家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

2004年12月29日 | 家について思ったことなど
 都会人には虫が苦手な人が多い。
 接する機会が少ないのでしょうがないとも思うが、「虫は苦手であたりまえ、だから家の中にいてはいけない」という風潮を作るのはどうかなあと思っている。益虫だって多いのに・・・。

以前の家にはハエトリグモがいた。
足が短く、ずんぐりしていて、地面をひょこひょこと移動するので、どこか愛嬌があってあんまりクモらしくはない。
しかし、何せ「ハエトリ」グモである。こいつらが、人の役に立たない生物を捕食する。
私は見かけても、「見回りご苦労」ってなもので、ちょっとした番犬のような位置付けで好きにさせていた。
ゴキブリは見つけたら叩き潰すけど・・・。

虫はみんな敵と思うより、味方がいるって思っていたほうが楽しい生き方だと思っている。
私は家を解体する時、「ハエトリグモは古屋に避難できただろうか」などと、少し心配してしまった。ヤモリの行方もちょっと気にしている。

 身体の中に寄生虫を「飼って」いる人は抵抗力が強い、などという説がある。もちろんエキノコックスなどを飼ったら危険だから、何でもいいわけではない。しかし、寄生虫といわずとも、例えばビフィズス菌など人間の身体の中には役に立つ生き物が住んでいるのは事実であろう。生き物を排除すればいいというものではないのである。
 家も似たようなものではないだろうか。

 虫を怖がって避けるという方向がどこまでも突き進めば、そのうち細菌やバクテリアをも一切排除しようとして、家はまるでICU(集中治療室)のような環境に近づいていくのではないか。
 それに近い場所でないと快適に思えないようになってきたら、そのときは生き物としての抵抗力が弱まってきているのではないかと想像する。

 新しい家で虫を見かけることがぐっと減りそうなのは、少しばかりさみしい気もある。

住み心地の視点

2004年12月28日 | 家について思ったことなど
住み心地は、いろいろな視点から考えるべきだ。

「夏涼しく、冬暖かい」というのは、気候が厳しいときに家の中でどのくらい快適性を求めるかという視点に立った住み心地である。住宅の供給サイドからはこの言葉が良く聞かれる。

しかし、それとは異なる視点もある。
気候がいい時、その恩恵をどのくらい感じることができるかという視点だ。この視点を重要視した場合、例えば、庭の花や落葉樹がいい構図で見える窓とか、初夏のそよ風がよく通る場所がある、などというのが住み心地をアップさせる要素になる。

人によっては、気候が厳しい時を快適に過すことよりも、気候がいい時を享受することの方が重要ということもあるはずだ。また、1年を通してみて、厳しい気候が長い地域とそうでない地域では何を重要視するか考え方が違ってもあたりまえだとも思う。

気候に限らず、環境のいい面に視点を持つと家作りはがぜん楽しくなる。例えば、「富士山が見える窓がある」とか「山の端に沈む夕日を眺めていられるベランダがある」とか「花火が見える屋上がある」とか「風呂につかりながら庭が見える」などと、わくわくしながら考えることが出てくるだろう。

 そのほか、周辺環境にあまり左右されない住み心地もあるだろう。
「開放感」という住み心地や、素材の「質感」という住み心地などはそうだ。

より多くの、いい「住み心地」を高いレベルで実現するのが理想だが、場合によっては複数の要望を満たす構造が成立しにくいこともありうる。例えば、「夏涼しく、冬暖かい」を高い水準で実現するために、断熱・気密を高めるには開口が少ない方がいいが、やりすぎると眺望や風通しを犠牲にしかねない。開放感を得るために吹き抜けを作ることと、暖房効率を良くすることも高レベルで両立させるのは難しい。

総合的にいい住み心地にしたいのであれば、自分が考える住み心地における重要なポイントはどこにあるか整理しておく必要があるだろう。それらをバランスよくかなえるようにするのがいい。
他人の言う「住み心地」は参考にするとしても、自分の重要な「住み心地」が整理させていないと無駄に振り回される恐れがあると思う。


クリスマスの現場にて

2004年12月26日 | 建築現場記録
 クリスマス当日、子供達を少し焦らせてみた。
 枕元にサンタクロースのプレゼントが届いていない、という仕掛け。
 早起きした息子は、いろいろなところを探したが見つけることができない。娘も置き出して探すのだが見当たらない。
 そこで妻が、「もしかしたら、サンタさん、まちがって本当の家の方にいっちゃったんじゃない?」と一言。
仮住まいだから分からなかったというリアリティを持たせたのである。
子供に急かされた私が建築中の新居に車で連れて行って、無事、子供達はクリスマスプレゼントを手にした。

