家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

出たゾ、手裏剣

2008年04月29日 | やまぼうし
 
早朝ウオーキングの出掛けに玄関脇のやまぼうしを見たら、花が咲いていることに気づいた。
去年はなぜか咲かなかったので、この発見はうれしかった。
ざっと7輪ほど確認できたが、どれもまだ花弁が小さく、これからといったところだろう。
今年はいくつ手裏剣が出てくるだろうか。食べられる実はいくつなるだろうか。

楽しみができたので、ウオーキングの足取りも軽かった。
ま、おめでたい人間の本領発揮というわけである。

住宅情報におけるInformationとIntelligenceを意識する

2008年04月27日 | 家について思ったことなど
書籍・雑誌やインターネット、あるいは直接会って住宅関連業界人が発する情報を見聞するとき、以下のような点に注意したい。
・ライバル業態・業者の成功事例を無視し、失敗事例を選んでその業態・業者を語っていないか
・ライバル業態に属するレベルの低い業者を例に出して、その業態全体を語ってはいないか
・自分たち以外の複数のライバル業態・業者の失敗例をまぜこぜにして語っていないか
・ライバル業態・業者との成功事例を特殊なパターンのように語っていないか(例えば、施主が真実を知らないから成功したと勘違いしているだけ、施主が普通でないというだけ、特段おかしくはないが余計に金をかけすぎている、とか)

情報という言葉は意外と意味が漠然としている。
しかし英語では情報といってもインフォメーション(information)とインテリジェンス(intellgence)に分かれ、もう少し明確になっている。
おおづかみに説明すると、インフォメーションは、そこにある厳然たる事実を表したもので、インテリジェンスはインフォメーションを分析して組み立てた戦略のことである(※)。
<インフォメーションとインテリジェンスの関係についての簡単な例>
上昇しそうだった金利はむしろ低下傾向にある(インフォメーション)
不動産は値下がり傾向である(インフォメーション)
 ↓
マンションを買うのはもう少し様子をみてからでいい(インテリジェンス)

インフォメーションの正誤を判定するのは比較的たやすいが、インテリジェンスの正誤判定はけっこう難しい。ものによっては意思決定者の制約や意思決定時間の違いによって正誤が変わったりすることもある。
情報発信者が、敵対する陣営に関し、第三者向けに流す情報について注意すべきことは、提示されたインフォメーションにウソはない場合でも、提示されたインテリジェンスが正しいとは言いきれないことである。
業者サイドが発信する情報は多かれ少なかれ以下のような傾向がある。
A:「自分達の成功例というインフォメーションを提供しながら、自分達を選んだほうがいいというインテリジェンスを提示する」
B:「敵対陣営の失敗例というインフォメーションを提供しながら敵対陣営を選ぶべきではないというインテリジェンスを提示する」
提示するインテリジェンスありきでインフォメーションを選び出している、と言えなくもないわけである。
分析に使われたインフォメーションの選び方に偏りがあるインテリジェンスをまともに受け止めると、情報の受け手はミスリードされるリスクがある。
したがって依頼先を選ぶ側としては、依頼先候補が提示していないインフォメーション(依頼先候補あるいは同種組織の失敗例、敵対者・業界の成功例)を探して見つけ出し、自分なりのインテリジェンスを組み立てることが重要なのだ。

ビジネスで顧客を自分の陣営に引き込もうとしたら、競合している相手への批判的な言動(上記Bのインテリジェンス)が出てくるのはいたしかたない。その指摘が当たっていることだって少なくないし、そういう言動をすること自体を声高に非難するつもりはない。
しかし、そのことに異様に力を入れている業者の情報はちょっと問題があると思われる。情報の裏に下記の項目のいずれか、あるいは複合した背景があるのではないかと疑ってみてもいい。
①競合が激しくて余裕がなくなっている
 実力に乏しい業者ほど「口撃」という手段に訴えようとするものである。逆に口達者な業者にお客が集まっているのが悔しくて、つい口撃で対抗することも。
②(邪教から一般人を救おうと考える)宗教的正義感による行動
 例えば、自分達のやり方が最高のやり方だと自信がある業者が、思ったように主流化しないことがおかしいと思い始め、他者を糾弾することで世間を啓蒙しようとしている、というようなこと。そのほかには、自分達の基準ではカルトだと思っている業者・業態が世間的に印象良く取り上げられていることに対し警鐘を発したくなっている、というようなこと
③ライバル業態になびく人々の性質が気に入らず、機会があれば批判を言わずにいられなくなっている
 例えば○○ファンの気質が嫌いな△△業界人が○○というカテゴリを見下すような行為(「○○」と「△△」の項目を、「ハウスメーカー」だの「建築家」だの「工務店」だの「分譲マンション」だのいろいろ組み替えながら置き換えてみるといい)。そもそもファンの気質が一律であるとみなすのはなんとも短絡的なのだが…。

