家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

「三丁目の夕日」作戦の陰謀に気づく

2007年11月28日 | 家について思ったことなど
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がヒットし、最近公開された続編も話題を集めている。

原作はビッグコミックに連載されている西岸良平のマンガである。

最初の映画が封切られた時、「『三丁目の夕日』って、原作のほんとうのタイトルは『夕焼けの詩』っていうんだよ」なんていう中年サラリーマンまるだしのどうでもいい豆知識をつぶやきながらも、映画館に足を運ばなかったへそまがりは、どこのどいつだ~い、と、「にしおかすみこ」に問われれば、「私だよっ」と正直に告白する覚悟はある。

さて、それはそれとして、頻繁に流される「ALWAYS 続・三丁目の夕日」のTVCMを見ていて、私は国家的陰謀に気がついてしまった。

この映画をきっかけに、「昭和30年代の風景」が大はやりである。書店には、映画の原作ばかりではなく、グラフィカルに当時の風景を映し出したムック本がいくつも平積みされている。
オジサン・オバサンは懐かしがり、若者は自分の知らない時代への一時のタイムスリップを楽しんでいる。
レトロなものが魅力的に描写されていて、映画を見ていない私もこのムードは悪くない、などと思いながら、映画を宣伝するTVCMを見ていたときだ。
「まてよ、これはもしかして大衆を扇動する目的があるんじゃないか」との考えが頭に浮かんだ。

どんな目的が?
映画の動員数を上げようなどという誰にも分かる目的のことではない。
政府による「200年住宅」普及のための地ならしをしようという目的がひそんでいると見た(注)。

200年住宅に関連する以前のエントリで、私は以下のような指摘をした。
「200年住宅を現実化するためには、耐震強度や省エネ構造、スケルトンインフィルといった物理的要件を満たし、税制や住宅ローンなど経済的要件での後押しをするだけではだめ。古いものへの価値観、例えば築100年の家を『すばらしい』『カッコイイ』と思える価値観・文化を社会的に醸成するべきである。そして、たぶん、それに一番時間がかかる」

そう、上記でいうところの「時間がかかる」部分の対策についても、政府はひそかに着手していたのだ。
「三丁目の夕日」では特に住宅がクローズアップされているわけではないが、昔のもの、古いものの良さを観客の深層心理に植え込んでいる。こうしたことの積み重ねによって次第に「古いもの=ぼろいもの」「古いもの=かっこ悪いもの」という価値観を「古いもの=味のあるもの」「古いもの=かっこ良いもの」へと変化させていくという戦略。
あの時代の住宅の質は高かったとはいえないが、今の段階では、とりあえず「古いものもいいものだ」という価値観を醸成する方向に向かせさえすればいい。

日経新聞の今日の記事によると、政府は2008年度の税制改正で、200年住宅の普及のために固定資産税を4分の1にするという支援策をまとめた(↓)。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20071128AT3S2702027112007.html
こうした税制面での整備と同時に、価値観の醸成策もすでに取り組んでいたとすると、前回揶揄した自分を反省し、「福田、なかなかやるなあ」と素直にシャッポを脱いでしまおう(←昭和30年代の表現をあえて入れてみた)。

映画の関係者すら意識せずに、このような隠された意図のあるプロジェクトが、極秘裏に進められていたとすれば、日本政府はこの計画・実行をメフィスト・コンサルティング・グループに委託していると推測する。いろいろな人をいつのまにか何かの陰謀に加担させてしまうのは彼らが得意とする戦術だ。
メフィスト・コンサルティングは謀略を業とする組織だが、古い家を愛する私としては日本政府がクライアントになったこの陰謀については、乗せられてしまっても好都合である。
いや、むしろ既に知らないうちに工作員にさせられているかも。だったら、「何か報酬ください」ってとりあえず言っておこう。

なお、今回の「三丁目の夕日」作戦の実行責任者が誰かは知らないが、ひとこと注意しておく。

「コマーシャルの回数おおすぎ」 と。

たくさん流しすぎて、「オール電化」CMの陰謀が発覚した東電を他山の石とせよ。

あまり目立ちすぎると、そのうち岬元自衛官に気づかれて妨害されてしまうゾ。


注:今回のエントリは、このカレンダースケジュール(→LINK)の予定にしたがって書いた。



機器の魔力?

