家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

「ゆとり」「安らぎ」と「足るを知る」

2005年12月30日 | 家について思ったことなど
「家にいるときくらいはゆとりや安らぎを」というのは至極まっとうな欲求であるが、それと同時に人間の欲望はきりがないということも少し意識したほうがいいのではないかと思う。

家の性能を上げて高水準な快適空間を作っても、その環境に慣れてしまうとさらなる高い水準を目指していくことになる。それはそれで人間のあるべき姿のようでもある。
しかし、作り手の姿勢としてはそれでいいとしても、使う側はそれでいいのだろうか。私はその流れを危惧する。
昔の人間からしたら信じられないような快適な環境にいるにもかかわらず、それに満足していないのが幸せなことなのだろうか。また、快適環境にどっぷりつかることで、昔の人間だったらなんのストレスも感じないような環境までも耐えられないような体質になってしまわないだろうか。
「真冬でも家の中ではTシャツ一枚で過ごしたい」という要望はあってもいい。ただ、「Tシャツ一枚で過ごせないような環境にいると不快でたまらない」というような適応能力の乏しさが将来の一般人のデフォルトになってほしくないと私は思う。
環境変化への対応力は屋外で養えるということもあるが、家の中での日々の暮らしの中で自然にじんわりと身につける能力もある。
別に家の中で修行せよというのではない。
このくらいの快適さで十分という「足るを知る」ことで心豊かに暮らせるということを言いたいのだ。人間の「慣れる能力」を衰えさせるようにはしたくない。

住宅における快適さの追求をどんなことよりも重要であるように唱えて、ちょっとした性能の劣後をおおげさに糾弾するような言説を読むにつけ、そんな思いが浮かんでくる。


勉強部屋?子供部屋?

2005年12月29日 | 家について思ったことなど
カトラー:katolerのマーケティング言論
頭の良くなる家 ~子供を勉強部屋から解放せよ~を読んでふむふむと思う。

拙宅に当てはまることが多くてちょっぴりうれしくなった。
とはいっても我が家は「頭が良くなる」ということを意識したわけではなかった。
そもそも我が家の子供部屋のコンセプトは勉強部屋ではない。寝室であり、収納室といったところ。本棚はあっても机は置いてない。
子供部屋に隣接する「ワークショップ」を勉強場所としている。ワークショップは私も使ううえ、廊下としての役割があり、私達夫婦の部屋への通り道でもある。
こんな形になったのは、家族のコミュニケーションを重視したからである。

子供には反抗期、思春期もあるし、親の方も子供が大きくなるとうっとうしくなるなどという理由でオープンな間取りに批判的な記述のある住宅本も読んでいたが、それには納得できなかった。
反発しあっている状況下でもコミュニケーションは重要、というのが私の考えだ。
蜜月時のコミュニケーションなんて簡単、むしろ反目しあっているときのコミュニケーションスキルを子供に身に付けさせたいのだ。
社会に出れば、気に入らない人ともコミュニケーションしなければならない。それでもなんとか状況が悪化しないように、あるいは自分が有利になるように持って行くテクニックはあるはずで、それを会得させたいし、忍耐力も身に付けさせたい。
なにしろ当事者は一緒に暮らす家族ではないか。短時間ならともかく、長い期間接触しない・接触できないなどという断絶状態を作り出すことのできる間取りは好ましいとは思えない。
我が家も引き戸を占めればそれぞれのプライバシー空間は確保できるようになっている。しかし、その空間に長居をしていても不便なようにしてあるつもりだ。

コミュニケーションがとりやすい家が頭を良くする家なのであれば、私にとって思わぬ拾い物といったところ。
ただ、実際わが愚息、愚娘の行動を観察していると、トラックバックしたブログにあるような有名進学校にいけるような頭脳には思えない(とほほ)。
せめて「愚」をとって表現できる程度になってくれればとりあえずよしとしよう。

餅つき日和

2005年12月24日 | 我が家のスペシャルな事情
 
世間はクリスマスイブでロマンチックな時が流れているかもしれないが、本日の我が家のイベントはガテン系仕事の正月用の餅つきだ。

以前は住宅の駐車スペースでやっていたが、家の建て替えに伴い、去年から山小屋でやるようになった。
ここのところの寒波襲来で心配したが、幸いにして晴天で無風。
思わず「餅つき日和」なんていうフレーズが頭に浮かんだ。

