家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

雨戸を新調する

2010年01月30日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
 我が古屋部分には2面に大きな開口があるが、そのうち1面の雨戸はぼろぼろになっていた。
 建ててからずっと使い続けた建具なので60年が経過している。無垢の木を使っているのでボロとはいえど、わびさびのような風格をかもしだしていたのだが、さすがに寿命といっていい状況になっていたのだ。
 防犯上もまずかろうということになって、建具屋さんに頼んで作ってもらった。
 山小屋作りで世話になった材木屋さんから格安で材料を仕入れたので、そんなにお金はかかっていないが、なかなかに立派なものになったと思う。
 建具屋さんは最近、サッシ系や規格品ばかり取り扱っていて、一から作る建具の仕事は久しぶりだと言っていたという。そういう注文は職人として技術の出しがいがあるわけで、高いモチベーションを持って作ってくれると思っている(関連エントリ→LINK)。

 いまのところは、ぴかぴかの1年生がじいちゃんのひざの上に座っているような感があるが、これからだんだんといい感じに経年変化して渋くなっていくだろう。
 建具も、家と同じように新品の時が一番いい時ではないのだ。「これからもっとよくなるのだ」そう思うと気持ちも豊かになってくる。

その他建具関連エントリ
建具の日

涼み台で流れ星鑑賞

2009年12月14日 | 我が家のスペシャルな仕様

12月。わざわざ涼もうという季節ではなくなっているが、今日は我が家の屋上、通称「涼み台」に上がった。
流れ星を見るためである。息子が「ふたご座流星群が見れるはずだ」とつぶやいたのがきっかけ。
さいわいにして雲一つ無い夜空。月もなく、4等星くらいまでは確認できた。
じっと星を眺めて待っていると、待望の流星が現れた。20分ほどで2つ見ることができた。
ねばった息子は6つほど見たようである。

明日は忘年会で帰りが遅くなるが、晴れていたらまたのぼってみよう。

雨を下から眺める

2008年08月24日 | 我が家のスペシャルな仕様


週末というのにあいにくの雨。
まあ、これといって予定があったわけでもなく、せっかくだから雨を楽しむことにした。
すぐに思いつくのはだ。雨が降るとうれしそうに葉を広げるからだ。

コーヒーを淹れ、デッキテラス(実は縁側)に置いた椅子に陣取った。

そこから眺める苔はいきいきとしていてじつにすがすがしい。

  

しばらく堪能したあと、ふと見上げるとおもしろい風景に気づいた。
ガラス屋根に落ちる雨粒がおりなす波紋である。
池の中の魚はこのような風景を見ているのだろうかなどと想像した。
こういうものはランダムであるから面白い。
山小屋で雨だれを見て楽しんだのと同系列の面白さかもしれない。

貧乏性でおめでたい人間にとって、ちょっとうれしくなる発見だった。

 


大きな机の効能

2008年04月19日 | 我が家のスペシャルな仕様
子供のころの私の勉強机といえば、家業の商売で使っていた事務机のおさがり。妹も同じだった。
同級生の新品の学習机は、高さ調節ができたり、キャラクターの絵が描いてあったり、電気スタンドや本棚が付いていたり…。とてもまぶしく、うらやましかった。
両親は子供の考えていることはうすうす分かってはいただろうが、大人の知恵と経験で学習机は不要というムードを最初からかもしだし、リクエストすら出させてはくれなかった。

中学生くらいになると、両親の判断に感謝した。
学習机の高さ調節機能も、キャラクターの絵も、大人の階段を上りはじめた少年にはありがたくないものになりさがっていた。
事務机はシンプルで据付の本棚もスタンドもなく、机の上はいかようにもカスタマイズできた。
もし自分でねだって学習机を買ってもらっていたら、使い続けることが憂鬱だっただろう。ねだっておきながらまだ使えるものを買い換えろなどという要望は貧乏性一家には通用しない。

自分に子供ができたときも、この経験から子供用の学習机を買おうとはまったく思わなかった。実際、私が使っていた古い事務机を与えていた。
家を建て替えよう、と決断したとき、さて机をどうするか、というのが検討課題となった。事務机を引き続き使うにはボロすぎるし、どうにも収まりが悪い。

