方と通じるが、高性能と一口にいっても、「弱者を守る機能」は同時に「健常者・強者を楽にする(もっといえば怠惰にする)機能」だったりする。
住宅の供給側は高性能さを売り込むのに、弱者を守る美談をクローズアップしがちだが、住人サイドが逆の視点に気をつけて暮らさないと、いつの間にか健常者の能力をじんわりと弱めていくかもしれない。
例えば、「寒がり」「暑がり」が暑さ・寒さを回避したい気持ちは分かる。だけど、そもそも「寒がり」にも「暑がり」にもならなくてすむ人間が暑さ・寒さを回避し過ぎて、いつのまにか「寒がり」「暑がり」になってしまうのはどうなのだろうか、という懸念とか・・・。

我が家には老人も子供も、男性も女性もいる。弱者を守りたい一方で強く育てたい者もいる。
性能・機能の運用について考えることは多い。
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やまぼうしの紅葉

2006年12月03日 | やまぼうし
 
aiaiさんという新たなやまぼうし仲間を見つけたことをきっかけに、やまぼうしの報告をしておこうと思う。

さて、ごらんのようにイイ感じで紅葉している。
当地方は気候が温暖なので、まだこんなに葉が残っているが、寒い地域ではだいぶ葉を落としているのではないだろうか。

ウチのやまぼうしもそのうち葉をすっかり落とすだろう。
そうなると幹と枝だけの姿となる。

四季の変化をしっかりとあらわすのが気に入っている。
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東屋計画――普請道楽は終わらない

2006年12月02日 | 山小屋・ログハウス

 
山小屋に行ったら、材木が転がしてあった。
松である。
そういえば父が、遠縁の親戚筋の改築にともなって切り倒した庭木をもらうというようなことを話していたのを思い出した。
見れば結構な太さがあり、そのまま捨てられるのは忍びなく、もらって正解だったと思う。
それに地松というものは購入しようとしたら高い。ほくほく顔でもらってきたようだ。

ここにある皮をむいた丸太のほかに、一部は製材屋に板に引いてもらっているという。
父にどうするのか聞いたところ、「今度は東屋(あずまや)をつくる」とうれしそうにのたまった。
松は梁にするのにむいている材であるが、柱その他にも使うそうである。
普請道楽は一向に終わる気配はない。

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