家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

雨で元気なのは…

2006年05月27日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
このところ雨が多く、息子あたりは「またか」とうらめしそうに空を見上げているが、その雨のおかげで元気満々なのが庭の苔だ。

我が家の苔については以下のエントリ参照
「苔」 旧家での苔の話
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/d9d583acde7cc867055ec3e691f25cbe
「苔の帰還」 新居で庭ができたときの話
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/fa18b53b90501d83aab6b6297d9cc4d6
「苔のその後」
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/ee75f6d3f8b73b30a6d8854c6f4a021f

先週末、家で法事があり、親戚が大勢訪れたが皆「苔がいいね」といってくれたので父はご満悦である。

ところで、我が家建築中に苔が一時避難していた山小屋の方では、この苔の兄弟達がいっそう勢力を強くしている。
このさい父に苔で商売でもしてもらおうか。


大雑把で乱暴な情報

2006年05月26日 | 家について思ったことなど
「建築家は○○だ」(○○はネガティブ要素)
というように断定する人がいて、それが結構幅を利かせている。
現実的に○○な建築家が少なくないとしても、○○じゃない建築家にしてみれば迷惑なことだろう。

断定して語る人は、例えば自分と違う姿勢の同業者を引き合いに出されて、自分の属するカテゴリを語られたらどう思うか考えてみたらいい。
「工務店は△△だ」「ハウスメーカーは□□だ」
△△、□□がネガティブ要素だとして、△△でない工務店、□□でないハウスメーカーの人間はやはり迷惑なことと思うだろう。

住宅業界の中の人が発する情報はそんなのが結構多い。
客を自分のカテゴリに引き込もうとするあまり、他のカテゴリを乱暴にひとくくりにしてしまう。
そういう行為は結局自分に跳ね返ってくるものだ、と意識した方がいい。人をひとくくりで語れば自分もひとくくりで語られるものである。

私は、古屋を残すことを主な理由に建築家と工務店という組み合わせで家を建てることを決めて、いろいろ調べた。以前表明したように私はネガティブ情報を集めるのは嫌いではない(参考エントリ)し、リスク分析の面からも有用なことと思っている。
本やネットのテキストを読めばすぐに前段で示したようなネガティブ情報に遭遇する。例えば以下のようなものがある(ハウスメーカーのネガティブ情報も多いが自分とは関係ないので割愛)。

「建築家はセンセイと呼ばせて威張っている」
「建築家の建てる家は構造が弱い(あやしい)」
「建築家は住まい手のことなど考えない」
「工務店は経営が脆弱だから倒産するリスクがある」
「工務店は考えが古臭く新しい技術を使えない」

建築家+工務店という基本方針を決めた施主としては、こうした警告をどう使えばいいかというと、
変に威張らず、しっかりした構造で設計し、住まい手のことをよく考える建築家と、経営が安定し、新しい技術も使える工務店とで建てればいいわけだ(当然それ以外の要素も重要なのだが)。

ただ、方針が決まっていない施主が上記のような情報を読んだら、どうだろう。
建築家とはこういうもの、工務店とはこういうもの、と鵜呑みにして、パートナー候補からはずしてしまうのではないだろうか。
そもそもそれが狙いで、ライバル業態が客の候補から外れるならそれでいいと思っているかもしれないが、ライバル業態を切り捨てる発言を繰り返していれば、ライバル業態から同じことをされるだけなのだ。結局、自分のところへの風当たりを強める結果になる。
戦場などと同じで、最も攻撃的な部隊はもっとも敵の攻撃にさらされやすいものだ。そういうことに力を入れるより、同じ業態のなかでも自分たちはこういう特色がある、というアピールの方に力を入れたほうがいいと思う。

そして同じ業態の中でもむやみに攻撃的でないほうがいい。非高高住宅をこきおろしている高高住宅のビルダーと、高高住宅をこきおろしている非高高住宅のビルダーなんぞが不毛な戦いをしているのを見ると「自業自得」と思えてしょうがない。同じ注文住宅業界内でそんなことをしているとため息が出る(参考エントリ)。


人をけなさないと自分のところの優位さを表現できないというのは、自分の徳の低さをひけらかしていることでもある。
私はやたらと攻撃的なところは敬遠させていただいた。

「幸福力」と家

2006年05月19日 | 家について思ったことなど
最近、幸せに生きるために能力が必要だなあと思うようになっている。
この能力とは、人より頭がいいとか、運動神経があるとか、お金を稼げるとか、そういう才能のことではない。
それは小さなことに感謝できる・喜ぶことができるという能力である。「幸福力」とでもいえよう。
この能力があれば、人はだいたい幸せに暮らすことができるのではないだろうか。