2007年11月26日 | 家について思ったことなど
産経新聞の企画記事に「溶けゆく日本人」シリーズというのがある。連載9回目の先日(23日)の見出しは「機器の魔力 便利さが自分を見失わせる」だった↓。
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/071123/sty0711230834001-n1.htm

カーナビ、携帯電話、PC、IH調理器に頼りすぎて「失敗」した事例が載っていた。
新聞記事というのはセンセーショナルに危機をあおることが多く、そのまま鵜呑みにしてはならない。
記事中で特に気になったのは以下のくだり。
「オール電化の家庭で育った小学生が、学校の理科の実験で燃焼器具のそばに不用意にノートを置き、燃やしてしまった。自宅では火の出ないIHクッキングヒーター(電磁調理器)を使っており、近くに本やノートを置いても問題はなく、火の怖さを理解していなかったのだ。ノートに火が移っても対処の仕方が分からず、友達が水をかけて火を消すのを、ぼんやりとながめていたという」

正直、IH調理器批判派の作り話ではないかと疑っている。
なぜなら、例えオール電化の家だとしても理科の実験で火を使う年齢までに、そこまで火の恐さを知りえないというのは相当にまれなケースだと思うから。
私の息子は、仏壇のろうそくの火がきれいに見えて、火に指を突っ込んで火の恐さを知った。
たしか1歳半くらいだったと思う。最近は仏壇もない家も多いけれど、誕生日などでケーキにろうそくを灯すなどの機会もある。火が危ないものであることを知る機会が皆無ということはまずなく、一回でも熱い思いをしたら火の恐さは刻み込まれる。

そんなこんなで事例に「まゆつば」感がある記事であるのだが、テーマの本質には基本的には賛同している。
記事中の
「快適さは一度手に入れたら簡単には手放せない。ものごとをよく考えることができる人でも機械がやってくれると頼ってしまう。快適な環境に置かれると、それまでの不便だった生活を忘れ、今の環境を当たり前だと受け止めてしまう」
という心療内科医の中川晶・大阪産業大学教授の指摘は、私がいつも気にしていることである。

私がIH調理器で気になるのは、「火の恐さを覚えられない」ことより、「火の使い方を覚えられない」こと。機械が何でもコントロールしてくれるので「火加減」というものを覚える必要がない。
既に「火加減」が何たるかを知っている大人ならIH調理器にしてもなんら問題はないが、最初から家庭にIH調理器しか存在しなければ、その家の子供たちは「火加減」を覚える機会がなくなる。
「火」を使える唯一の動物である人間が火を使えなくなったとしたら、それは個としてある面で退化していると思う。

IH調理器を導入するのは悪くない。ただ、その一方でもっと原始的な調理器「七輪」をも導入すればバランスがとれてよいと思う。
てんぷらなどの揚げ物は温度調節ができるIH調理器がとても便利でうまくできるが、焼き鳥や焼き魚など焼き物は炭火のほうがうまいものができる。そういう使い分けができるならそれはそれで進化といえると思う。
(ということで、最近、七輪の普及に一役かっているaiaiさんにトラックバック)



料理ではないが、「火加減」を覚えるなら薪ストーブを導入するのも効果的だ。

なお、薪ストーブを入れると「オール電化」契約をしない電力会社があるらしい。
私はIH調理器の利点を認めているが、そういう電力会社を知ればオール電化の導入はさらに後ろ向きにならざるを得ない。

姉歯問題とサブプライム問題を眺めて――ローリスクでやりたい放題

2007年11月14日 | 家について思ったことなど
姉歯元一級建築士による耐震強度偽装事件における東京地裁判決は、懲役5年、罰金180万円だった。姉歯被告は12日、この判決を「量刑が重過ぎる」として上告した。
殺人を犯したわけではないので一個人に負わせる量刑としてはこんなものなのかもしれないが、社会的損失を考えると「こんなものなの?」って感じる。
幾つのビルを取り壊したろう、何人が無駄な住宅ローンを負わされることになっただろう。
そして建築基準法の改正(改悪?)でどれほど着工が減ったことだろう。
全責任とは言わないが大半の責任がある人間の処罰がこの程度なのである。
社会的損失の大きさと比べるとやりきれない。

姉歯被告の判決よりもっと釈然としないのが、米国のサブプライムローン問題だ。
姉歯被告は偽装をしても「儲け」はたかが知れていたのに対し、サブプライムローン問題をここまで大きな問題にした人間達はそれまでにかなり儲けている。
返済能力が疑わしい人に信用を供与してローンを組んだ会社が起点になっているが、それよりも、そのローンを証券化した人間、その証券をろくに審査もせずに高い格付けを与えた格付け機関、その証券をレバレッジをきかせてファンドに組み入れた人間…、そういう人たちがリスクを何十倍も大きなものに膨らませていった。
信用力が低いのだから利回りが高いのは当たり前である。それが金融のプロによって証券化されてオブラートに包まれたようになり、まともそうな格付けが与えられる。それを運用担当者が購入する。結果論から見れば「誰が悪い」というより「みんなバカなことをやった」。
タチが悪いのは、当事者達は決して本当の「バカ」ではなく高学歴のエリートだったこと。
なんでそんなバカなことをエリート連中がやったんだ、といえば、「競争のため」というしかない。