さて、現場である。
1階の床張りに取り掛かっていた。玄関の上がり框も据え付けられてあった。
階段もできあがりつつある。手摺が着く側の壁にヒノキ板が張られていた。
現場は一段と木の香りが強くなってきた感じがする。


地窓の利点

2004年12月24日 | 我が家のスペシャルな仕様
 2階の部屋には地窓がある。
 この地窓は通風に大きな役割を果たす。
家の南側と北側に温度差さえあれば、何の動力もなく家の中を風が通る。
地窓は北側にあり、日陰の(南側に比べれば)やや冷えた空気を取り込む。それが、家の中を通って、高い位置にある越屋根の窓から抜けるという仕組み。

 地窓の利点はまだある。北側の家とのプライバシー問題が生じにくいのだ。
我が家の北側は、北側の家の南側と対面しているわけで、我が家が北側に大きな開口をつくったなら北側の家は気になるだろう。
しかし、地窓というだけあって、地面(床)のあたりが開口している。窓を開けていても、視線がぶつかることはまず無い。逆に地窓から我が家を覗き込もうとしてもせいぜい足元しか見ることができない。
 地窓は、「外界を拒絶しない家」という希望とプライバシー問題の双方をほどよくクリアしている。

駐輪場――外観対策と土間の収納

2004年12月23日 | 我が家のスペシャルな仕様
 住宅では、自転車、バイクを収める場所が必要だ。
 我が家の場合、現時点で自転車4台(大人用2、子供用2)と原付バイクを2台、有している。
リストラを考えてはいるが、多分1台減らすのがやっとだろう。
 これだけあると、しっかり置き場所を決めないとみっともないことになる。

 自転車類が外に出ていると家の外観に影響を与える。ごちゃごちゃした電信柱に加えて、これ以上、家の周囲にごちゃごちゃしたパーツは増やしたくはなかった。
そこで、家の内側(外壁より中)に駐輪場を作ることにした。

 このことは、外観をすっきりさせること以外にもメリットがあった。
 それは土間ならではの収納空間になることだ。
 土間があると、スコップやバケツなど外で使うものを収納するのにいい。
我が家の場合、古屋で使う火鉢や炭などをここに置く予定だ。
 漬物樽を置くスペースとしても使える。
 古新聞・古雑誌の一時的な保管場所にもなる。
 
 昔の家では、土間が重要な役割を果たしていたことがよくわかる気がする。

家の重心

2004年12月21日 | 家について思ったことなど
 家を建てるにあたって建築家にいろいろな要望・要件を出したが、そのなかに「重心が上の方にあるようなデザインにはしてほしくない」というものを入れた。
 好き嫌いといえばそれまでだが、自分の奥底で、あたまでっかちな建物に対し警鐘をならす何かがある。

 子供のころ、ウルトラマンが好きで良く見たが、中に出てくる科学特捜隊の建物が気になった。多角錐(すい)を半分くらい地面に突き刺したような形状は未来的で新鮮ではあったが、建物として違和感のようなものを拭うことはできなかった。

その後、どうやら、自分は重心が上の方にある建物は総じて好きにならない傾向がある、ということに気づいた。
変わった建築物を見るのは好きなほうなのだが、重心が高い建物を自分のものとして欲しいかどうか、というと欲しくはないのである。

旧日本長期信用銀行(長銀)の本店ビル(1993年竣工)を見たとき、「この銀行、落ち目になる」と感じた。そのビルは、横幅が同じ大小の箱を、奥行きの短いほうの箱を下に、奥行きの長いほうを上に乗せたような形状で、下から3分の1くらいの高さから上の方の床面積がぐっと広がっている。
その後、住専問題が深刻化し、外銀との提携もうまくいかず、長銀は2000年に消滅した。私の直感は当たった格好となった。
あとから聞けば、「あんなビルを建てたからだ」というようなことを言っている人は、ほかにもいたようだ。何か風水的な理屈があるかもしれない。
長銀は新生銀行となっているが、新生銀行もいまひとつぱっとしない。

 他にも、ビルの形状から、私が勝手に先行きを危ぶんでいる会社があるが、言わぬが花ということにしておく。

12/18、19の現場

2004年12月20日 | 建築現場記録
階段を工事中。
踊り場の段が据え付けられた。
ステップフロアの3段は、据え付け完了のよう。
階段が上れるようになると、階段途中につける本棚を設置する前に、妻の嫁入り道具である大きなタンスを2階クローゼットに運ぶ段取りになっている。
そのほか、2階天井のボードがほぼ張り終わっていた。