我が家の臼(うす)はなんと100年選手である。父の祖父の代から使っていたヴィンテージ物なのだ。
自分のウチのことながら、よくもまあ長いこと使い続けてきたものである。
農家でもない我が家(祖父の代は半工半農だったが)が、なぜ餅をつき続けてきたかといえば、ひとえに食いしん坊一家であるからにほかならない。市販している機械でついた餅よりも手でついた餅のほうがうまい、これは我が家の定説となっている。
雑煮にしても磯辺焼きにしてもその差は歴然であると思う。
以前、餅つき道具は家族をつなぐ道具だ、などという見解をお披露目したが、我が家の場合、家族がつながっている部分は胃袋であるように思えたりもする。

我が家の餅つきは道楽というか、手の込んだ料理の一工程というか、そんなところなのである。
筋肉痛をもたらす料理、というのも考えてみれば面白くはないだろうか。

カスタムナイフのシース作り(1)

2005年12月21日 | レザークラフト
 
またもやナイフシースづくりのオーダーが入った。前回と同じ知人からである。
前回はファクトリーナイフだったが、今度はハンドメイドのカスタムナイフである。
仕事をリタイアして趣味三昧の方が作ったものを譲り受けたらしい。よくもらいものをする人物だ。徳というものか。

例によって、ナイフについてメモしておく。

全長 262mm
ブレード長 144mm
ミラー仕上げ、蛤刃、鋼材は不明
ハンドル材は黒檀

オーソドックスな形状とはいえカスタムナイフなので前回よりは凝ったデザインにしてみたい。
ただ、発注者からまだ具体的な要望が来ていないので、どんなシースになるかはわからない。

どのみち、年内はやることが多すぎてとりかかることはできない。前回よりさらにゆっくりとした進行になりそうである。


ふらない雪

2005年12月18日 | その他
12月としては記録的な寒波が押し寄せ、日本海側ではすごい降雪のようだ。
それなのに当地方、雪の降る気配はまったくなし。天気図を見ても雲はかすりもしていない。
雪国の人々はうんざりしていることだろうが、こちらの子供達は雪を渇望している。私も雪見障子の活躍する機会が訪れないかと期待している。
人間がコントロールできないからこそ「天気」というのだろう。たまに起こす「気まぐれ」を待つしかないのだろうか。

やっぱり縁側

2005年12月17日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
建築途中に、そのときはまだバーチャルな存在だった縁側を紹介した。
この写真はリアルな存在となった縁側である。

上はガラス屋根。図面で表記されているように「デッキテラス」と呼んでもいいムードがあるが、私はあえて「縁側」と呼びたい。
ここに腰掛けて、庭と古屋( **)を眺めていると、「自分の座っている場所はやっぱり『縁側』だ」と思うのである。

縁側は、以前紹介したときに記した期待をしっかりかなえてくれている。
春と秋にはここで炭火焼パーティもこなした。幅が一間あるので、少人数ならそういうこともできる。

クリスマスの飾り棚

2005年12月15日 | 我が家のスペシャルな事情
 
息子の習い事友達のお母さんがフラワーアレンジメントの講師をしていて、妻が習い事の父兄仲間とフラワーアレンジメントを教えてもらいにいった。
そのときの作品を玄関の飾り棚に飾ってある。
季節柄、クリスマスをイメージしたもののようだ。

ちなみにこの飾り棚に使用した杉板は施主支給である。
厚さは4cmある。
山小屋作りの過程で仲良くなった製材所から安く譲ってもらった板だ。
床下の炭といい、ガスコンロといい、我が家の施主支給は他にあまり例がないのではないだろうか。

タオルウオーマー ――お気に入りの設備

2005年12月11日 | 我が家のスペシャルな仕様

家づくりのプランニング中に、夫婦で、ある家にうかがって目撃した時から、ぜひウチにもと思って導入したのがタオルウオーマーだ。
それまでこうしたものを導入するという発想がなかった私たちの田舎者ぶりが恥ずかしいと思うようなスグレモノである。

タオルを暖め、乾かす。
冬に暖かいタオルを使うのはとても心地よいのである。
脱衣室の暖房も兼ねているから、贅沢というほどのランニングコストではない。
ヒートショック予防に脱衣所の暖房は有効だ。しかもこれは温水による暖房なので空気を汚さない。
オススメである。