そもそも彼らは悪いことをしているなどとは思っていない。誰よりも大きなリターンをとるために行動しているにすぎない。それが自分の報酬に直結するからだ。より大きなリターンを得るためにはリスクを覚悟しなければならない。ハイリスク・ハイリターンである。
リスクの大きさを推し量るために「格付け」があるが、その格付けもまったくあてにならないものであった。
格付け会社には構造的な問題がある。他の格付け会社より低い格付けを与えることが評判になると、お客(証券を発行する会社)が次第に逃げていくのである。したがって高めの格付けに誘導されやすい。
資金の運用者は、いい格付けで高い利回りの証券があれば購入したいと思うのは当然だが、そもそも利回りの高さと格付けの高さは相反する関係にある。そのことを疑問に思うべきではないか。それをレバレッジをきかせて組み入れたとしたら、運用者は商品のいびつさに目をつぶり、他の運用者との競争に勝つことだけを考えていたのではないだろうか。

マネーマーケットの住人達は高給取りだ。それは資金の出し手に高いリターンを供給することによって保証される。だから彼らは高いリターンにするため積極的にリスクをとる。
しかしこの問題を振り返ってみると、彼らにとってはハイリターンでローリスクだったのではないか。サブプライムローン関連商品のおかげでうまくいっているときは億単位のボーナスをもらっておきながら、問題が表面化して人から預かった運用資金に損失をもたらしても、最悪、会社をクビになるだけなのである。犯罪ではないので姉歯のような処罰もない。
何年か稼いで手元に何億円ほどもたまっていたとしたら、クビになることなんてたいして深刻なことではない。高水準のフロー(収入)がなくなるものの、高水準のストック(資産)は残る。
ローンを組んで破綻した住人のほうは、住宅を手放したうえ借金がまだ残ることになる。フロー(それも高い水準でない)は持続するかもしれないが、ストックは根こそぎ奪われる。ローンを組む前より悪い状態だ。得られたリターンといえば、自分の信用力では本来は手に入れることのできなかった住宅を購入して短期間、夢をみることができたというだけ。

なにか、おかしい気がする。

サブプライム関連商品で報酬を得た人の社会的な貢献を見てみると、自分の所属する金融業界のみならず、米国の住宅業界に好景気にをもたらした。建設業者や建材業者、不動産屋を儲けさせたし、雇用も創出しただろう。後の悪い結果を考えなければその時点では評価されていい。勇気のあるものがリスクをとることで社会がよくなったならばふさわしい報酬を得る資格はある。

しかし…
仕事に対する報酬というものは誰かの役に立ったときにもたらされるべきなのだが、逆に人に被害を与えたら責任をとるべきではないのか。
製造業にはPL法というのがある。製造物責任というヤツだ。欠陥品を作って提供したら、被害の内容に応じて賠償しなければならない。
金融商品にもこれを当てはめることはできないだろうか。
返済能力のないのが分かって組んだローン商品、破綻するリスクを過小評価したローン証券化商品、その証券に不釣合いな格付け、そんな証券を組み込んだファンド…、みんな誰かが作った商品だ。製造物とはいえないのだろうか。
実はリスクが大きかった高格付け商品なんて、廃鶏を使った比内地鶏商品と同じだ。

外資系金融機関の報酬の与え方にも問題があるとも思う。
短期間に稼いだ利益を短期間で評価して報酬を与える――、商材によってはそれでもいいかもしれないが、ローンのように長い時間をかけて決済するものを絡めた商品を作って、短期間に儲けたとして、それに対する報酬を一度に与えていいのだろうか。決済し終わるまで「最終的に」人の役に立ったとは言いがたいのに、売った時点だけの儲けで巨額の報酬を与えているのである。
その報酬が巨額なだけに、「無茶をしたもの勝ち」な状況になっている。そしてその「無茶」には、とても一人では背負いきれない被害をもたらすリスクをはらんでいる。

