家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

ガスの日に家庭のエネルギー源を考える

2007年10月31日 | 家について思ったことなど
10月31日は「ガスの日」。
以下にガスに絡んだ昔のエントリを紹介。
ガスコンロ
オール電化「CM」批判  (注:ガスに関連する文が多いのは本文よりコメント欄)

「ガスの日」にいうのもなんだが、オール電化に関して、その後新しい(といっても7月ごろの話)検討材料が出た。
例の柏崎刈羽原発事故である。この事故を受けて東電はオール電化のCMを自粛した。夏場の電気使用を抑えるよう要請する手前、流しにくくなったということだ。
私は過去のエントリで表明したように「東電の」オール電化「CM」に批判的だったので、自粛を歓迎した。
私は、CMはともかく「オール電化」そのものについて批判するような姿勢ではないものの、個人として導入には後ろ向きだった。
理由は、上記紹介エントリにあるようにガスコンロを施主支給することにしていたことのほかに、家庭内のエネルギー源を一本化することに抵抗感があったためだ(関連エントリ→LINK)。
この抵抗感は具体的に原発事故まで想定していたわけではないが、こうして事故が起こってみれば、漠然とした抵抗感もあながちはずれていなかったように思う。
事故だけではない。今月26日には住民による浜岡原発の運転差し止め訴訟の判決があった。今回、棄却はされたものの、どこかの原発に対して差し止め請求が通れば電力供給量が大幅にダウンすることになるだろう。
原発依存度をこれ以上高めたくない人(私もそう)は多いし、家庭のエネルギー源を一本化することのリスクはそんなに小さくはない。リスクヘッジ手段は持っていたほうがいい。今回は電気の世界で起きたが、ガスの世界でも供給に支障がでるような何かが起きる恐れはある。

さて、我が家はガスコンロのほかにヘンなものを施主支給している。床下に「炭」を自家製造して敷いたのだ(詳しくは過去のエントリ→LINKを参照のほど)。
この床下炭は主に調湿を目的としているのだが、実は別の隠れた目的もある。
ここまでくれば推測がつくかもしれないが、「非常時のエネルギー源になる」ということである。
我が家には七輪も長火鉢もある。炭は床下に240袋も敷いてある。これだけあれば非常時にご近所さんまで助けることができる。電気もガスも止まる事態は起きてほしくはないが、「第三のエネルギー源」を持っていることで少しは安心感があるのであった。

最上級昼寝空間

2007年10月28日 | 山小屋・ログハウス
 
初夏から中秋にかけて山小屋にいったとき、必ずすることがある。
それは「昼寝」。

昼寝をする場所は2階の屋根裏風の12畳の和室である。
窓を開けると、ここちよい風が通り抜ける。きょうはあたたかかったので3方を開け放した。
空気がうまいのがいいのか、滝の音がいいのか、琉球畳がいいのか、ぐっすりと眠ることが出来る。
自分ちながら、「金を払ってもいい」なんて思う。

ブログ3周年

2007年10月27日 | このblogについて
ブログ主以外にはどうでもいい記念日。
2004年10月27日にブログを開設して今日で丸3年となった。
(そのほかのどうでもいいブログ記念日シリーズ→LINK1 LINK2

こういうときに引き合いに出すことわざといえば、「石の上にも三年」である。
冷たい石の上にも三年も座っていればやがて温まる、長いことやっていればいつか報われるというたとえである。
何かに報われようとしていたわけではないけれども、とりあえず三年続けられたことで、ブログの寿命としては長い方には入っていると思う。現時点で達成感というほどのものでもないけれど、いくばくかの感慨のようなものは得られている。
自己満足以外のなにものでもないが、何もしなければ自己満足することもできないわけで、とりあえずそれはそれでよいと考えることにする。

反省点といえば、更新頻度が落ちていること。
家づくりをテーマにしたら、建築中はいいとして、書くことがだんだん減ってくるのは自然だ。
そうはいいつつ、「竣工時点が家の完成ではない」などと主張している手前、書くネタはなにがしかあるはず、ということになる。  で、がんばっている(笑)。  が、頻度は落ちている(笑)。

