家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

台風15号による我が家の被害

2011年09月21日 | 我が家のスペシャルな事情

今回襲来した台風15号のすさまじい風雨によって我が家にも被害が出た。
庭木のザクロ(→LINK)が折れてしまったのだ。
樹齢は70年ほどだったと思われる。老木であることはかねて意識していたが、こんなふうに最期が訪れるとは思っていなかった。築60年超の古屋とも長年連れ添ってきた存在であるので、やはり悲しい。
ただ、4年ほど前から根本を同一とする枝木を2代目として育てており、木が無くなってしまうわけではない。
なかなか実をつけない木だったが、今年は2代目が3年ぶりに一つだけ実をつけている(関連エントリ→LINK)。代替りの予感があったのだろうか。
今日は午前で仕事を終わらせたせいか、主幹の最期に立ち会うことができた。こんなこともあるのだ。

いい夫婦の家づくり

2011年09月17日 | 我が家のスペシャルな事情

数日前、娘が「家の木にハトが巣作りを始めたようだよ」と教えてくれた。
今日何気なく外を眺めていると、山鳩が小枝をくわえて古屋の屋根に降りるのを見た。
たしかに巣作りをしているようだ。
しばらく観察していると、庭のモミジに作っていることがわかった。
2階のデッキテラスからそーっと覗いてみると、雌のハトの尾が見えた。作りかけの巣を見守っているのだろう。

          


ちょっと幸せな気分になった。

おそらく、この山鳩夫婦は以前「いい夫婦の日」というエントリ(→LINK1 LINK2)で紹介した山鳩の一族ではないだろうか。

いい家ができることを願う。



3.11と家

2011年09月12日 | 家について思ったことなど

  Blogを長いこと更新していなかった。自分自身の環境変化もその一因だが、3月11日の東日本大震災のあの津波の映像をみた後、能天気な家語りをするのに抵抗があったのもたしかだ。

 あの日から半年が経過したのを機に、その間考えたことをちょっと書いておこうと思う。 

  大災害を前にしては、個人の家は何も抵抗できない。
 津波、原発の放射能漏れ、周囲の液状化に対抗できる家なんて無いのだ。もし対抗できる家があったとしたら、それはシェルターのような家であり、平時にはまったく暮らしにくい家であろう。

 その一方、かつてあった平時の家の優劣を決めるような住宅性能差の議論も、些末で些細なことのようにも思える。
 「家の中の温度差が不快」なんていうのはなんと贅沢な心象か。そのことに不快感が抑えられないような人は、冷えた体育館で肩寄せあって過ごすことなんてできはしないだろう。
 だから、温度差を「不快」なんて強調するのはやめたほうがいい、とあらためて思った。「温度差がない家で快適」というのは否定しないが、逆は「不快」ではない。そのことについて以前、快適でも不快でもないゾーンの大事さを指摘してある(関連エントリ→LINK)。
 快適であることは喜ばしいことだけれど、だからといって快適でないことを即不快だと思うことは不幸だ。本当の不快な状況に直面した時、あまりにも弱くなる。

  性能の重要度についても考えた。

躯体の頑丈さ、耐震、免震はやっぱり重要なポイントだ。津波には耐えられないとしても、津波が到達せず、家が残りさえすれば、最低でも雨風をしのぐことができる。 

 電気、ガス、水道などライフラインが断たれた場合の強さはどうだろう。ライフライン(生命線)というくらいだから、長引けば生命にかかわる。
 何といっても水の確保が一番大事だ。雨水利用の仕組みがある家はそれを導入してない家にくらべれば多少長く耐えられるかもしれないが、大半の家は結局救援に頼らざるをえない。

 水が何とかなったとして、エネルギーとしての電気・ガスが来ないのも深刻だ。
 電気、ガスの最も重要な役割は熱源としての存在である。暖房や調理は熱源なしにはできない。ただし、他の熱源を自前で用意することはできなくもない。我が家の床下に多数置いてある炭袋は調湿を目的としているが、非常時の熱源としてある程度は頼りになる。この考え方は以前のエントリ(→LINK)で紹介したが、世間的にはもっと認知されていい性能だと思っている。同様に薪ストーブのある家の薪も有効だろう。プロパンガスの家は、その器具が損傷していなければしばらく安心だ。太陽光発電を導入している家は熱源としてはこころもとないものの、何もないよりはるかに心強い。

電気が断たれているときは、24時間換気の問題が出てくる。高性能な高気密高断熱住宅は換気が命。換気機能がなくなったら、窓を開けるしかない。私自身そんなことは些細な問題にすぎないとは思うが、高気密高断熱でない家の環境をまるで劣悪な環境のような表現をしている人々は大丈夫かしら、なんて思う。何段階も厳しい環境の避難所に避難したとたん、すぐにストレスでまいってしまいそうだ。もし大丈夫であるなら、平時に大げさに言わないでほしいものだ。 

 作家の曽野綾子が言う。

「基本的、原始的不幸――今日のような衣食住が確保されていない不幸――を体験したことないすべての人は、我々をも含めて、基本的、原始的幸福を発見する技術をもまた見失っているのである」

このたび、残念ながら東北の多くの人が原始的不幸を体験してしまった。逆に言えば、その他の人は家があるという原始的幸福がある。そのことを認識したうえで、被災地の方々に何か手助けになることをしたい。

小さなことに幸せを感じることのできる「幸福力」(→LINK)が重要な意味を持つ時代になってきたとあらためて思う。