建築家から出された提案は、造りつけの大きな一つの机。

これは要望として伝えていた工作室構想がワークショップという形になり、その部屋のメインのパーツとしてあらわれたものだ。
工作台兼勉強机といえる長いデスクである。

何年か活用してみた身として、大きな机の効能をまとめてみよう。

<その1>コミュニケーションの発生
 子供たちが並んで勉強し、娘がわからない問題を息子に聞いたり、世話焼きな息子がのほほんとしている娘をたしなめたりしている。夜遅くに帰ってきた私がパソコンをいじっていると、欄間でつながっている子供部屋から「お父さん、電気がまぶしいから手元のスタンドを使ってよ」なんて声がかかったりする。休日は私がなにやら工作しているのを見て質問してきたり、逆に妻と娘が作った手芸作品の感想を聞いてきたり…。
 ようするに自然にコミュニケーションが生まれる。家族をつなぐ効果がある。コミュニケーションスキルも自然に修得される。コミュニケーションスキルは場数によって養われるものである。すぐに自室に引き篭ってしまってはスキルは身につかない(※)。

<その2>共有スペースの意識とマナー
 大きな机では使う人のテリトリーが明確に決まらない。交互に使ったり、複数で使っても境界線があいまいだったりする。おのずと譲りあいや整理整頓が美徳であるという意識になる。個室の中の個人の机では「片付けないこと」に罪悪感が生まれにくい。
 整理整頓がちゃんとできているかと問われれば、私が一番反省しなくてはならないかも知れない(笑)。子供たちも散らかしっぱなしの時もあるが、私にしろ子供にしろ、個人の机より、いやおうも無く片付けなければならない場面は多くなる。

このように建築家の提案は実効性のあるものになった。

建築家に批判的な発言をする人は、「家の見た目ばかり気にしていて使い勝手が悪い」なんて簡単に口にする。それはあまりに乱暴な断定である。建築家といってもタイプは様々なのに、芸術家気取りの建築家をスタンダードな建築家像と決めつけて語っている(「『家』の問題」も背景にありそうである)。

使い勝手の良さを追求すれば機能美にもつながる。施主家族のオリジナルなニーズを満たそうとすればオリジナルなデザインになる。そういう方向で設計して見た目がよくなれば一挙両得だ。

4mを超す机なんて、ハウスメーカーからはなかなか出てこない提案ではないか。規格外のため、妙にに高い金額になってしまうから。
私は強度面で少々懸念もあったが、施工にプライドのある工務店に依頼したことでウデのいい大工がしっかり作ってくれた。いまのところ、ゆがみや傾きなどはない。

設計者と施工者がそれぞれ技を競い合う、そうした面白さもある。


(※)人間一人になりたい時もあるので、子供部屋で篭ることは可能。しかし長時間篭っているわけにはいかないようにあんまり便利でない部屋になっている。
私の考えでは、個室を与えることで自立心が養える、なんて大きな間違いである。便利な個室を与えることは篭りっぱなしを可能にし、むしろ自立できにくくする恐れがある。子供が、精神がコドモのままで自分の城(殿様としてずっといられる快適な場所)を与えられれば、「城」を獲得する苦労も、「城」に対する責任も知ることができないだろう。
 自室にいる時間が短くて親との接触機会が多すぎてウザイと思ったら、それこそ自立について考えるチャンスなのだ。いわばウザイと思わせることだって子育ての一環なんである。


縁側からデッキテラスに

2008年01月06日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
父の道楽作品がまた出来上がった。
以前椅子を作って存外にうまくいったのに味を占めたせいか、今度はテーブルと椅子2脚のセットものを一気に作った。

現在これは縁側に置いている。
この縁側、設計図面上は「デッキテラス」と表現されていた。
こうして椅子とテーブルを置くと、デッキテラスにちゃんと見えてくる。

梅干を干していた場面とはまた違う趣がある。
午後の紅茶でも楽しんでみたくなる。

一石二鳥は我が家が好む四字熟語だ。

トイレの日にしあわせをかみしめる

2007年11月10日 | 我が家のスペシャルな仕様
11月10日はトイレの日。イイ(11)ト(10)イレという語呂あわせだ。

弊ブログではかつて「トイレ自慢――男性_限定」というエントリを書いたところ、ウケがよかった。
家庭内において絶滅の危機に瀕している男性用小便器を設置した自慢話である。
小便器は公共の場所にはいくらでもあるので、モノ自体は珍しくもないかもしれないが、家庭内にあるというのが重要。絶滅の危機とはおおげさかもしれないが、公共トイレの小便器と家庭内小便器では、いまや言ってみれば、養殖うなぎと天然うなぎ、人工ダイヤと天然ダイヤ、というくらいに希少性に差があると感じている。希少なものは希少というだけで価値になることは多いのだ。