それを踏まえたうえで、どうしたらいいか考えてみた。

まず、金融商品にも製造物責任の考え方を導入する。
商品の責任者には、当初もたらしたリターンを評価して支払う報酬(ボーナス)は巨額になってもいい。ただし年金のように月単位で、組み込んだローン商品の期間に比例するような期間で報酬を支払う。
そして、後になって商品に欠陥が見つかったら、売り出した会社が責任度合いに応じて「被害者への補償」をすることとする。商品の担当者に対しては、そのあとの年金的報酬の支払いを減額ないし停止する。会社から見たら、社内の「責任者」に対して支払う予定だった巨額の報酬の残り分を、「被害者への補償」の一部にあてることができるというわけだ。
被害額によってはボーナスのみならず、基本給も減額、さらにコンプライアンスに違反していたら担当者個人に法的に損害賠償を求める。
このくらいにすれば、商品の開発者に社会的責任感が生まれ「無茶」が抑制される。逆に、真に「いい仕事」をしさえすれば最終的にはしっかりと大きな報酬を得られる。

例によって妄想的思い付きで、実現可能性がどんなものかは分からないが、耐震偽装問題のときに考えた「今後の」対応策と同様、自分なりにちょっと面白い「今後の」対応策ではないかと思っている。むろん、私は業界の人間でも当局の人間でもないので何の実行力も持っていない。問題を解決したい誰かのヒントになったらうれしいという程度のものである。



煙突の日―― 一般家庭での小さな復活

2007年11月11日 | 山小屋・ログハウス
 
11月11日は煙突の日。
1111が4本の煙突のように見えることが由来という。
なぜ4本? それに煙突が4本並んだ風景なんてなかなかないようにも思う、というような話はとりあえずおいといて…。

薪で焚く風呂が一般的だった時代、煙突は一般家庭にごく普通にあった。
ガスのインフラが整ってくると薪風呂はガス風呂に追いやられ、煙突のある家は急減した。
一般家庭の煙突は絶滅の危機に瀕する家庭内小便器のようになっていくのか、と思っていたら、どうやらそこまでの危機にはいたらないようだ。
というのも、煙突が必要な設備が家庭内に入り込んできたからである。
そう、それは薪ストーブ

薪ストーブは暖房器具の主流派とはいえないが、着実にファンは増えている。
特にログハウスとの相性がよく、ログハウスの着工の増加とともに薪ストーブも増えた。
我が家(山小屋)もそのくちである。
住宅密集地では煙がいろいろと物議をかもすことがあるようだが、住宅街でも薪ストーブはじわりと増えている。

かつての薪風呂の煙突は、円筒をT字型に組み合わせたそっけないものであったが、薪ストーブの煙突はオシャレなものが多い。家によってはシンボルといっていいような煙突も見かける。
「煙突がある家」なんて呼ばれるのがまんざらではない人も多いのではないだろうか。

煙突はどこの家にもあるものじゃなくなったことで、パーツとしての存在感が向上したといえなくもない。


トイレの日にしあわせをかみしめる

2007年11月10日 | 我が家のスペシャルな仕様
11月10日はトイレの日。イイ(11)ト(10)イレという語呂あわせだ。

弊ブログではかつて「トイレ自慢――男性_限定」というエントリを書いたところ、ウケがよかった。
家庭内において絶滅の危機に瀕している男性用小便器を設置した自慢話である。
小便器は公共の場所にはいくらでもあるので、モノ自体は珍しくもないかもしれないが、家庭内にあるというのが重要。絶滅の危機とはおおげさかもしれないが、公共トイレの小便器と家庭内小便器では、いまや言ってみれば、養殖うなぎと天然うなぎ、人工ダイヤと天然ダイヤ、というくらいに希少性に差があると感じている。希少なものは希少というだけで価値になることは多いのだ。

洋式便器界では魅力的な最新式便器が次々と出ているが、私にとっては小便器を設置できたことによる満足度が、最新式に対する羨望を上回る(笑)。
小用をする度にそこはかとなくそれを意識する。これも「幸福力」のたまものか。

「一生で 最も世話になる 小部屋」(前回のTOTOのトイレ川柳入賞作)

