家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

報告

2005年02月26日 | このblogについて

このたび、人事異動により、2月いっぱいで4年におよぶ単身赴任生活が終わることになった。
当初の計画では新居から新職場に通うことを想定していたのだが、工期がずれこんだことでしばらくの間、仮住まいからの通勤となる。

それはそうとして、これで、「家づくり、行ったり来たり」ではなくなるのか。

「否」である。

実は、通勤といえども新幹線通勤(!)なのだ。「行ったり来たり」感は、ある意味さらに色濃くなるのである。

しばらく前に「行ったり来たり」でググって見たら、なぜか弊blogがトップにきていた(現在は陥落)。こんなキーワードで検索かける人間はあんまりいないだろうが、汎用的な言葉で上にくるということはひとまず光栄なことだ。

ということもあって、「行ったり来たり」はまだ続けます。

しばらくしたら、「新幹線通勤」というカテゴリを増やします

干し柿をつるしたら

2005年02月24日 | 家について思ったことなど
農家は、よく軒下に干し柿を吊るしている。
いかにも農家らしい家だと、その姿は絵になる。

家の周りにあんまりごちゃごちゃしたものはつけたくはないが、一時的にでも、モノをくっつけたり、ぶらさげたりすることはありうる。
できれば、必要があってくっつけるモノが、ちゃんと似合う家だといい。
ただ、干し柿が絵になる農家の家屋で、クリスマスリースはあまり似合わないであろう。
けっこう難しいことなのだ。

我が家は何が似合うだろうか。住み始めたらちょっと試してみたい。

正月飾りでも、クリスマスリースでも、干し柿でも違和感のない家ができたとしたら、自慢してみたくなるかも。

生活感

2005年02月22日 | 家について思ったことなど
最近はそうでもないが、一時期、「生活感のない家(インテリア)にしたい」というフレーズを聞くことが多かったように思う。しかも、それがいいことであるかのごとくメディアで紹介されていたりした。
それっていったい何のためにそうしたいのだろうか。
 そこで生活している以上、生活感が生じることは自然だと思う。生活感を生じさせないようにするには、生活自体を希薄にするか、生活の痕跡を消したり、隠したりするしかない。

 例えば、リビング。
  リビングは存在意義からいって、くつろがないという選択はないだろう。
くつろぐときには、案外いろいろなモノがいる。テレビやAV機器はスタイリッシュなものも増えてきていて、セレクトすれば生活観の出現を回避することはできるが、問題は日用品だ。
日用品が目につくほど生活感が生じやすい。

本・雑誌や新聞などは、よほど専門的なものでないと生活感はばっちりだ。
クッションだって整然と並んでいなければ生活感が現われる。
ティッシュペーパーは置いてあるだけで生活が見える。もし斜めに置いてあったりしたら、他がどんなに整然としていてもピンポイントで強力な生活感をかもしだす。
スリッパなどは当然見えていないほうがいい。
 生活感を表さないようにするのには相当な努力が必要だと思う。

こうして書いてくると、生活感のなさを望むのは、鑑賞するためのオブジェを維持・管理することのように思えてくる。

 日用品をはじめ、もろもろのモノが散らかった感じに見えないよう、片付けやすくなっているというので私は十分だ。日用品が見えてもいいから使いやすいように収まっているという感じ。
下世話な生活感はできるだけ隠すとしても、生活感自体を消し去ろうとは思わない。

私の場合、「生活感がない家」の風景より、「ていねいに生活している家」の風景の方に好感を持っている。

おかしな争い

2005年02月17日 | 家について思ったことなど
ネット上の住宅関連のコミュニティでしばしばある風景。
注文住宅を建てようとする施主やビルダーが、建て方(ここでは職人のことではなく、建てる方法という意)を巡って、議論のようなものを繰り広げる。

議論するのは別に悪いことではないが、ヒートアップしすぎていることがよくある。
「どちらがベターか」という議論ではなく、「そっちにしたら失敗する」みたいな論調になっている。
こちら側の良さを訴えるために、相手側の弱点を、細かなことや粗悪な例を持ち出してまで突っ込んで、これでもかとさらす。
そのあげく、傍から見ている人間には、それぞれが選んじゃいけない建て方のように思えてくる。
ROMしていて時に疲れる(当然、参加はしたくない)。

ビルダーが議論に参加するとそうなりやすいような感がある。それだけ自分の仕事にプライドがあるのだろうが、同じ注文住宅業界人(?)や施主をとことんやりこめることに、益はどれほどあるというのだろうか?

