家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

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梅干と縁側

2007年07月29日 | 我が家のスペシャルな仕様
 
母が縁側で梅を干していた。
こういう時、縁側は活躍する。

梅干と縁側の相性はいい。日本におけるひとつの定番の風景だと思う。

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古い家の修飾語を検討してみる

2007年07月27日 | 家について思ったことなど
古屋を残した私は、古い家全般の世間的評判を高めたいと思っている酔狂な人間だ。
関連エントリ↓
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/1b32f46490b6f79071cd03bf4a71c91b
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/169987f170d79c941d60662277846ff6
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/8b0bbc9ab07e5f4aa8fa615910fa1592

先日、そんな目論見に役立ちそうなヒントを得た。
仕事関係で取引先と会食した折、イギリス事情に詳しい人物が笑いながら発したのが、次のような言葉。
「あの国では、自分の家を『ビクトリア朝時代(1837-1901)の建物なのでまだそんなに古くはない』とか謙遜(?)したりしている」

「ビクトリア朝時代の建物」――歴史的風格を感じさせる表現だ。
これだ。このような表現が出来れば古い家を卑下しないですむ、と思った。

で、日本においてはどう表現したらいいのだろう。

「江戸時代の建物」くらい古ければ、風格が漂ってくるが、そんな個人住宅はめったにないし、あれば黙っていても地域の文化財としての呼称がつけられるだろう。

近代だと言葉の響きがイマイチである。
「明治時代の建物」「大正時代の建物」――悪くはないのだが、「時代遅れ」のようなムードも付随してくる。それに江戸時代の建物よりは数があるものの、やはり極少なく既に文化財化していることが多い。
「昭和」になると、近すぎて「時代」と呼ぶのに抵抗があるし、言葉のイメージにたいした風格はない。だけど、このあたりの真っ当な古い家になんとかスポットを当てたい。
「昭和の建物」――多少のレトロ感は付随するものの、時代遅れ感とか煤けた感じが強い。だいたい対象数が多すぎて希少性が感じられない。
もう少し細分化してみる。
「昭和初期の建物」「戦前の建物」――古いというより、古臭い感じがしてしまう(笑)。

「歴史」を意識させる言葉、そうだ、「世紀」を使ったらどうだろう。
「20世紀前半の建物」―― 思わず、「19世紀ならよかったのに」とつぶやいてしまった。19世紀と20世紀では数字の大台が異なり、言葉の響きのうえでも大きな断絶を感じる。そして、ちょっと前まで「21世紀」は未来を指し、「20世紀」は現代を表していた。

少し昔の文化をクローズアップして評価するとき使われる「’s」はどうか。
「1940’s住宅」「1950’s住宅」――カルさがあって、古さを評価するムードは感じられない。だいたい人に紹介するときどう発言するのだ。「フィフティーズ住宅」だなんて口に出したとたん「欧米か」ってツッコミが入りそうだ(笑)。

思いつきはよかったと思ったが、難しいものである。

カッコいい「古い家の修飾語」求ム。
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家づくりにおけるサイバーカスケードな空間

2007年07月26日 | 家について思ったことなど
Wikipedia 「サイバーカスケード」↓より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%89
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インターネットには、同じ考えや感想を持つ者同士を結びつけることをきわめて簡易にする特徴がある。つまり人々は、インターネット上の記事や掲示板等を通じて、特定のニュースや論点に関する考えや、特定の人物・作品等に関する反発や賛美等の感想を同じくする者を発見することができるようになる。加えて、インターネットは不特定多数の人々が同時的にコミュニケートすることを可能にする媒体でもあるので、きわめて短期間かつ大規模に、同様の意見・感想を持つ者同士が結びつけられることになる。その一方で、同種の人々ばかり集結する場所においては、異質な者を排除する傾向を持ちやすく、それぞれの場所は排他的な傾向を持つようになる。
(中略)
こうしてインターネットは、極端化し閉鎖化してしまったグループ(「エンクレーブ enclave(「飛び地」の意)」と呼ばれる)が無数に散らばり、相互に不干渉あるいは誹謗中傷を繰り返す、きわめて流動的で不安定な状態となってしまう可能性がある。サイバーカスケードとは、こうした一連の現象に与えられた比喩的な呼称である。
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ネットサーフィン(※)しているとサイバーカスケード化している場面や状況を見かけることがある。