情報発信者に上記のような背景がある場合、提示されたインテリジェンスの有効性はよくよく考えて判断すべきである。敵対者に対する憎悪や差別意識までインテリジェンスの内容に反映している可能性が高い。
とくに掲示板系の情報はそういうことを意識して読んだほうがいい。2chのように発言者の行儀の悪さが認知されているところばかりではなく、その他の普通の掲示板でも業界人と思われる論評はよく見かけ、上記のような背景がうかがえる発言は少なくない。
掲示板に限らず、こぞって批判的な発言を繰り返している場所・場面は「サイバーカスケード化」を意識しながら冷静に眺めたほうがミスリードされにくだろう。
ただそういう場所でも、提示されたインテリジェンスはともかく、パーツとして盛り込まれたインフォメーションが事実であることだってあるわけだ(関連エントリ→)。

情報を有効に使うには、リテラシーを意識しながら、役に立つ情報を丹念に拾い出して自分が判断することが肝要である。

さらにいえば、「百聞は一見にしかず」。
役に立ちそうなテキスト情報を拾い出したとて、リアルな場面に赴いて接する生の情報のほうがもっと大事だ。

(※)informationとintelligenceに関する本質的な考え方に興味がある人は↓がオススメ。
NED-WLT「重要度を増すinformationとintelligenceの違いに関して


大きな机の効能

2008年04月19日 | 我が家のスペシャルな仕様
子供のころの私の勉強机といえば、家業の商売で使っていた事務机のおさがり。妹も同じだった。
同級生の新品の学習机は、高さ調節ができたり、キャラクターの絵が描いてあったり、電気スタンドや本棚が付いていたり…。とてもまぶしく、うらやましかった。
両親は子供の考えていることはうすうす分かってはいただろうが、大人の知恵と経験で学習机は不要というムードを最初からかもしだし、リクエストすら出させてはくれなかった。

中学生くらいになると、両親の判断に感謝した。
学習机の高さ調節機能も、キャラクターの絵も、大人の階段を上りはじめた少年にはありがたくないものになりさがっていた。
事務机はシンプルで据付の本棚もスタンドもなく、机の上はいかようにもカスタマイズできた。
もし自分でねだって学習机を買ってもらっていたら、使い続けることが憂鬱だっただろう。ねだっておきながらまだ使えるものを買い換えろなどという要望は貧乏性一家には通用しない。

自分に子供ができたときも、この経験から子供用の学習机を買おうとはまったく思わなかった。実際、私が使っていた古い事務机を与えていた。
家を建て替えよう、と決断したとき、さて机をどうするか、というのが検討課題となった。事務机を引き続き使うにはボロすぎるし、どうにも収まりが悪い。

建築家から出された提案は、造りつけの大きな一つの机。

これは要望として伝えていた工作室構想がワークショップという形になり、その部屋のメインのパーツとしてあらわれたものだ。
工作台兼勉強机といえる長いデスクである。

何年か活用してみた身として、大きな机の効能をまとめてみよう。

<その1>コミュニケーションの発生
 子供たちが並んで勉強し、娘がわからない問題を息子に聞いたり、世話焼きな息子がのほほんとしている娘をたしなめたりしている。夜遅くに帰ってきた私がパソコンをいじっていると、欄間でつながっている子供部屋から「お父さん、電気がまぶしいから手元のスタンドを使ってよ」なんて声がかかったりする。休日は私がなにやら工作しているのを見て質問してきたり、逆に妻と娘が作った手芸作品の感想を聞いてきたり…。
 ようするに自然にコミュニケーションが生まれる。家族をつなぐ効果がある。コミュニケーションスキルも自然に修得される。コミュニケーションスキルは場数によって養われるものである。すぐに自室に引き篭ってしまってはスキルは身につかない(※)。