ここへきて、風邪をひいてしまった。
年賀状もまだ書いてないのに・・・。



「家(か)」の問題

2004年12月16日 | 家について思ったことなど
 建築家はメディアにおいては総じて好意的に紹介されているが、家づくりについていろいろと調べていると、「建築家」と呼ばれる人達に対して、批判的な住宅業界人がそこここにいることに気づく。
工務店の社長だったり、現場監督だったり、ハウスメーカーの営業マンだったり、大工さんだったりが、出版物やネットの端々で施主に向かって「やめとけ」と言っている。
批判する理由はそれぞれで、中には参考になる意見もあるのだが、それはこの場ではおいておく。そうした人々の言葉から、「家(か)」って末尾につくのがえらそうで気に入らないというようなムードを感じることについて考えたいことがある。
施主サイドの言説では、逆に、建築家の「家(か)」にできるだけ威厳を持たせたいという意識を感じることがよくある。
 このギャップが「建築家」という職業に対する評価のあやふやさを増幅している感がある。

世の中には「家(か)」のつく職業はいろいろあって、必ずしも「家(か)」のニュアンスは一様ではない。
例えば、
落語家(噺家)の「家(か)」には妙な権威付けはされていないように思う。
格闘家は、「格闘を見せることで客を呼べる人」くらいのイメージである。
「政治家」とか「評論家」なんて軽蔑されたりすることも多い。
 決して、芸術家の「家(か)」のような、崇高さ漂う使い方だけではない。

これまで、建築家というと、いわゆる「大御所」のような人だったり、「新進気鋭」の人だったり、芸術家っぽさを強調する感じでとりあげられてきている。
だけど、最近はそんなシーンばかりではない。芸術的建築が施される場所だけでなく、一般人の住宅をテリトリーに活躍する建築家は増えている。
そろそろ「家(か)」のニュアンスを変化させていってもいいのではないだろうか。
もともと、芸術家的な「建築家」なんて、一般人との接点はほとんどないのだし、むしろ、接点の多い住宅設計のプロフェッショナルの方を、一般人が「建築家」という言葉とともに広げてしまえばいい、なんて思う。

 私は割と気軽に「建築家」という言葉を使う。その一方、建築家を「先生」と呼んでいない。
芸術作品を作って欲しいと依頼したつもりはないし、「先生」と呼ばないと機嫌が悪くなるような芸術家肌の建築家は、最初から除外している。

 私は、建築家を設計技術に秀でた頼もしいプロフェッショナルとして尊敬しているが、落語家や格闘家の「家(か)」のようなニュアンスで「建築家」という言葉を使っているかもしれない。
建築家という言葉に、良くも悪くも思い入れが強い人(結構いるのだ、これが)と話す時は、少し気を回す必要があるな、と思ってきている。

インパクトのある家のパーツ

2004年12月14日 | 家について思ったことなど
藤原和博さんという人が「建てどき」(情報センター出版局)という本のなかで、「バルコニーは家の顔つきの中では、眉毛の形くらいの影響力がある(パーツである)」というようなことを言っている。
この考え方に賛同する。
外観を構成する家のパーツのうち、前から気にしていたのが雨どいと、バルコニーないしベランダ(主に手すり部分)だった。

バルコニー(ベランダ)は家の外観上、真ん中あたりに位置することが多く、アクセントとして重要度の高いパーツ。しかしながら、そのデザインに感心するような家はあまり多くはない。藤原氏は既製品(の手すり)はやめ、木製のものを作ってもらっていた。

 我が家は結局、ベランダというより「テラス」となったが、外面に手すりはなく、風を通す「すのこ」状の壁にしてしまうため、外からは、ベランダ(テラス)のようには見えなくなる。

これってもしかして、「眉毛のない顔」のような家ということか? それとも「極太の眉毛の顔」ということか?
 そんな「コワイ」外観じゃないはずなんだが。

ガレージについて

2004年12月13日 | 我が家のスペシャルな仕様
 ガレージを設置することは強い要望ではなかった。特に車好きというわけでもないし、屋根のある駐車場を作ってくれさえすればいい、という程度の希望にすぎなかった。
 しかし、結果的には設置した。ガレージの上を有効活用する魅力的な設計プランがでてきたためだ。

ただ、ガレージについては、前から気にしていることがあった。
これまでガレージのある家をいくつも見たが、何かしら近寄りがたい雰囲気を感じることが多かったのだ。
金属製のシャッター戸がそんなムードを作り出しているように思う。閉まったシャッターの前に人間が立っているのは風景になりにくい。居心地が悪く、その場から離れたい気にさせる。