家づくり関連では、自分たちとは異質の意見を持つ集団のテリトリーにまで攻撃に向かう例はさほど多くはないが、自分たちのテリトリーで言いたい放題で「敵」を貶めていたりするところはある。
彼らは必ずしも悪人ではない。むしろ善人だったりする。ある意味まじめであるがゆえに自分たちが正しいと思っていることを理解しない人間に憤り、先鋭化しているのである。
例えばそういうものの周辺で「おかしな争い」が生まれたりもする。
おかしな争いをしているうちはまだいい。仲間しか訪問していないその場所での意見が住宅業界の良識を決定しているかのごとく認識するようになったらちと引く。非寛容な選民思想を持つカルトな新興宗教の性質と似かよってくる。

こんなことを書きながら、実は私はそうした場所の利用方法はあると考えている。その場所では余計なノイズ(罵倒語)が付随していたりもするものの、彼らの「敵」のネガティブ情報がいろいろと出てくることがあるからだ。彼らの「敵」とは、私達施主連にとってはいくつかある依頼先候補の一つの業態ないし会社である。彼ら自体も候補の業態・会社だったりもする。
いろいろな対象についてプラス面マイナス面の双方の情報を集めること、それが情報収集で心がけるべきことである。自分を見失わなければそういう場所を覗いてみてもいい。ただし玉石混交のうえ、「敵」に関する情報は「玉」(知らなかった事実)より「石」(無責任なうわさ、ノイズ)の方がかなり多いので、効率的な情報収集手段でもない。
また、特に先鋭化が激しい場所では、そーっと見るだけ、それが肝要である。それでも「毒」にあてられて気分が悪くなったりするリスクがあるのでご注意を。

弊ブログではブログ主自ら多様性を認めたいと意識しているし、気の合う仲間が集まっても、社会的には単に「同好の士」の一集団にすぎないと認識する客観性は持っているつもりだし、自身のバイアスだって警告しているし、他者を批評・批判・分析はしても積極的にバカにしたりするつもりはないし、「多神教」だし(笑)、そんな先鋭化した地点にまで到達しようもないだろうと自負(?)している。
それでも、もしかしたら…。



※このネットサーフィンという言葉、当初から違和感がある。サーフィンというよりダイビングだと思う。スキューバダイビングを体験してみれば実感がわくと思う。
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「新しさ」の陳腐化

2007年07月24日 | 家について思ったことなど
新製品はその「新しさ」においてまもなく陳腐化する。
これまでにない機能、これまでにないデザインのモノが世に出たとして、その「新しさ」が評価される時間は短い。PCなどハイテク機器の周辺を眺めてみればすぐ分かる。
ハイテク機器はともかく、家のように長い期間使うものは、その時点での新しさにあんまりとらわれすぎない方がいいと思う。「新しい機能」「新しいデザイン」が気に入っていたとしても、その新しいこと自体に満足できる期間はすぐに終わるからだ。
機能にしろ、デザインにしろ、それが新しくとも、新しさという点ばかりに目を向けず、「確かさ」とか「普遍性」というような観点で見つめた方がいい。機能やデザインが長い期間にわたって評価され続ける場合、それは「新しさ」という評価軸から離れてみてもなおかつ価値があるときだ。

新しさに価値判断のウエートを置きすぎると、計画的陳腐化戦略の罠にはまりやすくなるということもある。

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「計画的陳腐化」 (「Marketing Square」の「ワードファイル」より)

プロダクト・ライフサイクルを短縮し、主に新製品の購買促進を目的として企業が行なう戦略のこと。
物理的陳腐化,心理的陳腐化,機能的陳腐化の3種類がある。
物理的陳腐化は、製品の部品ないしは製品全体を一定の時期が来ると老朽化するように意図的に組み立てるものである。
心理的陳腐化とは、製品またはパッケージのデザインを変えることで、消費者にそれを所有することが「新鮮である」と感じさせることで購買を促すものである。最近ではソニー「プレイステイション2」や日産「フェアレディZ」がその代表例となる。高価格の製品でよく用いられる。
機能的陳腐化とは、製品の機能をグレードアップすることで、新製品への買い換え需要を促進するものである。マイクロソフトの「Windows」「Office」やインテルの「pentium」などPC関連機器でよく用いられる
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住宅において、もし上記3種のうちの物理的陳腐化策をとっていたらそれは欠陥住宅に近しいと判断すべきであろう。 さすがにそこまでの愚劣な商品戦略をとる住宅業者は少ないだろうが、水準の高い住宅を作る業者でも、新しい機軸の住宅を売り出そうとすれば自然に「心理的」ないし「機能的」な計画的陳腐化策に似た行動をすることになる。
そう考えると、「新製品」を次々と打ち出すハウスメーカーの存在が日本の住宅の短命さに少なからず影響しているようにも見えてくる。
施主としてはこうした業界の動きにまどわされるのは損だ。だから「新しさ」を観点とした評価はほどほどにしておいたほうがいい。
新しいものを評価するなということではない。新技術がその後の本流となることは少なくないからだ。新しいものを「新しい」ことばかりに着目して選択すると、遠くない将来その価値にありがたみを感じられなくなり、別の新しいものの方がよく見えてしまうことに気をつけたいということ。それは、まだ使えるものをゴミ化する方向に働く。
貧乏性の私の発想としては、現在新しいものが将来新しくなくなったらどうなるのかということに想像をめぐらすこと、そして「古い」ことの良さが分かって「古さ」を満足できる価値観を持つこと、が長い目で見て得なことだと思うのだ。