3年もやれば自分なりに力作と思っているエントリ(たとえばこんなの→LINK)もある。
一方、できるだけオリジナルな切り口にしたいと心がけてはいるものの、すでにとっくの昔に誰かが書いているようなことまで書いてしまっているかもしれない。
ヘンなコダワリ」ゆえ普通の感覚ではないことも書いているように思う。
建築のプロではないゆえに、きっとまちがったことも書いているだろう。
それゆえに、読み手側のリスクが意識できるよう時折注意喚起している(関連エントリ→LINK1 LINK2)。

ブログの運用にあたっては、「誰かの参考になれば」という思いもあるが、その中には「反面教師としてでも」ということまで意識しているつもり。
人に自分の考えを押し付けようなどとは思っていない。こんなことを考えながら家づくりしたという一例を紹介しているにすぎず、それが誰にも適用できるなどとは思っていない。そういう姿勢での記録である。

読んでくださる方、これからもよろしくお願いします。

進化の行き着く果て――SF的?家づくり

2007年10月26日 | 我が家のスペシャルな事情
最近ほとんど読んでいないが、私はSFブーム(知っている人いるかなあ)になる前からSF小説を読んでいたようなSF少年だった。ようするに空想や妄想が好きな性質である。

家づくりにあたってもその性質による影響があらわれているように思う。

普通、「SF好き」から想像すると、ハイテク技術を導入した最先端な家を追求するように思うかもしれない。しかし、結果をみればそうなっていない。
自然素材の多用手刻みの家になり、およそ未来的とはいえない。

ではSF好き思考のなにが影響しているかというと、生物としての人間の姿を想像したことである。

SF小説には様々な知的生命(宇宙人や未来人)が登場する。
そのひとつの類型は、筋力が乏しそうなほっそりした身体におおきめな頭が乗っているという姿。体毛もなく、性別もわかりにくい。
技術の発達で肉体労働する必要がなくなる一方、頭脳労働の比重が高まり、思考の邪魔になるようなストレスを排除する環境整備を推し進める。そうした状況で何百世代も続いた結果として、そんな姿になった、という想定である。
むろん、人間が想像する宇宙人・未来人の姿はそれだけではない。幅広いパターンがある。
マッチョな宇宙人だっている。それは前述の宇宙人とはまったく違うシチュエーションでの進化の姿である。進化の方向には様々なバリエーションがあるということで、現時点でどうなると断定できるものでもない。
ただ、先日のエントリで紹介したように、現代の子供の基礎体力が低下している事実を知れば、地球人も「ひよわで頭でっかち」に進化するという方向性がなんとなく現実味を帯びているような気がしてくる。

想像力を働かせると、テクノロジーが発達すれば身体的負荷はどこまでも減らすことが可能なことが見えてくる。
温湿度を完全にコントロールし、会社・工場での単純作業ばかりか、調理、掃除、洗濯などの家事まで完全自動化することだってできる。現在はできなくとも、それが可能になる時代は来る。食事の摂取だって、自分の手を動かさなくともできるようになるかもしれない。
そこまでいけば、前述の宇宙人の姿も説得力を持ってくる。
その方向でさらに進化した宇宙人の姿のパターンとしては、もはや脳だけが水槽のようなものに浸かっているなんてものがある。

このような想定はおおざっぱな要素・条件から導き出した仮定・仮説に過ぎず、科学的に論証するにはもっとさまざまな要素・条件を考慮する必要があるのは自分でもわかっているつもり。
それでも人類の歴史を振り返れば、現代の様々なモノの進化スピードは速すぎるように思う。スピードを出しすぎれば事故が起きやすくなる道理で、もう少しゆっくりいけばいいとも思っている。
環境を完璧に制御することがもたらす進化の一形態をちょっぴり想像すると、コントローラブルな家の最高峰を目指すような流れには乗らなくてもいいよなあ、と考えた。「コントロールはほどほどでいいや」と…。
もちろん家が100年持ったとしても、その程度の年数では人間の生物的進化に大きな影響を与えるものではない。私が個人的な思惑で自分の代でそっち方向に舵を切るのをためらったということにすぎない。このような決断は、歴史や進化という大きなくくりでみれば、あってもなくてもいい、けしつぶ以下の影響力しかないだろう。
(ちょっと変わった一個人の選択が、未来へのバタフライ効果をもたらすかもしれないなどという妄想をして安上がりに楽しんでいる面もあるけれど…)