議論の勝者に聞いてみたい。
「あなたが散々やりこめたやり方で家を建てるのと、建て方のディテールが開示されていない建売住宅を買うのではどちらがいいですか」

攻め方が間違っているように思えてしかたがない。


書斎の役割

2005年02月15日 | 我が家のスペシャルな仕様
 「和室の選択」というエントリで少し触れたが、夫婦の部屋の横に小さな書斎を設けた。

書斎というと、何かかっこいい響きがある。堅木で作られた重厚なデスクがあって、リクライニングする革張りの椅子があって・・・ってな感じ。
 我が家のはとてもそんなご立派なものではない。3畳の畳部屋で造作の座卓があり、前後が本棚という書庫的な書斎。こじんまりとしたものである。
 妻が仕事を家に持ち帰ることの多い職業についているため、狭くともこういうスペースが必要だった。

 ただ、この書斎、期待している機能はそれだけではない。
「篭る(こもる)」ことのできる場所としての機能である。

「ひきこもり」ではないが、人間たまには篭りたくなることはある。
いろんなことがわずらわしく感じられ、しばしそれらの呪縛から逃れたいと思うときは私にだってある。また、雑音から開放され、じっくり考え事をしたいときもある。
私の両親との同居生活でがんばってくれている妻にとっても、こうした篭り場(逃げ場)があると気が楽になると思っている。

広辞苑では、書斎を「読書や書き物をするための部屋」としているが、読み書きに関係なく、篭ることのできる部屋としての存在意義もあると思う。
我が家のは狭いだけに、オーソドックスなイメージのリッチな書斎より、「篭り感」は優れているかもしれない。

電信柱の逆襲

2005年02月14日 | 我が家のスペシャルな事情
 涼み台の眺めが思ったよりよかったことを前回書いたが、眺め的にはもうひとつうれしいおまけがついていた。
 富士山が見えるのである。
 花火見や月見、夕涼みのことばかり考えていたので、富士見は想定外だった。
それだけにうれしいのだが、前回はそれを吹聴するのをためらった。
 なぜかというと、富士山は見えるのだが、その前に余計なものが邪魔をしていたからだ。

そう、それは電信柱。

以前のエントリ「電信柱って」で、「悲しいくらいに洗練されてない」などと悪口を書いていたせいか、今回の「仕打ち」は逆襲のように思える。
想定外のうれしい富士見も、うれしさ半分というか、うれしさ4分の1くらいにさせられた。
前回言っていた家の前にある2本ではなく、少し離れたところにある電信柱とあって、腹いせにケトバすこともできない。

電信柱をポジティブにとらえようとする試みは完全に挫折した。

今度の選挙では電線地中化を推進する候補に票を入れることにする。
政治家の方でこのblogを見ている方がいましたら、コメントつけてください。それで1票はとれますから。





2月11日の記録

2005年02月11日 | 建築現場記録
現場で打ち合わせ
・ 古屋の補修範囲の確認
・ 外壁の色、塗り方を決定
・ 縁側の踏み石の確認
・ スノコ壁の開口場所決定

現場進捗
・ キッチンの床タイル施工完了
・ トイレの小便器周りのタイル張り完了
・ 縁側の基礎工事
・ ワークショップと子供部屋を区切る本棚設置
・ 子供部屋のロフトベッド、棚施工
・ 涼み台の床張り完了
・ デッキテラスの床施工中
・ カーポートの門の板金工事


涼み台の床が張られたため、上に上ってみた。
想像以上の眺めの良さに満足。花火の上がる方向の視界は良好で、座っても花火がばっちり見えるであろうことが確認できた。
遠くの山並みも見えてイイ。時には夕焼けも楽しめそうだ。

普通の家

2005年02月08日 | 家について思ったことなど
 家づくりの場面において、「普通の家でいい」という施主サイドの言葉を聞くことがある。
 「普通の家」ってなんだろう?