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「学習に集中できる子ども部屋」への大きな疑問

2007年07月17日 | 家について思ったことなど
前エントリの「トクホ住宅」の記事には、他に気になる一文があった。
ネット上ではその文は省略されているが日本経済新聞17日朝刊には全文が載っている。

曰く
「快眠しやすい寝室の照明やデザイン、学習に集中できる子ども部屋、……などが研究課題になる見込みだ」

子ども部屋の議論には大抵、勉強の問題が関わってくる。それは自然な流れではあるが、こと勉強に関しては、そもそも子ども部屋でやるべきものなのか、というところから議論を展開して欲しいと思う。
「勉強部屋」の発想は、一人で誰にも邪魔されない環境を作って集中しやすくする、というものだが、その発想は勉強自体が趣味となった超優等生か、せっぱつまって真に心を入れ替えた受験生くらいしか通用しない。人間というものはたしかに一人になって集中することもあるが、それ以上にサボるものである。自分が一人になったら何をするか想像してみればいい、自分の子どもも同じようなものと考えるべきだ。

我が家では、勉強はみんなで使う作業机兼勉強机でやることになっている。あるものはそこで勉強しているが、あるものは工作していて、あるものはPCをいじっている、そんな環境である。
「それでは集中できないではないか」というようなことを言われるかもしれないが、逆に「そんなことで集中できないというのは困る」というのがこちらの言い分になる。

子どもが、密室でしか集中できないまま社会人になったことを考えてみてほしい。
会社に入れば机がずらりと並んでいて、社員が仕事をしている。学校の教室も同じではないかというかもしれないが、教室の場合は皆同じ勉強を同じペースでしているのに対し、会社の場合は、それぞれ違う仕事を違うペースでやるし、時には机のうえを片付けたり、電話したりしているのだ。隣に人間がいることで仕事ができない、などという言い分が通用するような世界ではない。
最近、社会でメンタル面が弱い人材が増えているのは、もしかしたら一人じゃないと集中できないまま成長してしまったせいかもしれない、などと思い始めている。一人でない場所でも勉強できるように意識的に育てておかないといけないとすら思う。
それに、勉強で分からないことがあったら隣のお母さんに聞けるという利点もあるし、工作に熱中する私のようなお父さん(笑)がうるさいと思ったら、「ちょっと静かにしてよ」って言えばいいのだ。それはコミュニケーション能力を鍛える機会にもなるはずだ。親子の断絶の予防効果も期待できる。

私は「快適な環境」というものに対し、問題意識を持っている。抵抗力の衰えた老人にはできるだけインパクトが小さい環境を用意するべきだと思うが、子供たちは別だ。子供たちには順応力・適応能力を身につけさせねばならない。負荷のある環境下でも行動できる人間に育てなければならない。快適な環境でないと勉強できないなどという性質はハンディキャップになってしまう可能性すらある。
そういうことは外部で鍛えろという人もいるけれど、勉強などというものは習慣であり、日常生活で身につけるのが適していると考える。

なお、記事にあった「快眠しやすい寝室」というのは魅力的ではあるが、やはり子供のことを考えると全面的には受け入れがたい。私は大抵の場所で眠ることができるという自分の能力に少々誇りを持っている。快適な環境でないと眠れないようなヤワな子供には育てたくはないのである。それこそ日常生活で身につける能力でもある。
ただし、何と言っても家は休息する場所である。老人もいるし、快眠しやすいのはいいことに違いない。子供にも時にはそうしてやりたいし。
運用次第でどうにでも使える家というのがいいかもしれない。

そうだ。ひとつ思いついた。今年の夏休みは古屋で蚊帳をつって子供を寝かせてみるか。仏壇もあるし、先祖も喜びそうだ。さて蚊帳はどこにしまってあるのだろう。

関連エントリ
勉強部屋?子供部屋?
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/c640e30f6cb732fa11a0ba6aaf4d9a29