流行と住宅--スペックの面から

2005年12月10日 | 家について思ったことなど
 大概のモノには流行がある。住宅もその例外ではない。ただ、住宅は長い年月に渡って使うものだけに、一時の流行に左右されるのはあんまりいいことではないと思う。
 その流行が一時的なものなのか、息長く続くものなのか、流行ではなく今後基本となっていくのかはよく考えたい。

 耐震計算書偽造事件によって、たぶん耐震、免震は流行りのキーワードとなってセールストークがされていくだろう。ただ、耐震はそもそも基本的な家のスペックなのである。これを流行的にとりあげるとなると「建築基準の5倍の強度」とか「いやウチは10倍だ」なんてことになっていくのだろうか。「レモン50個分のビタミンC」みたいな展開にはなってほしくないと願う。
流行の問題点は、その部分にばかり目を向かせてしまうことだ。耐震基準すれすれはともかく、耐震性が高ければ高いほどいい住宅というわけではない。耐震性を極限まで高めたいのなら、出入り口が1箇所あるだけの分厚いコンクリートの四角の箱のような家にすればいい。だけどそんな家を欲しいという人はいまい。

現在、高気密・高断熱というキーワードが流行のように使われている。気密性、断熱性は家にとって重要な項目ではあるが、何が何でも高くすればいい家になるわけでもないだろう。
以前、高気密・高断熱を謳う、ある住宅の開口部の位置や小ささに首をかしげた覚えがある。これでは風が通りにくい、眺めのいい方向に窓がないと。C値とかQ値の数字ばかりを追求すればこうなってしまうのか、と思った。
いくらでも工夫はできるので、そんな住宅は高気密・高断熱住宅のほんの一部にすぎないのだろうが、流行のキーワードにとらわれすぎると他の重要な項目をないがしろにしてしまうリスクがあると思った。
耐震性にしろ、気密性にしろ、防音性にしろ、「流行モノ」になってしまっては勘違いした行動を誘う恐れがある。

住宅の各性能はだんだんと進化していっていると思うが、他の要件とバランスをとるための、ほどよい水準というものがあるのではないか。特定の要件のスペックに過ぎた水準を求めると他の要件の水準を犠牲にすることもある。
耐震、気密、断熱、防音、通風、採光、眺望、動線、質感・・・住宅の性能を評価する項目はいろいろある。住人がそもそも持っている志向によってそれらのバランスをとることが重要だと思う。流行は志向をブレさせることがあることは注意しておきたい。
ちなみに例の事件は、「価格」という性能を極端に重視した結果、他の性能が劣悪になったという言い方もできる。「耐震」以外に「気密」や「断熱」「防音」など目で確認できない性能も大丈夫だったのだろうか。

住宅性能評価について

2005年12月09日 | 家について思ったことなど
 耐震計算書偽造事件に関した先日のエントリの最後の方に、建物の格付けについて書いた。格付け情報を元に金融機関がリスク管理したらどうかというような提案である。ただそのときは、現在既に動いている住宅性能表示制度のことを忘れていた。コメント欄で住宅性能表示のことを指摘していただいたこともあり、その後の動向も含めて補足しておきたい。

国会の参考人招致ではイーホームズ社長が住宅性能表示制度に言及した。こういう制度がもっと活かされていれば、というような話だった。
ここで疑問。確かに制度の活用は有効と思うが、それはしっかり評価できることが前提。偽造が見抜けない機関に性能評価ができるのだろうか。
実は性能評価機関の数は多くて、イーホームズ、日本ERIという今回の事件で大失態をした確認検査機関も名を連ねている。これでは制度を活かすどころか、制度の信頼性を疑わせるようにしか見えなくなってしまった。

さらに追い討ち。
同じく民間確認検査機関で住宅性能評価機関でもある「ビューロベリタスジャパン」が、構造計算書が偽造されていた横浜市のマンションに耐震性などを客観評価した住宅性能評価書を交付していたことが判明した。

もうこの制度自体がズタズタになった感がある。この有様では金融機関に制度をうまく使ってリスク管理せよとはいいにくい。
住宅産業の健全な発展に期待を持てる制度なのに、こんな運営では誰も利用しなくなってしまう。
ことここに至っても、住宅性能評価機関等連絡協議会「評価協」のHPに何もこの事件についての見解が表明されていない。そんなことも、この制度の行く末を不安に思わずにいられない。

この制度については、いったん仕切りなおしさせたほうがいいのではないか。

事件の余波――身近なところで

2005年12月07日 | 家について思ったことなど
・ 自宅に近い建設中のマンションにでかでかと「耐震マンション」の垂れ幕が下がる
・ 会社の大先輩曰く「戸建も地場の工務店じゃこわい。大手ハウスメーカーじゃないと安心できないな」

ためいきが出てきてしまう。
耐震とか、免震とかがしばらくの間、セールストークになると推測される。重要なスペックではあるが、流行りのように扱われていくのはちょっと、と思う。
ちなみに、会社の大先輩には、ちゃんと建築現場を見ることができるのなら工務店だってまったく問題ない、とは言っておいた。ガンバレ工務店!