<その2>共有スペースの意識とマナー
 大きな机では使う人のテリトリーが明確に決まらない。交互に使ったり、複数で使っても境界線があいまいだったりする。おのずと譲りあいや整理整頓が美徳であるという意識になる。個室の中の個人の机では「片付けないこと」に罪悪感が生まれにくい。
 整理整頓がちゃんとできているかと問われれば、私が一番反省しなくてはならないかも知れない(笑)。子供たちも散らかしっぱなしの時もあるが、私にしろ子供にしろ、個人の机より、いやおうも無く片付けなければならない場面は多くなる。

このように建築家の提案は実効性のあるものになった。

建築家に批判的な発言をする人は、「家の見た目ばかり気にしていて使い勝手が悪い」なんて簡単に口にする。それはあまりに乱暴な断定である。建築家といってもタイプは様々なのに、芸術家気取りの建築家をスタンダードな建築家像と決めつけて語っている(「『家』の問題」も背景にありそうである)。

使い勝手の良さを追求すれば機能美にもつながる。施主家族のオリジナルなニーズを満たそうとすればオリジナルなデザインになる。そういう方向で設計して見た目がよくなれば一挙両得だ。

4mを超す机なんて、ハウスメーカーからはなかなか出てこない提案ではないか。規格外のため、妙にに高い金額になってしまうから。
私は強度面で少々懸念もあったが、施工にプライドのある工務店に依頼したことでウデのいい大工がしっかり作ってくれた。いまのところ、ゆがみや傾きなどはない。

設計者と施工者がそれぞれ技を競い合う、そうした面白さもある。


(※)人間一人になりたい時もあるので、子供部屋で篭ることは可能。しかし長時間篭っているわけにはいかないようにあんまり便利でない部屋になっている。
私の考えでは、個室を与えることで自立心が養える、なんて大きな間違いである。便利な個室を与えることは篭りっぱなしを可能にし、むしろ自立できにくくする恐れがある。子供が、精神がコドモのままで自分の城(殿様としてずっといられる快適な場所)を与えられれば、「城」を獲得する苦労も、「城」に対する責任も知ることができないだろう。
 自室にいる時間が短くて親との接触機会が多すぎてウザイと思ったら、それこそ自立について考えるチャンスなのだ。いわばウザイと思わせることだって子育ての一環なんである。


やまぼうし、一気に芽吹く

2008年04月13日 | やまぼうし
 
うちのやまぼうしを見たら、元気に葉を芽吹かせていた。
ついこの前までは丸坊主で地味な存在だったが、一気に存在感が出てきた。
やまぼうしは姿形のメリハリが利いていて、おもしろい。
樹木の仲間うち(?)でも「わかりやすい性格」なんて言われていたりして…。

私は人間でも単純なヤツは嫌いではない(笑)。

Eさんの名刺入れ

2008年04月08日 | レザークラフト

かつての同僚Eさん(女性)から注文された名刺入れができた。
Eさんには昔、二つ折り財布を依頼されて作ったことがある。もう10年も前になるだろうか。
Eさんは会社をやめ、いったん主婦生活をしていたのだけれども、今はまたビジネスの世界に復帰し名刺入れが必要になったようだ。
こうしてふたたび依頼してくれたことを嬉しく思う。前回の作品に満足してくれた証だから…。

今回は財布ほど難しいものではない。
オーダーも、色の好みと、薄型、ポケットが二つある、という程度の希望で、あまりオリジナリティは出しにくい注文であった。
そうはいいつつ、どこにでもあるものではつまらないので、Eさん向けのアクセントをつけた。
アルファベットの「E」をモチーフとした装飾をほどこした。
これでEさんらしくなった(笑)。
女性の持ち物なので、やわらかさを出すために微妙にラインに曲線をつけてあるのがミソ。


「家づくり物語」――友人が書いた本をオススメする

2008年04月05日 | 家について思ったことなど
このblogではアフィリエイト・広告の類を極力排除している。
訪問者数から推測してそんなもので稼げるわけがない、という悲しい現実はさておいて、情報を探すためにネットを利用する私は、広告が無い・少ないページに好感を持っているからだ。
そのスタンスながら、今回は広告。広告といっても、弊BLOGの主題に沿った本の紹介であるので、いさぎよくエントリの本題とする。わざわざここに訪問してくれた人にとっては一般広告のような雑音性はないと思う。