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「より健康になる家」の認定に反対したい

2007年07月17日 | 家について思ったことなど
Nikkei.netより
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20070717AT3S1301Q16072007.html
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「トクホ住宅」産学官で研究・国交省が認定制度めざす
 国土交通省は「健康増進につながる住宅」の認定制度の導入に向けて、産学官による研究を始める。国が健康に役立つ食品にお墨付きを与える特定保健用食品(通称「トクホ」)は、「脂肪がつきにくい」とうたう飲料などで、普及が進んでいる。同じような枠組みを住宅に設けて、「より健康になる家」の普及を目指す。
 18日に建築学や医学などの研究者や、住宅や設備のメーカー、厚生労働省など関係省庁で構成する研究委員会を立ち上げる。
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上記記事に思いっきり疑問符をつけたい。
「脂肪がつきにくい」食品だって、「健康になる」とはうたってない。
脂肪分の多い食品をガンガン摂ったら「脂肪のつきにくいお茶」を飲んでも、そもそも脂肪分の少ない食品を心がけている人より不健康になりやすい。
それから考えれば「より健康になる家」は言いすぎである。
「健康になる」のではなくて、せいぜい「健康を維持しやすい」くらいの表現にとどめるべきだ。「健康になる」というのは本人の自助努力こそが最大の効果を発揮するもののはずだ。以前も言ったが、こういうことをやると「仏作って魂入れず」になりかねない。

いかにも「箱物」が好きな行政の考えそうなことである。
こういうことをやる前に子供達に「健康教育」をやるべきだろう。そちらのほうが健康増進に「より有効になる」だろう。
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「いい家」のストライクゾーン

2007年07月14日 | 家について思ったことなど
「いい」という言葉は情報としてあいまいだ。
使う人によってニュアンスがまったく異なる。
「いい」と思えるもののバリエーションが多い人と、「いい」ものの姿がかっちり決まっている人がいて、両者の「いい」は同じではない。
身近な例で言えば、女性(男性)の好みについてのストライクゾーンがかなり広い男性(女性)がいる一方、ストライクゾーンがかなり限定されている男性(女性)もいる。そして両極にいる人の発する「いい女(男)」という言葉は相当に意味合いが異なっている。

「いい家」も当然そうである。いろいろなバリエーションの「いい家」があると思っている人と、「いい家」は厳密に定義付けした条件に合致するものだけと思っている人がいて、「いい家」という言葉の使われ方が違う。
「いい家」を一般論的に論評するとしたら、両者の意見は噛み合わないだろう。
どちらの姿勢が良い悪いということに言及しても意味はない。情報の受け手としては、「いい家」という情報に触れた時、それが「いい家」かどうかを判定するのは他人ではなくあくまで自分だということが重要である。

私は「いい家」にはいろいろなバリエーションがあると思っている人間である。家族ごとにそれぞれ「いい家」の形態があるとも思っているから、他人の家を見せてもらって「自分とはちょっと志向が違う」と思った場合でも「『いい家』だなあ」と思うことはよくある。
自分の家は自分のストライクゾーンの真ん中にできるだけ近づけるよう建てたつもりだが、ストライクゾーンが広いせいか、他人の家も「いい家」と思うことが少なくないということかもしれない。
ここではそんな感じで「いい家」のことを語っているので、「いい家」の姿・性能は物理的条件としては一定していないと思う。

言葉の使い方、使われ方は人によって異なる。あいまいさのある言葉ほどその差は大きい。
他人が発する「いい」という言葉の背景を知らないとミスリードされる恐れがある。そんなことを常々思っている。

関連エントリ
それって「すごい家」ではないのか
普通の家
コメント

家の履歴書・血統書――情報の重要性

2007年07月12日 | 家について思ったことなど
ある人から中古住宅を購入することについて相談を受け、素人意見を述べた。
そのとき、「その家を施工したのは何者か」という情報はできれば聞いたほうがいい、というようなことを示唆した。施工者が信頼できる腕と信用できる人格を持っているかということは中古住宅を買ううえでも有用な情報だと思うからだ。
以前から将来のリフォームのことなどを考えて、図面や施工途中の写真など家の情報(設計事務所と建てるとそういう情報はプロによって整備されて手元に残る)は保持し続けたほうがいいと思っていたものの、これをきっかけに住宅の流通という面からも家の情報はできるだけ多くあったほうがいいと気づいた。
「そうか『家の履歴書』とか『家の血統書』とかあるといいかも」とひざをたたいたが、すぐにそんな考えは提案されているだろうと思い至り、グーグル君に尋ねたら、やっぱりあった。