建築主と施主

2005年12月05日 | 家について思ったことなど
 弊blogでは建築家の「家」(か)問題を何回か取り上げてきたが(その1その2その3その4)、今度は同じく言葉の面から「施主」について取り上げてみたい。家(か)とは違って言葉のニュアンスではなく、言葉の区分けの仕方からのアプローチである。

辞書の定義で判断すれば、「施主」とは「建築主」に他ならない。
しかし、私は「施主」を「建築主」として表現することにどこか違和感があった。
その違和感は今回の耐震構造計算書偽造問題ではっきりした。
今回の事件で登場する「建築主」とは「売主(うりぬし)」だ。一方、私が「施主」という言葉を使うとき、頭に思い浮かべているのは「自分の住む家を建てる建築主」なのだ。これらを同じくくりで考えることに対する違和感だったのだ。

「売主」と「(自分が住む)施主」(以下、施主)では、家を建てるという行為における動機や取り組み方が全然違う。
「売主」であるならば、(業者ごとに差はあるだろうが)基本的には「出来るだけ安く建てて、出来るだけ高く売る」という方向で動く。「高く売れない場合は安く建てる」ということでもある。費用と売価の差こそが「売主」が最も重要視する部分なのである。
しかし、自分で住む「施主」は違う。自分が消費者でもあるから、「出来るだけ安く建てたい」という意識はあるものの、その後は「高く売る」のではなくて「快適に使う」のが最も重要なことなのである。
この違いは大きい。「売主」は安いものを高く売るための工夫をしようとする。その工夫はハードとしての「家」に本来必要なものではなく、ある意味「ダマシ」的な要素になる。商慣習上、許容せざるを得ないレベルの「ダマシ」や「誇張」というのはあるものだが、今回の事件は「ダマシ」部分を違法なレベルまで肥大化させ、詐欺に等しい結果となった。
方や「施主」は何のメリットもないのでそんな工夫はしない。「ダマシ」部分を大きくしようなどという発想はそもそも浮かばない。施主にとってはコストを安くしていく作業とは、妥協や覚悟という形で現状を認識する作業だったりする。

また、極端な話、「売主」であれば売り終わるまでの間だけ建物のことを考えていればいい。しかし「施主」は最低でも住み替える/建て替えるまでの暮らしを考えて家を建てるのである。自分が消費者(住人)である建築主と、そうでない建築主とでは立脚点がかなり異なる。

言葉の定義からいえば、「建築主」という大きな集合の中に「施主」と「売主」がいるということになるだろう。「住人」と「非住人」という分け方でもいい。ちなみに「非住人」の中には「売主」の他に「賃貸人」(大家さん)というグループもある。また、「建築主」という集合の外にも「住人」はいて、今回の事件の被害者はそのカテゴリに分類される。
私は「施主」という字面自体には別にこだわりはないので違う言葉になってもかまわないが、住人である建築主と、住人でない建築主はちゃんと区分けして考えるべきだと思う。
一つの「建築主」という言葉にくくられてしまったら、「施主」(住人である建築主)にとっていいことはあまりない。自分の住居を建てるとき、あくまで「住人たる建築主」という立場から情報を集めたり、勉強をしたりする必要があるからだ(「施主のための住宅本の読み方」も、それを前提に考えている)。


「魔法の杖」

2005年12月04日 | その他
 
 ここのところ映画最新作への誘導のため、テレビでハリー・ポッターシリーズの映画を連続して放映しているが、我が家も家族で楽しんでいる。
 この週末、特にやることもなく、息子に「魔法の杖を作ろうか」と話を振ったら乗ってきた。
 山小屋の周囲で枝拾いをし、薪ストーブの火であぶって焦げ色をつけた。
 15本くらい作ったが、それっぽくなったのは3本ほど。それを写真に収めた。
 一番左側のものが「スギ」で、残り2本は「茶の木」である。
 これからボロで磨いて、荏油でもつけてみようと思う。