「普通の値段(坪単価)の家」
 面積あたり(例えば坪)に換算して世間一般の平均的な価格の家ということ?
「普通の外観の家」
 普通の外観って何? その時代に良く使われている外壁材を使って突飛でないデザインということなのか。
「普通の間取りの家」
 リビング、ダイニングなど共用スペースと、そのほか家族の面子次第で、夫婦寝室、子供部屋などがあること?
「普通の素材の家」
 その時代で一番流通している住宅建材を使っているということか?
「普通の機能の家」
 超高気密・高断熱や最先端の免震機能、ハイテク防犯設備などまでは望まないということ?

「普通」の切り口はいろいろあるうえ、その定義はものすごくむずかしいとしかいいようがない。
施主が「普通の家」を希望しても、ビルダーの「普通の家」は全然違うかもしれない。
同様に、施主が「いい家」を希望しても、ビルダーの「いい家」は全然違うかもしれない。

だから、施主と施工者の間に立つ設計者は、家づくりにおいて、ものすごく重要な役割を持つ存在だと思う。

2月5、6日の記録

2005年02月07日 | 建築現場記録
2階デッキテラスと涼み台周りのスノコ壁にとりかかっていた。
このスノコ壁、格子戸の原理と同じで、外から中は見えにくく、中から外は見やすいという機能を持つ。風も通すので、洗濯物干し場としては非常にいい。

板金工事の職人さんと左官職人さんも作業中。それぞれ、笠木作りと外壁の下地作りをしていた。

この週末、実は忍者まがいの作業をする羽目になった。
ここへきて古屋をあちこち補修しはじめているのだが、天井裏にものすごいホコリが堆積していることが判明したためだ。
風車の弥七ばりに、天井の角部分の板をはずし、天井裏にもぐりこんで掃除をした。弱い天井板の上に乗るわけにはいかないので梁の上を移動しながら、はいずっての作業、梁の上だけでは隅に手が届かないので足場板を渡して、移動した。
箒とちりとりでゴミをあつめ、その後掃除機をかけた。ついでに梁も軽く拭いた。
もうもうとホコリが舞い上がるなかでの作業。終わったころには身体中がすすけていた。防塵マスクは真っ黒だった。
忍者が覆面で鼻と口を隠すのは、顔を見られないようにする以外、ホコリを吸い込まないようにするという目的があったに違いない。

我が家はこれで、古い日本家屋の天井裏掃除のノウハウをつかんだ。しかし、こうしたハウスクリーニングの需要は世間にはありそうにないのがなんとなく悲しい。

家(か)の問題、延長戦――別の視点から

2005年02月04日 | 家について思ったことなど
建築プロデューサーの朝妻さんが再びこの話題(建築家とは何ぞや?)を蒸し返したエントリに(懲りずに)トラックバック。


前回、私は「家(か)の問題」で、建築家を芸術家的な家(か)のイメージから開放した方がいいというような主張を展開した。
そこでは、落語家や格闘家などを引き合いにだしたのだが、朝妻さんのエントリのコメントで、Nさんという実在の「建築家」が、くしくも格闘家を意識している旨をにおわせてくれた。
これをきっかけに、かねて考えていることを綴ってみようと思う。

Nさんによると実際、芸術家的建築家は非常に少ないようだ。ところが世間はどうかというと、建築家に対し、大半が芸術家的なイメージを抱いているのではないだろうか。
私は、この状況は建築家、施主候補の双方にとって不幸なことだと考える。
芸術家というのは一般人にとって縁遠い存在である。そんな存在のままでいたら、建築家と家づくりをしようと考える施主はなかなか出てこない。
現在はブーム的盛り上げによって、たぶん上向いてはいるのだろうが、そのままではきっと反動が来る。反動を小さなものにするには、今のうちに身近な存在であることをもっと世間一般に認知させるべきである。
建築家でもない私がこの反動を気にしているのは、若干ではあるが私にとってもリスクであるからだ。ブームが去ったとき、どのような目で見られるかということを想像した時、「ブームに踊らされた軽薄な施主」または「芸術家先生に建てさせた贅沢者」のような誤解を受けかねないからだ。