営業時間の終わった商店ならそれでもいいが、住宅のガレージは昼間に閉めていることは多い。道路に接する家の大きなパーツであるだけに、無表情な面にすることは家全体の雰囲気をよそよそしいものにしかねない。
ご近所と気さくにつきあうのが我が家の家風なので、もし設計事務所に、シャッターを使わなければならないと言われていたら、戸のないオープンなカーポートにしたかもしれない。

建築家はもともとシャッター嫌いのようだったうえ、
外界を拒絶するような感じの家にしてほしくない
、という要望を伝えてあったこともあって、提案してきたのは金属枠に「すのこ」状に木を張る形の戸を作るというもの。
隙間があるので、外からは車とともに庭の緑が透けてみえるはずである。
暗くなりがちなガレージという空間に光が差し込んで明るくなる効果もある。


手刻みと手縫い

2004年12月12日 | 我が家のスペシャルな仕様
ハンドメイドが好き。
職人の技が好き。
そのせいか、建築家がプレカットでない手刻みの材で家を建てることを推奨していることをすんなりと受け入れることができた。

大工さんが昔ながらの仕口・継手で手刻みして組むと構造はとても強くなるということも、理屈を聞く前になんとなく納得できてしまった。
というのは、私が趣味でやっているレザークラフトにおいては、ミシン縫いより、手縫いの方が格段に「強い」からだ。ミシン縫いは糸のどこかが切れてしまうと、そこからどんどんほつれていってしまう。ところが、手縫いの場合は糸が切れてもほつれない。
手縫いが強いのには理屈があり、その理屈は手刻みが強い理屈とは特に関連はないのだが、同じように人間の「手」を介する作業ということで、その時点で機械ではできない何かが付加されているのは間違いないと推理できた。

手刻みには、熟練した大工の技術が必要だ。その分コストが高くなるからといって、最近の家では手刻みが減っている。これは残念なことだ。構造が強くなって長く持つのなら、決して高い買い物ではないのに。

腕のいい大工さんも、今ならまだ巷に残っている。そういう大工さんは最近の現場がプレカットばかりになってつまらない思いをしていることだろう。たまに巡ってくる手刻みの仕事はよろこんでやるのではないか。そうして喜びながらやる仕事は力の入れ方が違って、いい仕事になるはずだ――。そんな連想をしている。

12/12の記録

2004年12月12日 | 建築現場記録
先週は所用で実家に帰れなかったため、2週間ぶりの現場となった。
わくわくして見に行った。

1階はほとんど進捗がなかったが、2階はいろいろと変化していた。上からせめてきている感じだ。
写真は越屋根を中から見上げたものである。
まず、壁が形になってきていた。石膏ボードが張られて壁の存在がリアルになり、部屋として、より具体的にイメージできるようになった。天井もとりかかりはじめていた。
1階にはこれから据え付ける造作家具の一部も置いてあった。

これからは年末に向けてせわしなさが出てくると思うが、気をつけて、かつ確実に作業してもらいたい。

目指すキッチンの姿

2004年12月10日 | 我が家のスペシャルな仕様
 ウチのキッチンは特に凝っているわけではない。簡単に言えば、機能性重視のキッチン。

 流し(シンク)、ガスコンロが直列に並び、その前がカウンター、後が冷蔵庫と調理台が直列に並ぶという構成だ。
 収納は、流しの上と調理台・冷蔵庫の上に吊り戸棚、作業台の下にコンベック置き場と食器入れ、そして床下収納、といった感じ。
 少し変わっている点は、既成のシステムキッチンではなく、流しとガスコンロが業務用、収納が造作だということ、床がフローリングではなくタイルになっていることだろうか。

 床をタイルにしたのは、今回ガスコンロに加え、流しまで業務用にしたためだ。業務用の厨房機器は大抵濡れてもいい土間に置かれていることが多く、実際プロの厨房の床は濡れている。一般家庭ではそこまで濡れる使い方はしないが、濡れることはあるだろうと考えた。
 ただ、冷たいタイルの床は冬つらいので、床暖房を入れている。

主に使うのは妻と母。ウチは共働きなので、平日は母が、週末は妻が主になって料理を作る。
父も料理するのはきらいではない(いわゆる「男の料理」というヤツだが)。
私が主役になるのはソバを打つ時と、包丁を研ぐ時くらいか。
包丁は10本以上ある。砥石専用の収納場所も確保した。

整然さをウリにしようというキッチンではない。
私のイメージは、調味料や調理道具、食器が上に出ているときも絵になるキッチンがいいと思っている。それもオシャレな図ではなく、使い込んだ感じ。
一部の雑誌に出ているようなピカピカのキッチンは目指していない。ああいうキッチンからは、おいしい料理が出てこない気がする。