SF的思考はもうひとつある。
「未来世界において、価値があるものは何か」を想像した。
未来には現代より優れたハイテク製品があふれていることだろう。しかしハイテクは陳腐化しやすい
最先端のテクノロジー製品の、最先端としての寿命はよくて数年だろう。最先端でなくなった時点で陳腐化が始まり、古臭いものとして扱われるようになっていく。それが住宅であってもハイテク面に特長が強く出ている住宅ならばその価値判断の流れに飲み込まれる。
その点、ローテクは最初から最先端を目指していないゆえに陳腐化しにくい。職人の技術は、場合により時代をも超越する。
だからハイテクさを競うような思想での家づくりはしなかった。やがて忘れ去られそうな伝統的技術や思想を、忘れ去られる前に導入しておくほうが面白いと考えた。
手刻みの木組みの家なんて現時点でかなり希少化している。木組みだけ見れば我が家のはすでに陳腐化を免れているともいえる。
また自然素材を多用したのは、化学的工業製品は次々と出てくるゆえに陳腐化スピードが速いと考えたためといえなくもない。ほかには、壁はしっくいの塗り壁にし、日本家屋の伝統的な縁側というパーツも採用した。
未来の風景を現実的に想像したら、逆に未来的でないもの、ローテクな製品や技術が一層価値を増しているのではないだろうか、と思ったわけである。

さて、
賢明な方は意識できているだろうが、今回のエントリはかなり「建ててしまった人バイアス」の存在に注意したほうがいい内容である。うっかりうなずいてしまった人はリテラシー力を磨くように(笑)。
別の想像、例えば未来に、文明が滅びかねないほどの戦争や天変地異が起きたならば、家どころか街自体が壊滅するだろうし、人類のテクノロジーは一気に後退して、もしハイテクなものが残っていたらそれがとても貴重なものになる未来というのもありうる。
周囲のハイテク化が進みすぎて、ローテク品を使うことが相対的に大きなハンディキャップになることもある。

ただ、「こうした空想・妄想すら楽しめるのが家づくりというプロジェクトなのである」ということは伝えておきたい。
お金かけているんだから、いろいろなことで楽しまないと損なのである。これホント(笑)。



残したいものがある家

2007年10月19日 | 家について思ったことなど

この柱は残したい
この壁は残したい
この天井は残したい
この廊下は残したい
この梁・桁は残したい
この建具は残したい
この塀は残したい
このカウンターは残したい
この部屋は残したい
この家の輪郭は残したい
この庭木・庭石は残したい

新しいうちは残すも残さないもないけれど、古くなっても残したいものがたくさんある家は(少なくともその家族にとって)「いい家」なんだと思う。

そういう家になってほしい。


やまぼうし紅葉前線異常なし?

2007年10月13日 | やまぼうし

    

ウチのやまぼうしが色づきはじめた。
今年は花も出なかったので実も出来ず、ちょっとさみしい思いをしているのだが、紅葉はちゃんと楽しめそうだ。
先日、「紅葉大幅遅れ、都心の見ごろは12月?・猛暑が影響」なるニュース記事(↓)を読んでいたので、紅葉の動向をちょっと気にしている。
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http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071009AT1G0502W08102007.html
 紅葉真っ盛りは師走!?――。記録的な猛暑の余波で関東など各地の紅葉の見ごろが大幅に遅れそうで、秋の行楽シーズンを前に各地の名所や自治体が対応に追われている。見ごろが初冬に当たる12月上旬から中旬にずれこみそうな東京都心では、祭りの時期を急きょずらす苦肉の策も。関係者らは「紅葉といえば秋。これでは季節感が出ない」と心配顔だ。
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記事は「もみじ」を想定しているのだろうが、他の樹木だって影響がないとは限らない。
これまで弊blogでは紅葉しはじめのころの報告はしていなかったので、記録はないが、紅葉まっさかりの記録は昨年12月にしていた
いまの色づき具合をみれば、ペースは例年とあまり変わらないように思える。