建築家に対する芸術家的イメージをもたらしているのは何か。そしてそれにどう対処したらよいのか。

ひとつは、メディアへの露出の仕方だろう。
Nさんの見解のように、全建築家に占める芸術家的建築家の割合は低いと思われるが、メディアでは逆にその少ない芸術家的建築家がクローズアップされる機会が多い。これでは世間は、建築家は芸術家だと思ってしまうだろう。
個人住宅を対象にしたテレビ番組が増えたことは、多少なりとも身近な存在化に効果はあったと思う(実は、私が依頼した建築家もテレビに何回か出ているのだが、たぶん、いろいろ言われるリスクをとってテレビ出演したのは、身近な存在であることを世間に広めたいという問題意識があったからだと踏んでいる。この手の話題は照れくさくて正面から話をしていないのだが)。
ただ、テレビというのは無責任で、ブームが去れば敵にまわることも考えられる。実力もなくタチも悪い「建築家」が建てた家をわざわざ探し出してきて、欠陥住宅特集などで大々的にとりあげたり・・・。今ある番組でも素人目にもあやしい建築家がまぎれこんで登場しているのをみると、転換点は近いかもしれない。防衛のためにも次の手は考えるべきだ。

建築家を芸術家のように吹聴しているライバル達の扇動も問題だ。
多くのハウスメーカーや工務店にとって、建築家・設計事務所は商売仇である。ゆえにそれらの勢力は、建築家を敷居の高い芸術家の立場においやろうとしている。
住宅本などでは、「建築家は自分の『作品』づくりに一生懸命で、住人のことなど考えていない」という断定を随所で見かける。これと、前述のNさんの証言は完全に対立している。賞狙いで「芸術作品」的家づくりをする建築家は確かにいるだろうが、それが大多数とはいえないはず。実は少数派である芸術家的建築家が建築家の大半を占めると感じさせる情報操作をしているのである。
 私は住宅本を読む時、リテラシーを発露するきっかけとして「建築家は自分の作品云々・・・」というキーワードを確認することにしている。
 前のエントリ「住宅本の読み方」で出した企画案はそんなことも意識したつもりだ。


 実は敵は「身内」にもいる。
いい家ができたことより、エラくてカッコいい建築家先生に建ててもらったという事実を大々的に吹聴したい施主達である。
これらの人にとっては建築家が芸術家として扱われるほうがいい。この状況をどうにかするのは難しいが、建築家との家づくりということ自体がさほどめずらしいものでなくなれば、自然とおさまっていくだろう。



 ここまで長々とこんなことを書いてきておきながら言うのもなんだが、建築は芸術と相性がいいというのが事実としてあったりする。
芸術家的スタンスの建築家でない建築家が設計しても、芸術的色彩の濃い建築になることもあるというのが面白いところであろう。

工期はやはり長く――引渡し日、決定

2005年02月03日 | 我が家のスペシャルな事情
 ようやく引渡しとオープンハウスの日程が決まった。
3月12日土曜日、午前から夕方までオープンハウスをした後、引渡しとなる。

着工は昨年7月。当初の引渡し予定日から約1カ月半後ろ倒しとなり、なんと工期はほぼ8ヵ月ということになる。

これは、どう評価すればいいことなのだろう。
言語道断という施主はやっぱりハウスメーカーに流れるのだろう。そして、そういう人はたぶん多数派だ。

我が家の場合、なんとか許容できる余地があった。
まず、当初予定の6カ月半という工期に異論はなかった。ハウスメーカーによるシステマチックな家づくりではないことは十分すぎるほど認識していたからだ。
そして、その後の遅れだが、手を抜いて遅れているのならともかく、手が込んでいて遅れている感があり、やみくもに急がせることはマイナス面を大きくすると思えた。
工期と確実な仕事を天秤にかけると、我が家の場合はあきらかに後者の方が重かった。

