家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

坪単価だけで価値はわからない

2006年01月30日 | 家について思ったことなど
ネット上の住宅関連のコミュニティで坪単価が話題になることがあるが、実物を見ないで議論してもあんまり意味のないことと思う。
そもそも容量単位の値段で一つの物体の価値を考えていいのは、肉や米などの食品や、ガソリンなど、容量を基準に売っているものだけである。
それにしたって、品質に均一性があるガソリンはともかく、例えば肉の場合、国産の高級肉から売れ残りの叩き売り肉までグレードがあるわけで、値段だけで割高・割安は決められないはずなのだ。目の前に2種類の肉があって、一つは100g200円、もう一つは100g300円だとしたら、迷わずに200円のモノを買うだろうか。まずはその肉のグレードを確認するのではないか。
家だって、いろいろなスペックに対する要求水準がまずあって、それらを満たすグレードの家の適正価格を探るのが肝心だ。

そう、結局問題なのはグレードの見分け方なのだ。
注意したいのは、キッチンやバス・トイレ、床・壁材などは素人でも判断しやすいが、耐震性や断熱性、気密性や防音性能などは判断しにくいということ。表面的に見えるものだけを比較して「安い」と判断すると、耐震偽造マンションを購入するようなことになりかねないのである。たちの悪いメーカー・施工者だと、グレードの高いバス・トイレを安く設置する一方でチープな構造を割高な値段で施工することで元を取るなんてことはやってしまう。
価格と品質への安心感を高めようとすればするほど、施主がかなり勉強するか、施工者の実績や実力、組織・人物を見極める必要がある。

設計事務所と組むと、単に設計だけでなく、こうした面で参謀として働いてくれるというメリットがある。もちろん、まともな設計事務所であるか見極めることがまた重要であるのだが。

「家(か)」の使い方、使われ方

2006年01月28日 | 家について思ったことなど
朝妻さんのエントリ「『・・・家』ってなんだ? とちょっと思った」にトラックバック。

朝妻さんは渡辺篤史さんの「建もの探訪家」という肩書について言及している。
>一つのことを、長く、まじめに続けていると
>その道の専門家と認められ、『家』の称号をもらえるようだ。
それでいいと思う。あれだけ長い間住宅を見続けた人なのだから、立派に「建もの探訪家」であると私は認めたい。「建物を見る」という分野において権威といっていいと思う。それは有数の切手のコレクションを作り上げた人が「切手収集家」と呼ぶ/呼ばれておかしくないのと同じだ。

私が「家(か)の問題」で言いたいことは、「建築家」という言葉が持つ尊大なニュアンスをなくしてしまえばいいということ。言葉は生き物なのでそのニュアンスを含めていかようにも変えられる。
渡辺さんも「建もの探訪家」という肩書をもってして「先生」などと呼ばせてイバっているわけではあるまい。「切手収集家」だって別にイバった存在ではあるまい。世に存在する「家(か)」が皆エラソーであるということではないはずだ。
ハウスメーカーの営業マンなどによるマイナスイメージ戦略が功を奏しているのか、「建築家」に会ったこともない人が、「建築家は施主に『先生』と呼ばせてイバっている存在」というような先入観を持って発言しているのを見かけると、お互い不幸なことだと思ってしまうのだ。(注1)
私は自分の家を建てるにあたって4人の建築家と会ったが、エラソーな人は一人もいなかった(注2)。
世間の誤解は解いた方がいい。

なお、自ら「建築家」であることを吹聴し、施主に「先生」と呼ばせてイバりたい「建築家」もきっと存在するのだろうが、そういうお方がどうボヤこうと私は知ったこっちゃない。

(注1)私は呼ばないし、呼ばないほうがいいと思っているが、建築家が人に「先生」と呼ばれているのを糾弾しようとまでは思わない。かかりつけの街医者を気軽に「先生」と呼ぶニュアンスと同等ならばコトを成すのに大きな障害にはならないと思うから。むしろ「先生」と呼ばれる建築家がイヤな人は、「先生」と呼ばれる街医者にかかるのもやめたらどうか、などとも思ってしまう。
(注2)もっとも先方がエラソーだったらこっちもエラソーにふるまうことで相手をへこましてみようかなどとたくらんでいたりもした。(建築家との接触編はいつか書いた方がいいのだろうなあ)

いい古い家

2006年01月24日 | 家について思ったことなど
家を建てる人は誰しもいい家を建てたいと思う。そこでいい家を建てるにはどうしたらいいのか情報を集める。そして情報は目移りするほどたんまりある。
しかし、決定的に情報が少ない分野がある。それは経年変化した家の情報だ。