去年につづき、ノアノアさんのブログエントリで気づかされた金木犀の写真もGET。

    

 


楳図邸判決で考えたこと

2007年10月12日 | 家について思ったことなど
楳図かずお邸の建築差し止め仮処分申し立て(関連エントリ→LINK1 LINK2)に対し、東京地裁は12日、申し立てを却下する決定を出した。
(詳細は下記リンク記事を参照のほど)

漫画家・楳図かずおさんの自宅問題、住民側の建築差し止め却下
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071012i307.htm?from=main3

私は、施主の楳図かずおという人間の社会遺産的価値を鑑みて、どちらかというと建ったほうが面白いだろうなあと思っていたので、この決定に特に不服はない。
ただ、いろいろと気になったことがある。

まず、記事中の
「決定で、森淳子裁判官は『建物は社会的に容認される範囲内』とする判断を示した。」
という部分。
違法建築かどうかの判定ならともかく、外観について「社会的に容認される」か否かを判断するのが裁判官という職種でいいのだろうか、ということ。
森淳子裁判官は常識的な美的センスを兼ね備えているのだろうか。また、美的センスが違う裁判官だったら判決が変わったりするのだろうか。

次に、
「楳図さん側は、『建物も作品であり、自己表現の場。建物の色やデザインは近隣住民の権利を侵害しない』などと反論していた。」
という部分。
過去に、建築家が設計した住宅を「作品」と呼ぶことについて思うことを書いたことがある(→LINK)。
明らかに「施主の作品」というべき楳図邸によって、「作品呼称問題」に新しい切り口があることに気づいた。
楳図邸の例から考えれば、設計のプロではない一般施主がハウスメーカーに依頼して家を建てる場合(楳図邸は住友林業という大手ハウスメーカーの施工である)でも、外観等の仕様に施主のオリジナリティが色濃く現れるならば、施主による「作品」と呼んでいいわけである。
こう考えると、オリジナリティのある住宅ならば「作品」と位置づけられるのは別におかしなことではない。
いいかえるとこういうことになる。
「建築が『作品』であるか否かは、建築家が設計したかどうかによって決まるのではなく、オリジナリティの有無によって決まる」


ただし、住人の立場としては家を「作品」と呼ぶ・呼ばれるのはやはりしっくりこないように思う(笑)。

大人と子供と家――「オン」と「オフ」の違い

2007年10月10日 | 家について思ったことなど
大人の場合、職場がオンタイム、家はオフタイムと区分けすることができるが、子供の場合はオン・オフの区別はあいまいないし柔軟だ。学校でオフ(遊び)になることもあるし、家でオン(勉強)になることもある。また「遊び」から身につける能力もあり、成長するのが仕事である子供にとって、なにがオンでなにがオフとも判断しにくかったりする。
子供はあらゆるものから学んだり、鍛えられたりするが、すでにある程度の能力を身につけてしまった大人はそうでもない。大人と子供ではオンとオフの状況に違いがあって当然に思う。
そして、子供に限らないが人間が成長するためには刺激が必要だ。
刺激の中には環境変化もある。ストレスとかプレッシャー(負荷)は心理的には敬遠したいとは思うが、理性で考えれば、ストレスやプレッシャーがまったく無くなったら人間は成長もしないし、堕落する恐れもある。逃げるだけでなく、うまくつきあっていくことが重要だと思っている。

漠とした変な前振りになってしまった気がするので、そそくさと本題に移ろう。

基本的に、家は家族がやすらぐ場だと思っている。
だからできるだけ気持ちのいい、くつろげる場所であったほうがいい。
ただし、気持ちよさにもいろいろあると思うし、どこまでも快適さを追求し続けることについては疑問がある。
考えたいのは、大人の快適と子供の快適は違うということ。
そして、子供を「大人の快適さ」に浸らせっぱなしにしていいのか、ということ。