私は、夕涼みとか、ひなたぼっことかで結構幸せな気分になれるのだが、最近はそういうことでは喜べない人が増えているようだ。
そんなことを考えているせいか、超高性能住宅でないと快適に暮らせないとばかりの言動をする人を見ていると、違和感を覚える。
その主張は高級車に乗らないと快適に走れないと言っているのと同じではないのか? 一流の料理人の料理でないとおいしくないと言っているのと同じではないのか?
比較をすれば、高級車の方がおおむね快適であろうし、一流料理人の料理の方がおいしいであろう。しかし、高級車でなければ、一流料理人の料理でなければ後悔するほど気分が悪くなるのだろうか。
私は、大衆車の性能でも、単にまじめな普通の料理人の料理でも喜べる自信がある。そうであることは誇りでもある。

自分には家づくりにコダワリがあったので、それが実現できた部分はとてもうれしいとは思うが、実現できなかったことがあるからといって不幸であるとまでは思わない。
家を建てたこと自体、とても喜ばしいことであり、自分は果報者である。
「ああしておけば、こうしておけば」ということも決してないわけではない。どこから見ても、誰から見ても文句のない家とも思っていない。人の家より劣っている部分だってあるだろうが、それでも家が出来たという大きなくくりで満足できる。
他と比べてどうだということを気にしすぎるときりがないし、幸せにもなれない。

住宅本に多い「こうしないと後悔する」というような指南は「幸福力」を阻害すると思っている。どうせなら「こうするともっといい」って指南すればいいのに、と思う。
後悔したり、不幸だと思ったりするのは欠陥住宅になってしまったときだけだろう。「最高の環境(※)でないと後悔する」人は幸福力に乏しいと私は思っているのだ。
実は性能面で大きく劣っていた旧宅時代ですら、耐震性への不安以外は別に不幸な暮らしだとは思っていなかった。そのときにいろいろな住宅本を読んでは、性能が低いらしい我が家での暮らしが不幸なことのように書かれているのをみて「大きなお世話」と思ったのだった。
新居は超高性能でもないだろうが、それでも旧宅よりははるかに性能がいい。旧宅ですら暮らしにまずまず満足していたわけで、新居の性能にケチをつけたらバチが当たる。

幸福力を強めるには、特別な才能はいらない。考え方をちょっとずつ変えていけば誰でもその力を身につけることができるだろう。
ちょっと前のNHKの連ドラ「わかば」で南田洋子さん扮するおばあが「生きちょるだけでまるもうけ」と口癖のように言っていた。私はそこまでの達観には至っていないが、「家ができただけでまるもうけ」くらいは思っているのだ。



※そもそも「最高の環境」自体、その有り様には個人差があるだろう。

ウグイス鳴く

2006年05月16日 | 我が家のスペシャルな事情

本日、起床してまもなくちょっと驚かされた。
「ホケキョ」と聴こえたのである。

起きたばかりなので空耳かと疑ったが、直後に立て続けに「ホケキョ、ホケキョ」。
庭に目を凝らすといた。ウグイスが。

山小屋の方では頻繁にウグイスの鳴き声を聴くが、住宅では生まれてこのかた始めてだ。
住宅地でリアルな鳴き声を聴くのは何かものすごく得した気分。

またのお越しを期待する。
できれば、次は縁側でしみじみ庭を眺めているときに一鳴きお願いしたい。

「収納」百人百様

2006年05月15日 | 我が家のスペシャルな仕様
tak shonai’s “Today’s Crack”(今日の一撃)では「アンチ収納論」という面白いテーマで、takさんが語っている。捨てるに捨てられない状況を作り出さないために「きっちりと整理して収納する」ことをあきらめたという話である。
いかにも捨てたくなるような雰囲気を漂わせるというtak式「非収納」術は、目からウロコであった。

しかし、しばらくして「ちょっと待てよ」と思った。
「収納」という行為には、大きく2つの目的があるのではないだろうか。一つはモノの管理、そしてもう一つは空間の管理。
もう少しわかりやすくいうと、「収納」においては、モノの収まり場所を確保することのほかに、モノを格納することによってすっきりした空間を作り出すという目的もあるのではないかということ。

私は生活感のない空間までは望んでいないものの(参考エントリ)、散らかった状態がデフォルトというのは避けたい。
takさんからは「散らかっているわけではない」と反論されそうだが、少なくとも「捨てたくなるような雰囲気を漂わせる」ことはすっきり感とは別物だろう。
もしかしたら、雑然とした空間が魅力的に映ることもあるので、それを狙っているのかもしれないが、私の場合、原則として整然をデフォルトと考えたい。

私は新居の収納を検討しているとき、きっちりと整理するというより、片付けやすさを念頭に置いていていたような気がする。
我が家には多くの棚があるが、整理された棚ばかりではない。一時避難的に使っている部分もある。つまり、モノを整理するというよりは整然空間を作り出すための収納。
そのあたりに散らばっているものを棚にしまうことで空間はひとまずすっきりする。