広告対象は、ネットを通じて友人となった建築プロデューサーの朝妻義征さんが出版した書籍で、「家づくり物語」(幻冬舎ルネッサンス)という。
自分の家づくりに悩む桂子さんの、短期間だが刺激的な放浪記(?)である。

さて、本書はなにより、「家づくり(※1)を楽しみたい人」にオススメしたいのである。
家づくりは個人としては大金と長い時間を費やす大イベントであるから、私はできるだけ楽しまなければ損だと考えている。

楽しむために「押さえるべきポイント」というものがある。
家づくりを考える人は依頼先や工法、素材の知識を知ろうと、いきなり方法論から動きはじめがちだが、そのままやり手の業者に接触すると、いきなり相手に主導権を握られかねない。物事を楽しむには自分のペースで進めることが肝心だ。
だから方法論に入る前にやることがある。
「○○を実現するためにどのような方法でやるか」というときに、○○がはっきりしないことには最適な方法を見つけることができないはず。
本書に登場する「おじさんの妖精」ジンが主人公の桂子に教える「家づくりの秘訣」は、楽しむためとして提示するわけではないが、自然と家づくりを楽しむための重要なポイントをおさえていくことにもなっている。
ジンは桂子にいろいろな「秘訣」をなげかけるけれど、結局、自分の内なる要求と向き合うように導く。
実はそれは桂子にとっての○○、すなわち自分が本当にほしい環境を探す作業なのである。目に見えるモノから探すのではなく、気持ちのいい過ごし方を想像するところからはじめる、そうすればおのずとモノも選定しやすくなる。
自分のペースにあった依頼先を探すこと、工法、素材を選択すること、打ち合わせすること…いろいろなシーンで楽しめる。おせっかいな外野にミスリードされるリスクも減る。
合理化・効率化を追求する現代においては何事もシステマチックに進む。自分の軸を確立しないまま、方法論から一つのシステムに乗ってしまうと、第三者が見て問題ない家ができるとしても、自分自身が家づくりを楽しめなくなるかもしれない。

住宅に関する多くのパブリシティ(宣伝)本や、上から目線の啓蒙本に共通しているのは、ある工法、素材、施工者、設計者、業態等々を取り上げて「これが正しい」「これが最高」と主張している点である。
特定の尺度においては、それらの主張は間違っていないと思う。それらの本から様々な有用な情報だって拾い出すことも可能だ。しかしそれぞれが、一神教的に自分が正しい(そして異論を唱える他の人間が間違っている)と主張しあっているために、読者側は惑わされることが少なくないのだ。
他人の理論に振り回されないためには、自分の尺度をできるだけ明瞭にすることが大事だ。妖精ジンは桂子が迷うたびに登場するが、ポイントを教えつつもやはり自分で決めることを示唆する。何が大事かを決めるのはあくまでも施主だということだ。

著者の朝妻さんは建築家・設計事務所との家づくりのお手伝いを事業としているし、そういうシステム(※2)でビジネスしているゆえに、手厳しい人から「本書もこれはこれでパブリシティ本だろう」という指摘があることは想像できる。
ただ、少なくとも「これが一番」といって、特定の業者のやり方を大前提に展開するパブリシティ本よりも、まずは読者(施主)が業者のペースではなく、自分のペースで自分の家のことをよく考えようと導いている点において、良心的であろう。
本書は、家の性能判定や工法や建材などについてまったく具体的に指南していない(笑)。そのことこそが、請け負う側の理屈より発注する側のことを考えている証拠でもある。
朝妻さんはハウスメーカーとは業務関係がないようだが、相談に訪れた人がハウスメーカー向きであることがわかったら、ハウスメーカーにしたほうがいいと助言するという(この段階では朝妻さんにはまったく利益はない)。
建築家・設計事務所との家づくりのことを知らないまま(※3)他のやり方に行ってしまうのが残念と考えているものの、家づくりの仕方は様々だということを前提としている。他にとられまいと引き止める業者よりは誠実ではないか。本書で桂子は結局建築家との対面作業に入ることになるとはいえ、そこにいたるまでの検討・思考は、どんな依頼先との家づくりであっても役に立つことだ。
一施主としての私は、一般論として依頼先は建築家が最高と主張するつもりはまったくないし、依頼先の選定は人それぞれ自由にさせてもらいたいとも思っている。
ただ、最終的にどんな依頼先を選定しようとも、「楽しみたい」のならば、依頼先の選定より前に、できるだけ自分の軸を確立しておくべきだとは施主側全般に伝えたいと思っていて、その点でジンのガイドには太鼓判を押したいのだ。