洋式便器界では魅力的な最新式便器が次々と出ているが、私にとっては小便器を設置できたことによる満足度が、最新式に対する羨望を上回る(笑)。
小用をする度にそこはかとなくそれを意識する。これも「幸福力」のたまものか。

「一生で 最も世話になる 小部屋」(前回のTOTOのトイレ川柳入賞作)

そう考えれば、設置も安いものだったというのは言いすぎだろうか。

ちなみに
今年もTOTOのトイレ川柳の優秀作が発表されている↓
http://www.toto.co.jp/News/senryu/result03.htm

私もついでに一句

「立ってして しあわせ覚える 小便器」

おそまつ。


<関連エントリ>
小用姿勢の問題を解決する便器

込み栓

2007年05月27日 | 我が家のスペシャルな仕様
  
我が家には最近の家ではなかなかみられないものがある(※)。
それが写真にあるような込み栓である。
いまどき酔狂の類とされてしまうかもしれないが、木の接合にできるだけ金物を使わない、という志向で建ててあるせいだ。
金物でないから、こうした接合部も「あらわし」にできてしまうことも気に入っている。

込み栓には堅い木、名が体を表している「樫」を使ってある。
梁が米松、柱が檜、木の性質による経年変化の差異もたのしみだ。


(※)ほかにはこういうものも。

雨の庭

2007年04月22日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
ここのところ雨の日が多い。
ただ、子供のころと違って雨は嫌いではない
雨の日に庭を眺めるのはむしろ楽しい
春の雨だと植木が本当に嬉しそうだ。
庭には癒しの効果がある。
プライスレスな家の価値だと思う。
家は計算できるスペックを優先的に考えていればいいものではない。
感覚的なものだって大事にしたい。

「四面背割り材」とポジティブシンキング

2007年02月08日 | 我が家のスペシャルな仕様
ある程度の太さがある無垢の木材は時間が経てばどうしても割れが生じてしまうため、割れる場所をあらかじめ決めてしまう背割りというものが施されている。
普通の柱材は四面あるうちの一面に深めに背割りを入れる。この背割りがあるおかげでほかの3面は割れが出ることもなくすっきりした表面のまま使い続けることができる。背割りを入れた面はできるだけ目に触れない方向に設置するのがセオリーだ。
我が家もむき出しになった柱はこうした材を使った。旧家屋でもそうだった。
ただ真壁でなく大壁の場合は柱は壁に隠れてしまい、人の目に触れない。我が家ではこの隠れてしまう柱はむき出しの柱と違う材を導入してある。
普通の一面背割りでは長い時間を経ると一箇所の割れ部分に変化が集中し、大なり小なり断面の正方形が歪んでくることがある。それが壁に悪影響を生じさせる原因になる場合がある。最近の家で集成材の使用が増えているのはそれをきらっているという理由もあるようだ。
ところが我が家の好みと建築家の志向が集成材の使用に後ろ向き(関連エントリ)であったため、工務店の提案で導入されたのが四面背割り材。四面に浅く背割りを入れることで歪みを小さくする効果がある。原理は単純だが、コロンブスの卵的発想が気に入った。