私が家を建てるにあたっては、「誰でも老人になるということを考えよ」というアドバイスに納得した。だから、家の性能の重要さを意識した。
しかし、よく考えるとそればかりではいけないと気づいた。「大人、老人が快適に感じる環境」というのは子供にとってもよい環境か、という問題意識がわいてきたのだ。
快適にもいろいろあるが、特に子供にとって、「身体的負荷をなくすことによって得られる快適さ」というのは要注意だと思う。
子供の場合、どんなところに成長のためのタネが転がっているか分からない。大人の好みで、なにげない負荷まで排除した快適空間を作り出し、そこに子供を浸らせたら成長が阻害されたりはしないかということを考える。
私達が子供だったころ、季節の移り変わりによって家の中にもそこそこの負荷があった。今の子供はそうした負荷から開放されることで、私達が何も意識しなくて自然に身につけたことが身につけられなくなるかもしれない。

先日、こんなニュース↓を読んだ。
(読売新聞ニュースサイトより)
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/kyousei_news/20071008-OYT8T00076.htm
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子供の体力 危機的レベル
ゲーム遊びや塾通い 運動不足定着

 小学生の運動能力は20年前をピークに低下し始め、ここ10年間は低水準のまま推移していることが7日、文部科学省が公表した「2006年度体力・運動能力調査」の結果で明らかになった。
 同省は現状について、「これ以上下がりようがない危機的な水準ではないか」と指摘している。

(中略)

 文科省生涯スポーツ課は、「真っすぐ走れなかったり、飛んできたボールをよけられずにケガをしたりする子供も多い。運動能力の低下傾向に歯止めがかかったというより、最低限のレベルまで落ちてしまったと考えるべきではないか」とする。原因としては、ゲーム機の普及や塾通いなどで、運動不足の生活が定着していることを挙げている。
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記事には「これ以上、下がりようがない危機的な水準ではないか」というコメントがあるが、私は今後まだ身体能力が下がるかもしれないと危惧している。運動能力というよりストレス耐性が弱くなる方向で…。
その要因になりそうなのが、大人にとっての快適さを追求する高性能住宅の普及である。
これまで家作りに関する情報を見ていて、「超高性能住宅で負荷のない環境で暮らすことが子供をひよわにしかねない」という警鐘に対し、「子供というものは外で鍛えるものだ」という反論があったことをいくつかの場所で目にしている。
「なるほど、たしかに別の場所で意識的に子供を鍛えればいい」と、その時点ではおおむね納得していたのだが、この記事を見れば、我が家はともかく社会的にはそれもなかなかに難しい情勢になっていると思える。そして良く考えたら、子供はオンとオフの境界があいまいなのである。
親が何も気にしないで、子供をぬるま湯のような環境に置き、ゲームばかりやるのを許していたりしたら、基本的身体能力すら身につけにくくなりはしないだろうかと危惧する。

大人向きにどこまでも負荷を軽減しようとする風潮と、子育ての関係には注意しておきたいと思っている。行き着くところまでいったら、逆に三鷹天命反転住宅(関連エントリ→LINK)のように、家の中にわざと負荷を作り出すようになるかもしれない。

新築した我が家も、「超」とまではいえないが結構高性能化している。家を「閉じる」ことで身体負荷が小さい環境を以前より容易に作り出せるようになった。
ところが、我が家は窓を開けていることが多い(注)。風が抜けるように越屋根地窓もある。

それは季節感を積極的に享受したいとか、風が好きというような動機だけではなく、ちょっぴり子供のことも意識しているのだ。



(注)さすがに真夏や真冬に開けっ放しなんてことはない。


住宅価格の変動のしかた

2007年10月03日 | 家について思ったことなど
昨日のエントリで、欧米の中古住宅市場のことを好意的に紹介したものの、ミスリードする恐れに気づいたので補足しておく。

少なくとも米国においては、現在、住宅価格が下落している。
そう、最近話題のサブプライムローン問題がその背景にある。住宅の購入が難しかった低所得層に住宅ローンを組ませたことが住宅価格の上昇をあおる一因となり、住宅価格の上昇に陰りが出てくると、行き過ぎた信用供与がアダになってローン返済が困難になった人が住宅を手放し、市場に放出されることになった。なまじ住宅の売買市場が発達しているだけに供給がダブつけば中古住宅の価格も簡単に下落するわけである。
こうなると、いかに家を手入れしていい状態を保ったとしても、資産価値の劣化は免れない。いかに「よいもの」であっても市場における需給の原則の前には金額的な価値は保証されない。