「このキッチンで料理する人の料理を食べてみたい」と思えるようなキッチンにまでなったら最高である。
当然のことながら、竣工時点でそういう風格までは備えることはできない。家族の手によってエイジングしていくこと()になる。

「前世代省エネ生活」の方が省エネでは

2004年12月08日 | 家について思ったことなど
住宅には、次世代省エネ基準というものがある。気密と断熱の基準を定めてエネルギー消費を抑えるねらいがある。
最近の高気密・高断熱住宅のビルダーの中には、次世代省エネ基準すら低レベルであると公言するところも多い。

だけど、あくまで「省エネ」という面では、これらの勢力(?)はちょっといばりすぎているのではないか。
住宅の高気密・高断熱化には大きなメリットがあるので、否定しようなどとは思わない。ただ、「快適さ」でいばってもらってもいいけれども、「省エネ」でいばっていることには違和感がある。全館暖房の必然性・合理性がしっくりくる厳寒の地なら高気密・高断熱は「快適さ」でも「省エネ」でも誇っていいように思うが、そうでない地方では「快適さ」はともかく「省エネ」とはいいにくい。
 「省エネ」でいばっていいのは、「快適な割にはエネルギー消費を抑える住宅にすること」ではなくて、「実際にエネルギー消費総量が少ない(増えない)暮らしをすること」だろう。

 我が家は前の低気密・低断熱住宅に住んでいた時、冬は局所暖房で、エネルギー消費量は同規模の高高住宅の全館暖房より少なかったはずだと思っている。「省エネ」という面で卑下する必要はなかったはずだ。夏だって、天然の風や、うちわで暑さをしのぐことが多かったからエネルギー消費は少なかった。
今度の家は、気密も断熱も相当に向上することになるが、もしかしたらエネルギー消費総量が以前より増えるかもしれないと思っており、そうなったら「省エネ」などといばるつもりはない。

今でも局所暖房でエネルギー消費の少ない生活をしている人は、「前世代省エネ生活だ」と、胸を張ってもいいんじゃないだろうか。その生活は決して暑さ寒さの我慢比べをしているわけではなく、単に環境に慣れて暮らしているという面もある。


階段の段数

2004年12月06日 | 我が家のスペシャルな仕様
 家づくりに一家言ある父にしては、今回の家づくりにおいて口うるさく言うことは少ないのだが、階段の段数は早いときから気にしていた。
 「13段にならないようにしろ」ということであった。
 それはいったい、いかなる理由によるものか。

 聞いてみたら、なんのことはない、単に「縁起がよくない」ということだった。
 山小屋作りでアドバイスしてくれた知り合いの大工さんもそんなことを言っていたらしい。
 そんなことを気にする人たちがいるのは間違いないようだ。

「ゴルゴ13」のネーミングの由来にもなっている処刑台の段数(13段)にいわれがあるように思われるのだが、はっきりしない。

ところがその一方で、住宅において、13段の階段というのは多いようなのである。

ネットで見つけた文章(メールマガジン「土地と建物の関係」バックナンバー
http://sanshin-home.jp/totitate/sum_152.htmより一部抜粋)
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●2階建て住宅の場合、どこの家にも必ず階段が有り、一階と二階との
上下をつなぐ役割をしていますが、階段の段数は何段有るかを意識して
上り下りする事が有りますか?。
実はほとんどの階段が13段に成っているんです。これは、一階と二階
の階高が2.7m~2.9mで設計されていて、階段一段当りの登りや
すさを考えた高さ(蹴上げ)が約21Cm~22Cmなので、その割合
で割り付けると13段と言う事になります。
もっと登りやすく14段や15段にすれば?とも考えられますが、今度
は階段一段の奥行き(踏面)が、やっぱり20Cm以上は無いと歩きに
くいという事も有って、段数を増やすとそれだけ無駄な面積を取ってし
まいます。
又、階段の使いやすさは歩幅で決まります。大人が自然に上り下りでき
る「踏面」と「蹴上げ」の寸法は合計で45cmくらいがよいとされて
います。そんな訳で、一般的な2階建木造住宅の階段の段数は、ほとん
どが13段に成っているんです。
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このメルマガでは、この後、処刑台の話を出しながらも、風水的にも問題ない、と結論付けている。

13段はよくないというのは、やはり根拠がなさそうである。気にする人のほうが少数派のようなのだ。設計事務所もこちらが指定するまで何も気にしていなかった。

我が家は結局、気にする人の意見を採用して、階段用の面積をやや広くとって14段にしてある。
たまたま、私の周囲に13階段嫌いが多かった、ということになるだろうか。