家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

UMEZZ HOUSE 楳図邸の全貌があきらかに

2009年09月29日 | 家について思ったことなど
 
これまで漫画家の楳図かずお邸について何回か書いてきた(LINK)身として、これは紹介せねばなるまい。
UMEZZ HOUSE」という本がそれ。
写真家の蜷川実花氏による楳図邸写真集である。
9月30日発売というふれこみだったが、私は28日に某大手書店の店頭で見た。

竣工前から一部の周辺住民から訴訟をおこされるきっかけとなったのは外観だが、植栽もあって問題になるほどのどぎつさも無いことがわかる。
またその外観の写真はちょっとしかなく、多くのページをさいているのは内観だ。赤白チェックの床、同じく赤白の縞模様の特注スリッパ、巨大ステンドグラス・・・
むしろすごいのは外観より内観であることがよくわかった。ここまで自分のキャラを押し出した家はめったにないだろう。これはまさに芸術家が住む家だ。
ここまでいけば、後に文化遺産的な扱われ方をされるかもしれない。

(続続々?)男性の小用姿勢のモンダイ

2009年09月29日 | 家について思ったことなど

当blogでは男性の小用モンダイについて過去何回かとりあげてきた。
トイレ自慢――男性_限定
小用姿勢の問題を解決する便器

最近、TOTOが男性の小用スタイルについてアンケート結果を公表していた(↓)ので再び話題にする。
http://www.toto.co.jp/tips/tidbit/toilet/019.htm
 
調査内容は
 ・洋式便器に向かって立って
 ・洋式便器に座って
 ・和式便器に向かって立って
 ・和式便器に座って
 ・和式便器に取り付けた便座に座って
 ・小便器で
 ・その他
の選択肢から選ぶようになっている。
このうち、「洋式便器に向かって立って」が1位(57.2%)ではあるものの、5年前と比べると8%ほど下がっている。
台頭してきているのが「洋式便器に座って」派で、なんと5年前の23.7%から33.4%と10%分も上昇している。
私にとって深刻な(笑)モンダイは30代の小便器率が突出して低いことだ。↓

  

30代といえば施主適齢期と言っていい年代。この人たちが新築する家に小便器はほぼなくなっていると推測できる。「家庭内小便器保護の会」会員としてはこの状況を憂うばかり。
 「立ち派」が肩身の狭い思いをする時代がひたひたと近づき、そのあかつきには「立ち派」最右翼にいる小便器設置族は古代人扱いされるかもしれない。

いや待て、和室がなくなって希少性という魅力が増してきているように(関連エントリ→LINK)、家庭内小便器の希少性は逆に光り輝くかもしれない、そう思うことにする。


ちなみに、立ちでもない座りでもない第三の選択(→LINK)は、いくら希少性があろうとも永遠に脚光が当たってほしくはない。


プライバシーの日にプライバシーを考える

2009年09月28日 | 家について思ったことなど
9月28日は「プライバシーデー」らしい。
http://ranking.goo.ne.jp/column/article/2/615/

現代の家は過去の家に比べるとプライバシーを守る機能がかなり強化されている。
基本的にプライバシーは重視されるべきことなのでこの流れは自然ではある。しかし家の外部に対してはともかく、内部の家族間のことを考えるとプライバシーの確保はほどほどにしておいたほうがいいこともある。

たとえば、ひきこもりの増加などは子供のプライバシーを確保しすぎたことが一因(主因とはいわない)になっていると思う。
昔の家の間取りは、ひきこもろうにもひきこもりにくい構造だった。部屋が引き戸でつながり、部屋が通路になることも多いので、いやが応にも開けて使う時間があった。そんな場所では物理的に長期間ひきこもることができない。
そういう家で育つと、そもそもひきこもろうという発想自体が生まれにくくなる。何かから逃避したい場合、短時間押し入れにこもるか、短時間で解決しないなら家出という手段になるだろう。

現代の家には子供用の個室があり、そこに鍵もつけたりする。これではプライバシーの面では完璧だろうが、親にしてみたら子供が部屋の中で何をやっているかわからない。
場合によってはテレビやパソコン、冷蔵庫まで常備したりする。これで携帯電話を持っていたら、その部屋単体でほぼ生活を完結させることが可能になる。
別にそうしたからといって必ずひきこもりになるわけではないが、ひきこもりが可能な環境を用意してしまっているのである。子供が現実逃避したくなった時に、目の前にひきこもりできる環境があったならば、そういう選択をしてしまうことはある。