四面背割り材を説明したサイト↓
http://www.blk.mmtr.or.jp/~kane8ito/yonmen.html

そして・・・
建築も終盤に差し掛かってきたころ、私はあるミスに気がついた。あらわしの柱(当然一面背割り)の木目を見て「うんうん」と満足げにうなずいて現場を回っていたのだが、1箇所だけ、あらわし部分に四面背割り材が使われていることを発見したのだ。
それは和室の窓の部分に露出した柱だった。この窓はかつて下記エントリで写真つきで紹介していて、当該部分は右側にすこしだけ見えている。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/29fda79818506715fdd91c5df244fce1
もう壁のボードまで張られている段階で、どう考えてもリカバリなどはできないことは明らかだった。設計者のミスなのか施工者のミスなのかはわからないが、こんなものは上棟時にでも気がつかなければ直しようがない。
まあそんなことを考えたりはしたのだが、このミスはショックではなかった。露出部分は25cm足らずに過ぎない。そしてなにより四面背割り材を使用している事実自体に満足していたので、それを確認できる場所ができた、ってなものである。そう思ったほうが嘆いたり、糾弾したりするよりよほど楽しい。
むしろ子供がこの部分を見て、「なんでここだけ割れているの?」なんて質問をしてくれて、待ってましたとばかりに四面背割り材のことを説明したいなあ、などと想像したら、さらに楽しくなった。
ポジティブシンキングはしてみるものである。

涼み台の手入れ

2007年01月14日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
きょうは我が家の屋上デッキである「涼み台」の塗り替えをした。
もちろん自力作業である。
このくらいのメンテナンスは家人でやったほうが家への愛着が増すと思っている。

幸い天気に恵まれ、風もなく温かな日で助かった。
塗料はドイツのオスモ社の「ワンコートオンリー」。自然素材の塗料である。
デッキ材はカナディアンレッドシダーで約6畳ほどの広さ。妻と二人で擦り込むように塗った。
仕上がりのレベルは素人なりにすぎなくとも、やはり愛着度合いは増したように思う。

「リビング」なのか

2006年12月07日 | 我が家のスペシャルな仕様
考えてみれば弊ブログではリビングのことをほとんど書いてなかった。
リビングといえば家の居室においては要(かなめ)ともいえる存在。
それなのになぜ正面から触れてこなかったのか自分でもちょっと不思議に思った。

我が家のはリビングなのかダイニングなのかはっきりしないことが、リビングというキーワードでの書き込みをしてこなかったことの背景にあるかもしれない。

現代の家の多くはリビングとダイニングがほとんど密着している。こう書くと我が家のもあんまり変わらないようにも思うが、我が家のは「密着」というよりは「融合」。「リビング部分」+「ダイニング部分」という図式にはなっていないのだ。
自分はリビングで食事をとっているのか、ダイニングでくつろいでいるのか、あらためて考えるとよくわからない。

設計に入る前は「リビングとダイニングが密着していて、時に間仕切りできるような仕組みがほしい」というような要望を出していた。
ところが設計事務所が出してきた案は最初から融合型。それは要望を無視したということではなく、予算や他の部屋との配置関係、そして我が家の部屋での過ごし方を勘案して、まずは打診してみたという感じのプランであった。
当方は「間仕切り式リビングダイニング」という案を気に入っていたので、プランをにらめっこして何とかならないかと検討した。しかし、さすがプロ。設計図面の全体を見ているうちに、「これでもいいかも」と思えてきてしまった。
そもそも「間仕切り可能に」という要望は、リビングを通って他の部屋(古屋を含む)にたどり着くことを想定していて、お客さんが来たとき散らかったダイニングを見せたくないということがあった。また、広めのダイニングとリビングが合体することで大空間ができることも期待していた。
しかし、プランでは屋根つきの縁側があって、リビングを通らないで他の部屋に行くことが可能になっていたし、その幅広の縁側のおかげで見た目の空間は広くなっていたのだった。
プランはその後ちょっとずつ変わっていったが、リビングとダイニング融合案は結局最終プランまで変わらなかった。
そうして我が家の「リビングダイニング」というか「ダイニングリビング」というか、そんな居室が出来上がった。キッチンとの間にあるカウンター上部の吊収納の面はミラーとしたため、リビングを広く見せるような工夫もあった。このあたりもプロの設計だと感心した。

ここに設置したダイニングテーブルは高さがやや低いものを選んだうえに、家具屋に頼んでさらに2cm足を切っている。それはリビングとしての空間を意識したせいだ。すなわちテーブルもリビングテーブルとダイニングテーブルが融合したものになってしまった。

住宅の形状を現す「○LDK」という表記があるが、ウチは「LD」の部分を表現しにくいなあ、なんて思っている。