こういうことを書いていると、さぞかし収納術に長けているであろうと思うかもしれない。
そういうお方に言っておこう。「人は自分のことは『棚に上げる』ものだ」と。
雑然から整然へと持っていくのが容易にしてあるということは、いとも簡単に整然から雑然へと変化するのだった。そして雑然タイムの長さは・・・・



<余談>
収納に関して↓のような書籍がある。
近藤典子が建てた家
立ち読みで申し訳ないのだが、「引き出しの館(やかた)」という印象。
私はとても運用する自信がない。

二輪草と九輪草

2006年05月07日 | 山小屋・ログハウス

山小屋に行って、周囲の花を撮ってきた。先月、母の誕生日に書籍の「ターシャの庭」をプレゼントしたのだが、ガーデニングに一層熱が入っているようでうれしい。
ターシャ・テューダー並みの庭づくりの名手になってくれればと思う。

さて、そんな私といえば見るばかりで、花のことも良く知らない。
今回のエントリは母が花の名前を教えてくれて、面白いと思ったので記録しておくものだ。

まず、二輪草(にりんそう)。

そして、九輪草(くりんそう)。

最初聞いたとき、名前の共通点に気がつかなかった。見た目があまりにも違うせいだろう。

かたや「きんぽうげ科」、もう片方は「さくらそう科」らしい。
二輪草の方は二つの花茎が出てくることが名前の由来で、九輪草の方はお寺の塔の先端についている九輪に似ているということらしい。母は9段花をつけると聞いたという。同じ輪(りん)でも、花の数え方である「輪」とワッカの「輪」という違い。

日本語は自在というか、難しいというか・・・。





<おまけ>
「しゃが」の花。山小屋の脇の土手に咲いている。


ばんばへび

2006年05月07日 | 山小屋・ログハウス
 
由来は知らないが、当地方ではとかげのことを「ばんばへび」とか「へびばんば」という。
この季節、山小屋の周囲で、ばんばへびがよくひなたぼっこをしている。
子供がそれを取ったので写真に収めた。
手にしているのは娘である。娘の学校の友達を連れてくると、虫やトカゲを見てキャーキャー逃げているばかりだが、娘はまったく平気。
こちらの望みどおりにたくましくなっている。

クレソン食べ放題

2006年05月05日 | 山小屋・ログハウス

我が家はクレソンが足りずに困ったことはない。

なぜ、我が家にクレソンがたくさんあるのかというと、山小屋の横の小さな湿地にたくさんできるからである。
伏流水が湧き出ていることから、母が横の川で自生していたクレソンを植えると、あっという間に群生した。

スーパーなどで購入してつくるのならちょっと躊躇する「クレソンのおひたし」などという、まとまった量を使う料理も、気軽にやってしまっている。
季節になると一家族では消化できないので、親戚、近隣、友人、知人に配りまくる。
ちょっとかわった「おすそわけ」のようで、喜んでくれる人はけっこういる。

まあ、クレソンなんぞなくともそんなに困るものではない。「クレソン自給率100%」って自慢になるんだかならないんだかよくわからない。

ちょっと悪い景観一景

2006年05月04日 | 我が家のスペシャルな事情

我が家の近所にはファーストフード店がない。特段ファーストフード好きということもないが、徒歩圏に一つくらいあってもよかろう、と思っていたら、この春に「す○家」が出店した。

このことは、ついこの前まではどちらかといえば喜ばしい部類の出来事として認識していたのだが、それをあらためなければならなくなった。

看板が涼み台からの眺望を邪魔しているのに気がついたのだ。

そう、それは例の電信柱の方角、つまり富士山が見える方向を向くと視界に入ってくるのである。


今回お写真では霞んでいるためはっきりしていないが、良く見える日の、白と青の清冽な姿の富士山と極彩色の看板を並べて見たくはない。

富士山が見えるだけでありがたく思えって言われればそれまでだが、眺望という家の性能が他者によって侵害されるのはどうにもしゃくにさわるものである。

<参考>
悪い景観百景 http://www.utsukushii-keikan.net/10_worst100/worst.html
ちなみに上の活動に問題提起したサイトもあり↓
景観100景 http://keikan100.blog48.fc2.com/


上から見たやまぼうし

2006年05月01日 | やまぼうし
我が家のやまぼうしが花をつけたのを報告したら、やまぼうし連合代表であるfinziさんもやまぼうしの花がついたことをアップしてくれた。

finzi邸は中庭にやまぼうしがあり、それを容易に上から眺めることができるのがうらやましい。
悔しいので(笑)、屋根の上から1ショット撮ってあったのを披露する。

我が家は屋根に上れるよう2階のデッキテラスに外付けのはしごがあるのだ。屋根の点検や修理のために必要なこともあろうかとつけてもらったものだが、妙なところで役に立った。
ただ、高所恐怖症の人にはできないワザである。