サブプライム問題はこれからむしろ大きな時限爆弾が破裂すると言われている。クレジットクランチの行末はともかく米国の住宅相場の先行きは暗い。

じゃあ、日本のほうがリスクがなくてよいのか、というとそんなことはない。
そもそも日本では、家屋を新築したとたんに、ほっといても家屋の資産価値がエスカレーター式に劣化していく仕組みになっている。これはリスク以外のなにものでもない。
それに、やはり需要が供給を大きく上回れば価格は下落する。
足元を見れば、業者が、日銀の利上げや消費税の税率アップを読んで駆け込み需要を狙って仕込んだ物件が大量にあり、それが当てが外れて在庫整理に動くと言われている。やはり住宅相場の先行きは明るくない。

まあ日本では、住宅取得後に値上がりするなんてそもそも期待していない分、個人は痛手とは思わないかもしれない(相当に安い物件が出てきたら「待てばよかった」と思うかもしれないが…)。また、これから家を…と考えている個人からしてみても、価格が抑えられてラッキーとも言える。
つらいのは住宅業界。駆け込み需要での一儲けを企んだ業者から損失覚悟の在庫整理物件が出終わったあとに、利上げや消費税率の上げがあったら、住宅市場は相当に冷え込む。
荒れ模様のなか、良質な造り手が淘汰されたりしないことを願う。


セカンダリーを考えない国民性――あるはずの価値が生まれない

2007年10月02日 | 家について思ったことなど
日本で中古住宅市場が発達しないのは日本人の性向と関係しているのはたぶん間違いない。
住宅とは違う市場を見ても、それがうかがい知れる。例えば、企業が発行する社債もプライマリー(新規発行)市場はそこそこの規模はあるが、既発行債のセカンダリー(流通)市場はとても貧弱だ。
日本人が「初物好き」「新品好き」というのはよく言われることだが、もうひとつ「寝かせる・塩漬けする」のも好きなのではないか。
いや、もしかしたら単に「めんどくさがり屋」なのかもしれない。
周囲の人と比較して相対的に損しないで「買う」ことに全精力を注ぎ、あとは余計な労力は使わずただ持ち続けるだけ、というような考え。そこには、買った時点より価値を高める発想は見受けられない。

以前のエントリ「住めば住むほど得する住宅」で紹介したように、欧米では家の資産価値を今以上に高める努力をする人々が多い。だからこそセカンダリーマーケットがちゃんと機能する。

プライマリーマーケットでの価値しか考えない日本は、総体として大きな損をしていると思う。「家の価値を高める」ということは国の経済にとっても大きな意味があることなのに…。

例えば、日本の住宅着工件数はここのところ1月あたり10万戸前後で推移しているが、仮に一棟2500万円として計算したら、10万戸なら2兆5000億円、1年なら30兆円の資産となる。
この額を念頭におきながら、年をおうごとに一律に価値を落としていく日本と、価値を維持ないし上昇させている欧米とを比べれば、国全体としての資産形成でどんどん差が付けられていくことが実感できるのではないか。

日本の家にだって価値を高められるポテンシャルがある。それなのに一律に築年ごとに価値が下がるという乱暴な制度(税制)と未熟なセカンダリーマーケットのおかげで国全体の資産価値も上がらない。ものすごくもったいないことのように思える。
古い家だって、市場がしっかりしていれば市場価格がつき、ちゃんと資産価値を生み出せるはず。現在、資産価値がないのは家のせいではなく市場のせいなのだ。未熟な市場が価値を創出できないのであれば、一個人として価値を認識するのみ。
世間は価値を理解しなくとも自分が理解できれば豊かに暮らせる。そして、いつかまっとうな市場になることを想像して大事に家を維持していこうと思う。


  「人間の定義とは何か? 価値という観念を理解するかしないかだ」
      冲方丁 「マルドゥック・スクランブル」より