一部のパブリシティ本の筆者は、自分がよいと考えるやり方に読者(施主)を引き込もうとするあまり、部分的にでも施主の生活慣習や価値観を軽視したり、不安をあおったり、方向転換させようとしたりする言説を展開していることがある。施主は家づくりにおいては経験不足かもしれないが、自分の普段の暮らしにおいてはしっかりと経験を積んでいる。家の性能面の一般的評価なんぞものともせず、すばらしい生活をしている人もいる(こういう人とかこういう人)。
そういう暮らしの達人とは言わないまでも、ちゃんと生活している人に気に入った生活パターンを変えさせようと導くのは的外れな説教に近い。
私はある工務店主の書いた本を読んで、ハードとしては品質の高い家を建てるだろうと感想を持ったが、子育てや家族のコミュニケーションに対する考え方がかなりズレていたので「依頼先としては不適」と判断した。いくら性能が良くても、自分と異なる生活様式を優と決め付けた理論を元にした構造や間取りを押し付けられるのはゴメンだからだ。
ほんとうにくどいけれども、楽しんで家を建てるには、依頼先となる業者・業界人の論理・尺度を前提に自分が合わせるのではなく、自分の論理・価値観をまずは尊重(※4)してくれる依頼先を探すという順序であるべきなのだ。

誤解されないように言っておくが、すべてを自分の尺度に合わせるように依頼先に要求するのは無理というものだし、細かな部分まですべて自分では判断しきれないものでもある。
だから自分が大事にしたい部分についてはきっちり要求しても、そのほかの部分においては依頼先に主導権をゆだねることもアリ、である。
要するに、ゆだねていい部分とゆだねたくない部分というのも施主が判断すべきことなのだ。本書を読めばそういうこともそれとなくわかってくるだろう。


フェアーな判断の一助となるよう、私と朝妻さんの関係を少し公開しておく。
私の家づくりに朝妻さんはかかわっていない。私が家づくりをはじめて、blogをはじめてから、ネット上で知り合った。
「業界唯一完全独立系建築プロデューサー」という肩書きに少々ひきつつ(失礼)、気軽に意見交換させてもらった。その後オフで会ったら、実に魅力的な人物だった。
もしこの本が売れても私に金銭的利益はない(この広告もアフィリエイトではないし…)。ただ、朝妻さんの懐が豊かになった事実を知ったら、それとなく「一杯おごって」と言える間柄にあることは表明しておく。そういう意味で利害関係が完全な「0」(ゼロ)ではない。状況によってはある程度のリターン(※5)が得られるかもしれないのだ(笑)。
この「広告」にバイアスはあるかもしれないが、ビジネスではない一般人による広告行為であることはわかって欲しい。

(※1)何度も言っていることだが、「家づくり」は竣工までのことではない
(※2)建築家・設計事務所との家づくりもそれはそれで一つのシステムなのだけれど、他のやり方よりはシステマチックではないことを言い添えておきたい。例えば、素材や設備などの選択において、よりフリーな立場から出発するので、限られた選択肢からポンポンと選んでいくような流れにならない。施主がどういうモノを望むのか建築家に伝え、建築家は世の中にあまたある製品の中から施主に合いそうな製品の候補を絞り込んで施主に提示する。施主がそれに納得しなかったら別の製品を探す、または一から作る、というような工程だ。それは、よりマッチングを重視した作業なのだが、他のシステムほど効率的ではない(ゆえに時間がかかる)。どちらがいいかは価値観とスタンスの違いでなんともいえない。
(※3)建築家・設計事務所のことを良く知らないで、人から聞いた知識だけで敬遠する人はけっこう多い。逆に、勝手に都合の良いイメージを膨らませてギャップに落胆する人もいる。何より「知る」ことが大事だ。
(※4)「前提」ではなく「尊重」であることに注意。施主は知識不足ゆえに実現困難な要望をもつことは往々にしてある。丁寧な意見交換のあと変更することもありうる。
(※5)こういう状況の場合、アフィリエイト広告がもたらすスズメの涙ほどの報酬より、期待効果を大きく想定(想像ともいう)できて楽しめるわけである。