そう考えれば、設置も安いものだったというのは言いすぎだろうか。

ちなみに
今年もTOTOのトイレ川柳の優秀作が発表されている↓
http://www.toto.co.jp/News/senryu/result03.htm

私もついでに一句

「立ってして しあわせ覚える 小便器」

おそまつ。


<関連エントリ>
小用姿勢の問題を解決する便器

鍋の日に思う

2007年11月07日 | 我が家のスペシャルな事情
11月7日は「鍋の日」。立冬にあたる日、ということで設定されたという。

我が家の今シーズンの「初なべ」は先週末。
寄せ鍋とキムチ鍋のダブル鍋。食い意地の張った我が家らしい鍋シーズンの始まりだった。

鍋はいい。
おいしくて温まるのはもちろんだが、コミュニケーションを生じさせる食べ物だというのがいい。
家族団らんにもってこいだ。それで心身ともに温まる。
これは温まるための「ソフト」(手段)であろう。
高性能なハード(家)だけでは、この温かさはもたらされない。快適環境を作り出すうえでの「ソフト」の重要性を意識せざるを得ない。
昔は、対「寒さ」においてハードが低性能でも、こうしたソフトの活用で補えていたのだろう。

今はハードが高性能になったが、その分「鍋」への渇望感は小さくなっていそうだ。
いまさらハードの性能を落とすようなことをする必要はないが、ソフトによって得られる温かさの重要性を忘れないようにしたいものだ。


関連エントリ
家族と道具の関係



「認知的不協和」な家づくり指南

2007年11月05日 | 家について思ったことなど
「認知的不協和」(はてなダイアリーより)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%C5%AA%C9%D4%B6%A8%CF%C2
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心理学の用語。

1975年、アメリカの社会心理学者フェスティンガーが提唱。
人は何らかの物事に遭遇した場合(認知)、それが自分が持っている「認知」と相容れない場合(不協和)、その「不協和」を解消しようとすること。(不協和の逓減)

不協和の逓減には以下の3つがある。
1「認知」を変える(現実を変えたり、考えを変える)
2「認知」の重要性を低くする(事実を軽視したり、無視する)
3新しい「認知」を追加する(屁理屈や問題のすりかえ)
1や2のように、「変化」をさせたり「否定」をすることはコストが高いため、実際には、3が選択されることが多い。
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例えば、クルマを買った人は、別のクルマではなく、買ったクルマのカタログやチラシを眺めることが多いという。「自分が買ったクルマより、もっといいクルマがでているんじゃないか」「もっと安く買えたんじゃないか」と気になる。これが認知的不協和で、買ったクルマのカタログやチラシを見るのも自分の選択が正しかったと思いたいがために、認知的不協和の逓減を図ろうとする行為というわけである。

人間というものは認知的不協和を逓減するために自分に都合のいい解釈をしがちなのである。
その解釈は決して間違っていると言い切れるわけでもなく、プラス・マイナスそれぞれの要素があった場合、プラス面を重要視し、マイナス面を軽視する、といったようなもの。
それは決して計算づくの行動ともいえない。自分が選んだものを信じているから、その人の目にはプラス要因がすばらしいものに見え、マイナス要因は大して気にしなくていいものに見えているのである。

家づくりの世界でも、そうした「認知的不協和」が絡んだシーンを見かける。
例えば、「○○工法」を採用したビルダーも、そのビルダーに建ててもらった施主も、自分の選択を信じようと「○○工法」にいろいろな理論や物語を肉付けする。プラス面を賞賛するコメントを無批判に歓迎し、マイナス面についての指摘には目をつむったり、直接関係のない理論や他の条件が付随しないと弱点を回避できない理論を持ち出したりする。
対象は別に「○○工法」に限らず、建材だったり、依頼先の業態だったり、人間そのものだったりもする。

人間は普段もなにげなく、認知的不協和に端を発する行動をしているもの。特に人に指南するシーンで認知的不協和が変に絡んでくるとミスリードの恐れが出てくる。
それを客観的に意識しておきたい。

「これしかない」というような強い思いは行動のエネルギー源にもなるが、その思いが行き過ぎると他人による別の選択を許さない原理主義者のようになってしまうことに注意したい。
だから私は家づくりに絡んだ様々な指南について、「これがいい」という指南はさらりと読んでも、「これしかない」といっているかのごとき指南は注意して読むようにしている。
「これがいい」というのは別の「いいもの」の存在を許諾する余裕があるのに対し、「これしかない」というのは、それ以外の選択肢を劣っているものとみなしている。それを一般論にしようというのは原理主義的宗教と似たような空気を感じるのだ。

家を建て終わった私も、ブログなどにおいて多かれ少なかれ「認知的不協和の逓減」的な行動をしていると考えられる。
ただし、「これしかない」と思っても、あくまで「自分にとって」という前提をおいて、原理主義に陥らないよう注意し客観性を維持しようと思っている。
その反動として、万人に対して「これしかない」って言っているような家づくり指南に批判的なのかもしれない。