昨年の9月に、与党の200年住宅構想の記事を紹介したが、今年5月になって自民党政務調査会が「200年住宅ビジョン」というレポートを発表、そのなかに「家暦書の整備」という提言がしっかりあったのだった。「家暦書」とは、すなわち家の履歴書である。
やっぱり素人が思いつくようなことは、すでに考えられているのである。
そのほかにも福岡県では提言のかなり前から「家暦書」の普及を進めていたようで、福岡県住宅課のサイト「家暦書」がダウンロードできるようになっていた。

中古家電の売買でも取扱説明書の有無で値段が違う。中古住宅の売買も家暦書の有無で十万円以上の差をつけてもいいのではないだろうか。それを支援するために、家暦書がある場合、不動産取得税を軽減するなどという施策を導入したらどうだろう。
オープンになっている「200年住宅ビジョン」は概要なので、もしかしたらすでにそんな詳細な検討もされているかもしれない。今後に期待したい。

「施工者情報」は別の付加価値を生む可能性があると思う。腕のいい工務店が施工したという事実はブランド価値的な無形資産になるかもしれない。
良いものが高く評価される健全な市場にするためには、情報の蓄積とその開示は必然なのである。
不動産業者には情報をできるだけ集めて開示することをオススメしたい。それは差別化戦略となりうるはずだ。「あの不動産屋さんの情報が一番充実していて確かだ」という評判が広がれば、ほっといてもお客さんは寄ってくるだろう。

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「ヘンなコダワリ」のこと

2007年07月08日 | このblogについて
「ヘンなコダワリを持った家づくりの記録」――弊ブログのタイトル下に記した言葉について、いまさらながら。

そもそも「こだわる」っていい意味で使う言葉ではない。
細かいこと、どうでもいいことに執着するというような意味合いを持っている。
それがいつの間にか、「細かいことまで妥協しない」というようなニュアンスを強めて、使われ方が変化した。
「シェフこだわりの素材」なんていうように、むしろ優位性をアピールしたりしている。

私はこの「こだわり」の使われ方にちょっと問題意識を持っている。だいたい「拘り」を「こだわり」と意識的にやわらかく表記するあたり、言葉を使う側の勝手さが透けて見える。
レストランのメニューを見ながら同席者に「いい意味で使う言葉じゃないのになあ」と発言していたりした。
豪快な人に対するあこがれのようなものもあり、どちらかというと細かいことに執着するのはかっこ悪いという価値観も意識していた。
それが家を建て替え、それをブログに記録しようという段になって自分の「こだわり」を意識する羽目になった。家を構成するいろいろな要素がそれぞれ気になってしょうがない。
一方「家」にこだわらない人は少なからずいる。さらにそれで明るく暮らすことのできる人はたぶん優れた人間だとも思える。私は家の細々としたことをどうしようかああだこうだ考えているわけで、傍から見れば本来の意味で「こだわって」いるといえると思えた。
そして妥協の産物「ヘンなコダワリ」という表現が出てきたのだった。「拘り」にできないのはご愛嬌ということで…。

いい意味ではない、本来の「こだわり」かもしれないことを自戒しつつ、読者に警告的に示そうという正直者(笑)ならではの発想である。「コダワリ」をカタカナで表記しさらに「ヘン」とすることで、誇らしさをこめての「こだわり」ではないことを示しているつもりでもあるし、執着している部分が普通の人と違っていることを表現しているつもりでもあったりする。「なんやかんや言っても一個人の『こだわり』にすぎないのだから、気にしないでカルく読んで欲しい」という願望もこめた。
この過程を客観的に眺めれば、本当にどうでもいいことにこだわっている自分の姿がわかって苦笑するばかり。まさに「ヘンなコダワリ」だ。やっぱり表記にウソはない(笑)。

「こだわり」が気になる人は、庄内拓明さんの昔のブログエントリ「『こだわり』をめぐる冒険」をご参考に。
「こだわり」という表現にこだわること自体、自家撞着しているというのは納得せざるをえない。
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名古屋タッチアンドゴー

2007年07月03日 | 新幹線通勤
 
誰かさんの祈りが通じたか、やってしまった乗り過ごし。しかも名古屋。
このあいだ来たばっかし(笑)。

今回は、幸いにしてダイヤが好都合で、すぐに折り返しの新幹線(しかも「ひかり」)があった。
名古屋滞在わずか6分。
この短い間に、記念にホームの立ち食いきしめんやを撮った。
ただじゃ転ばないぞ(なにがだ)。
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