もちろん家づくりを一つの事業(私の考え方はここを参考に→)として客観的にみたら、この状況は事業の評価を下げるポイントである。手がかかることまで見越して計画を立てるべきだからだ。自分自身、ぼんくらな事業者としてそうした評価は甘んじて受ける気もある。当然スタッフもその意識でいてもらいたいと思っている。
ただ、家づくりの場合、事業者が消費者でもある。消費者としての立場がそれを許さなかったらシビアな状況も想定されたが、消費者としての我が家は、「ここまできたら」と開き直った心境で妙に家族の意見が合ったため、この部分について顧客満足度的にさほど低い評価にはなっていない。
第三者から見たら、あくまで顧客の個別事情が遅れを許したにすぎないということになろうか。

ややムリヤリに、さらにポジティブなとらえ方をしてみる。
・ 当初予算のままで、多くの職人、管理者を長い期間抱えているということになり、人件費的なお得感がある。(事業者としてのメリット)
・ 家づくりを、過程を楽しむ付加価値までついているものと判断すれば、消費者としてそのサービスを余分に享受したといえる。(消費者としてのメリット)

私は物事について、強引に良い判断をする能力があるようである。そこのところを意識して上記までを読んでいただきたい。



基礎工事――最も大きかった予定外の出費

2005年02月02日 | 我が家のスペシャルな仕様
今回は、少し過去を振り返った話。


 我が家の建つ場所は昔、田んぼだったので、地盤が強くないということは理解していた。
 旧家屋はそんなに頑丈とも思えない普通の布基礎だった。以前は社会全般に地盤に関する問題意識が低かったし、地震に関連付けて考えることは少なかったようだ。
 周囲の家で、最近建てられたものは多くがベタ基礎で、我が家も「木造だからベタ基礎にするくらいで大丈夫なのでは」と希望的観測を持っていた。

 ところが地盤調査をしてもらうと、杭を打って基礎をつくるべしとの結果が出た。4-5m位の深さまで固い地盤はないようだ。
周囲の家は杭を打っていないのだから、地盤が弱いとはいえ杭を打たなくとも建てられる微妙な固さだったのかもしれない。しかし、もし、「なんとか建てられる」というレベルだとしたら不安感はある。

 杭打ち工事で発生する新たなコストはばかにならない。予備費として考えていた予算に収まっていればまだよかったのだが、予備費を軽くオーバーしていた。しかも予備費は地盤のためだけに配慮した数字ではない。軽軽しく返事しにくい額だった。

 結局、家づくりの原点にまで立ち返って、杭工事をすることに決めた。

家をどうしようかと模索していたころ、建て替えるという選択肢のほかに、リフォームという選択肢もあった。 しかし、とにかく日当たり、風通しの良さを望んだ父が建てさせた家は開口部がやけに多く、耐震性という面では完全に不合格。もしリフォームするならば、耐震性を考えていったんすべてを丁寧にはがして骨組みだけにしてから補強しなければならない。それならば、建て替えた方がいいという結論に至っていた。

 家の建て替えに乗り出すにあたっては、耐震ということはそもそもの大きなテーマだったのだ。
それを妥協しては意味が無くなる。

 こうして杭打ちすることになったが、投下資金は膨らんだ。
 以前のエントリ「プライスレスな家のスペック」で、プライスが付けられるスペックのグレードを上げることはローコスト化をなしえにくくする、というようなことを書いたが、プライスが付けられるスペックと分類した「耐震」が、まさにそれを具現化していたのだ。
 「耐震」という家のスペックは「現実」そのもので、そこに「夢」を見出すのは困難だ。夢でない部分に大金を投下するという行為は楽しくはない。安心感をもたらしてくれるということに満足するしかないのがつらい。

 特に、ローコスト住宅を目指す人は、「耐震」が予期せぬ大きなコスト項目になるリスクを意識しておいた方がいい。