3.11以降、日本人の意識は変わったといわれる。私もそう思う。
だけど、議論の仕方は全然変わっていないのが残念でしかたがない。
例えば、原発問題。
反原発の流れは3.11以前とは比べようもなく強まっている。
3.11以前から、原発には批判的な姿勢だった私だが、最近の一部の反原発論者達に同調しようとはまったく思わない。彼らの論調、論法が感心しないからだ。
原発をすぐさま停止しない政府や原発関係者を悪人のように論じる。
政府や原発関係者にも彼らなりの正義があるのに、正義からの行動ではなく、私利私欲を満たそうとする邪悪な意思による行動のように語る。原発嫌いの私とて、原発推進派が邪悪な意志を持つ存在とは思っていない。彼らは原発を動かすことによって人々を幸せにしたいと考えているのであって、多くの人を不幸にしようとして原発を推進しているわけではない。
ある弁護士の方がこういうことを言っていた。
「絶対的な正義と絶対的悪は存在しない。部分的相対的正義と部分的相対的正義のぶつかり合いの中から、社会的正義が生まれてくる」
政治家を悪人のように言う人は、その政治家が世の中を悪くしようとして政治家を志したとでも思っているのだろうか。そんな動機で政治家になる人間などいない。自分が考える正義のもとに政治家を志したと断言してもいい。その政治家の正義と自分が考える正義が違っているだけだ。
政治家の多くがTVの時代劇にでてくる悪代官と越後屋みたいな悪だくみをしていると考えているとしたら大間違いだ。また、意図的にそういう印象付けをする連中は嫌いだ。
自分なりの正義で動いている人を悪人呼ばわりして、その人が行動を改めるわけがない。
対立しても、基本姿勢は「その正義を通しても、いい世の中にはなりませんよ」と説得するべきであって、「悪人は消えろ」みたいな言い様は相手をかたくなにさせるだけだし、真の解決からも遠ざかる。
対立する相手側を邪悪なものと考えることは戦争につながる。邪悪なものを封じるためには何をしても許されるようなムードになってしまうからだ。
悪代官と越後屋を切り捨てる桃太郎侍になった気分で論を繰り広げがちな人は、結局、切り捨てないとおさまらない。
敵を邪悪な存在と位置付けて、その悪を退治するというやり方がのさばると、戦争を起こしやすい性質を国民の中に成長させてしまう。「鬼畜米英」のスローガンと同じ構造を持つ危険なやり方なのだ。