じゃあ、昔の家のように全部が見えるようにしたらいいともいえない。
子供にだって親に知られたくないことだってある。特に年頃になればそういうものは増えてくる。そのプライバシーは守ってあげるべきだ。
だから我が家も子供の部屋は作った。収納もあるので工夫次第で親に見られたくないものも隠せるだろう。戸をしめればプライバシーが守られた空間にはなる。
共有空間であるワークショップ欄間でつながっているので、光や音によって気配を知ることはできるが、直接見えるわけではないので最低限のプライバシーは守れる。
勉強したり、パソコンをいじったり、お菓子をたべたりする時はワークショップでやるようになっている。

長期間他と接触しないですむような環境は成長過程にある子供に提供するものではないと思っている。
「もう少し自分の部屋のプライバシーを強化したい」と渇望するくらいが子供にとってはちょうどいいと思っている。その方がプライバシーの価値を真に理解できる。食べ物の真の価値を知るのは空腹になる機会が必要であるようにだ。
また独立心を養うためにも、完全に自分の思い通りになるプライバシー空間は自分の力で勝ち取れと教えたい。社会においては、プライバシーが守られる空間や時間は何の努力もなしに取得できるものではないのだから。


※ 過去の記念日シリーズ
トイレの日
ガスの日
畳の日
ふきのとうの日
禁酒の日
いい夫婦の日
いい石の日
あかりの日

「秋の窓」という資産

2009年09月23日 | 山小屋・ログハウス
 
山小屋のひとつの窓から、紅葉し始めたモミジが見える。秋の到来がよくわかる。
季節の見える窓って、名画を飾っているのに劣らない価値があると思う。
これもバランスシートに現れない(有形なのに無形な)価値のある資産だ(関連エントリ→LINK)。

山小屋には他にも、「おいしい空気」「せせらぎの音」「鳥のさえずり」「虫の声」などなど、心豊かになる資産がたくさんある。
こういうものの存在が意識できると自分の中の「幸福力」が発動し、金持ちでもないのに資産家になっているような気分になれるのである。

資産形成において換金性はもちろん重要だが、何でもお金に絡めてばかり考えていると、お金にならないプライスレスな資産の価値を意識できなくなる。
プライスレスな資産は、金融危機にもびくともしなかったり、年月を経ても価値は衰えなかったりする。
先行きが見えない時代こそもっとうまく活用されていい資産なのだ。
まあ、ほかの人はどうあれ、少なくとも私のようなおめでたい貧乏性には適した資産形成である(笑)。


「正解主義」と家づくり

2009年09月08日 | 家について思ったことなど
藤原和博という人がいる。
リクルート出身で、後に民間人から公立中学校の校長となったような変わった経歴を持つ人物である。
住宅に関連して「建てどき」という本を書いていたりする(以前、「インパクトのある家のパーツ」というエントリで触れたことがある)。

日経ビジネスオンラインにこの藤原氏のインタビュー記事が載っていた。
家づくりの話ではなく、人材論である。ここで「正解主義」なる興味深いキーワードが登場する。

日本をダメにした「正解主義」の呪縛を解け
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090907/204164/
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藤原 最近、すぐに答えを求める人が増えているけど、その背景には正解主義があると思う。よく学校では「わかった人だけ手を挙げなさい」と言うでしょう。わかった人のうち、さらに自信があるやつだけが発言を許されるわけでしょう。その瞬間に、ほかの子は思考が止まっちゃうんですよ。

(中略)
人生には正解はない

このように、日本の教育界は常に正解を求める正解主義でやってきました。この中で10年、20年と育てられた子供がどうなるか、というと、常に物事には正解がある、と思ってしまうよね。今の若い人はほとんどがそのように思っている。30代、40代の人だって、人生の中に正解があるに違いないと思っているよ。

 だから、変な自分探しをするんですよ。自分にとって、絶対、正解の会社がある、自分にぴったりな仕事がある、とかね。でも、そんなものはあるわけがない。

 自分も変化するし、相手も変化する。人生はその中でのベクトルあわせじゃないですか。仕事にしても、普段のベクトルあわせが本質なのに、正解があると思っちゃうわけよ。これは結婚の問題もそうだと思うよ。いつか正解が現れると思っているうちに、潮時を逃してしまう、というみたいにね。保留しちゃうんだよ。
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この記事には家づくりのことは一言も出てきていないが、私のほうで家づくりと結びつけて考えてみた。
というのも、家づくりの世界でもこの「正解主義」がはびこっていることが思い起こされたからだ。

私は、はっきり言って家づくりにおいて唯一無二の絶対の正解などないと思っている。
施主それぞれの前に様々な「解」が考えられて、ベストに近い解、ベターな解、ワーストに近い解等々のたくさんの解が散らばっているとイメージしている(関連エントリ→LINK)。
ベスト、ワーストなんていってもそれぞれの解を採点する評価軸は多岐にわたっている。仮に点数をつけるにしても採点者によって変わってくるような解の群れ。論文や小説の採点・評価をイメージするといいかも。

ところが、一部の家づくりのプロによる指南においてはそうなっていない。そこでは正解と不正解しか示さない。
自分の勧める方法が唯一の「正解」であるように語り、ベターな選択肢の存在を無視し、その「正解」以外は劣悪な「不正解」みたいな論調。
そして、正解を選べないと一生後悔するような言い方をする。

藤原氏が言うように「人生に正解はない」。
これは実感できる。今自分が就いている仕事は唯一無二の正解かと自分に問うても自信はない一方、不正解とも言えない。
いい方か悪い方かと問われて、いい方と思えれば理想としての正解に近く、悪い方に思えれば遠い。そんなふうに正解への距離をイメージするものではなかろうか。たった一つの正解などというものはない。家も同じことだと思う。

人間だから選択を間違えることはある。しかし、間違い方にもいろいろある。
「最良のものを選んだつもりが、もっといいものがあった」
という間違いと
「最良のものを選んだつもりが、最悪のものだった」
という間違いでは、深刻度合いはまったく違う。
また、補強したり修正したり運用を工夫したりすることによって選択の失敗による影響を軽微なものにできることもある。
その時点で間違った選択をしても後になって結果オーライだったなんてこともある。

一つの「正解」だけを示し、それを選択した人だけが幸せになり、そうでなかった人は悔やみ続けることになる、そんな家づくりの「正解主義」を唱える人に振り回されることこそ不幸だと思う。

自分にとってのベストな解を探すことをまず努力する。そして後からでも修正や手を加えることでベストに近づけていくことは可能、そう考えたほうが幸せに過ごせる。

最初の選択というプライマリーばかりを重視する風潮(関連エントリ→LINK)も「正解主義」の一面を表しているように思う。
依頼先を選んだ時点とか、竣工時のスペックだけを見て正解・不正解を判定する。そして「正解を選んだ」と安心してしまったあとは思考停止してしまう。いい大学や大企業に入っただけで「正解」と考えてしまうことに似ている。それは決して人生の正解と同義ではないのに。

正解を選ぶのではなく、正解を作る――人生も家も家庭も、基本的には「作る」心構えで取り組むべきものだとあらためて思う。

和室についてのポジティブシンキング

2009年09月03日 | 家について思ったことなど
昭和の半ば生まれの私が学生だったころは、ワンルームマンションも普及しておらず、下宿・アパートといえば和室ばかりだった。フローリングの洋室の物件だったりすると、それはおしゃれに見えた。
当時、和室はありふれていてつまらないだけではなかった。
時代遅れ的ムードを埋め合わそうとしてなのか、妙なアレンジをして失敗している例が多かった。
私が最初に住んだアパートは変な模様の壁紙が張られていた。その模様は畳や鴨居、天井とまったくマッチしていなかった。そして畳部屋なのにいきなりドアでトイレとつながっていた(割安物件のため、やむなく入ったが・・・)。
友人の部屋を見ても、和室なのに照明は未来的デザインとか、ちぐはぐな洋風のカーテンとか、おしゃれ感はまったくなかった。

さて、日本の21世紀は様変わりしている。1K、1DKあたりの間取りでは全部がフローリングだろう。2DK以上でも和室が存在しない家のほうが大半ではないだろうか。
ダサいイメージの和室を敬遠する若者と同調するように供給側もフローリング化を進めていったのだろう。
そんなこんなで、いまや都市部の住宅(特に賃貸住宅)では和室や畳はめずらしく、フローリングのほうがありふれたものになってきている。

これは逆に和室にとってのチャンスだ、と思う。
ありふれたフローリングの部屋より、正統派の和室のほうが希少という面でおしゃれ度のポイントが高い。
もし目の前に和室があったなら、かつてのように、わけのわからない洋風テイストを盛り込む方向ではなく、和を深める方向で「洋モノ」を排除したら、すぐに落ち着いたおしゃれな空間にできそうだ。
むろんフローリングの洋室は洋室なりのおしゃれな空間にはできるのだけれど、洋室自体がありふれている現在、他と差別化するにはそれなりのセンスと努力を要する。一方和室は存在が希少になってきているがゆえにちょっとしたことで付加価値がつきやすくなってきている。
和柄や漢字のTシャツが定着しつつあるなど、「和」のクールさが見直されている時代。和室を持っていることを誇らしく語れる日は近いかも。

例の「畳ビズのうた」を展開した全国畳産業振興会もいろいろと活動しているようではある↓。

畳の復権目指せ 市場開拓プロジェクト進行中 (産経新聞)
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090901/biz0909011307009-n1.htm

目新しさを狙うのもしかたがないのだろうが、少数派になっていることを逆手にとって正攻法で畳空間の粋さを訴えるのもやってみたらどうかと思うのだが…