家は長い年月使うものだから、新築時のスペックだけで「いい」「悪い」を判断するのは性急といえるのではないか。

まっとうな作り手は長く使える家を意識して作る。世の中にはまっとうな作り手による、古い「いい家」がいくつもあるはずだ。
最近は古民家が小さなブームとなっているが、そこまで古いのは施工者すらわからなくなっているし、同様のものを建てるのは困難なので、築15-20年くらいの最近の古い家の情報がもっとあったらいいと思う。そうすれば、施工者の優劣を推し量る材料になる。
(20年経過しても)「みすぼらしくなっていない」「省エネ性能が衰えていない」「耐震性にまったく問題がない」「デザインが陳腐化していない」等々、評価ポイントはいろいろあるだろう。そして、たぶん一番の評価ポイントは「家族がその家を気に入っていてまだまだ使い続けたいと思っている」になるだろう。

築20年でいい評価が与えられる家は掛け値なしの「いい家」に違いあるまい。築年数がつみあがればつみあがるほど「いい家」度合いは増すのではないか。
家の本当の優劣とは、築年数が経過してから証明できるものだと思う。

そういえば私は、古い住宅を対象とした建築賞があってもいい、と過去のエントリに書いていた。実現すれば施主に役に立つ情報になると思うのだが・・・。



極小手帳カバーの作成

2006年01月22日 | レザークラフト
世界一小さいスケジュール手帳のカバーが完成した。
作成にあたり、せっかく小さいのだからと、最初は単なるカバーではなく、いろいろとバカな構想をしていた。
例えば、
「カードホルダー付手帳の向こうを張って手帳付カードホルダーというのはどうか」
とか、
「しおりの付いた手帳はたくさんあるが、手帳がついたしおりなんてものは世の中に唯一のモノになるのではないか」
とか・・・。

詳細を詰めていこうとするとやっぱり実用的なものにはなりそうもなく(あたりまえか)、結局単純にカバーを作ることにした。
ただ、ミニチュア的な手抜き・省略はせず、フルサイズの手帳と同様の手間をかけることで面白味を見出そうと決めた。
これでも革の床はしっかり磨いてあり、漉きが必要なところは漉き、コバ磨きもやった。
苦心したのは縫い目の間隔。市販の目打ちの間隔だとどうにも大きくて、それを使うとミニチュア的省略感が色濃くでてしまう。
そこで、一目一目しるしをつけて一つずつ穴を穿った。このときしるしをつけるのに、リベットゲージという模型工作用の定規を使っている。私は模型はやらないが、きっと何か役に立つと思って数年前に購入していたモノだ。やっと役に立つ場面が訪れて少しうれしかった。

写真は、前に作った免許証ホルダーの上に乗せて撮ったもの。縫い目の違いがわかるだろうか。



世界一小さなスケジュール手帳

2006年01月20日 | レザークラフト
先日のエントリで、小さなモノ(道具)が好きなことをカミングアウトした。
いきおいで、最近手に入れた小さなモノを紹介してしまう。
世界一小さなスケジュール手帳である。
縦5.2cm・横3.8cm、ドイツ製。
1件分のスケジュールなら書き込むことは不可能ではない、というレベル。決して実用的ではない。
よくよく考えたら、表記はドイツ語だし、休日もドイツ基準。さらに実用から遠い。

ということで、現実的には「話のタネ」という実用性しかないことに気づき、こうしてエントリのネタに使うことにしたのだった。
狭小住宅が話題になる日本だから、こうした極小モノが好きな人もいるだろう。

このままでもつまらないので革でカバーでも作ってみようかなどと考えている。
自動的に世界一小さな手帳カバーになるはずである。

小用姿勢の問題を解決する便器

2006年01月18日 | 家について思ったことなど
庄内拓明さんのblog 「tak shonai's Today's Crack (今日の一撃)」では、立つか座るかという男性の小用時の姿勢に端を発したトイレ問題が盛り上がっている(ココココ)。
そこに以前のエントリをネタに参加させてもらって、いろいろな刺激を得た。
幾分、脳が活性化したのか、この問題を解決する面白い商品を思いついた。
それは、「上下動する電動洋式便器」というものである。
男性が小用に使うときは便器がぐぐっと上にあがる。噴出口と受け口が接近するわけで、的をはずしにくくなる。それなら堂々と立って用を足せる。
検討する価値はあると思うがどうだろう。

そんな商品が開発されたらされたで、庄内さんのエントリにあるように、普段便器があがっているかどうかでその家が家父長的かどうかがわかる、なんてフェミニストに言われてしまうのだろうか。
だとすれば、男性の立ち位置の床面を下げることができるようにしたらどうか。それならフェミニストも文句はあるまい。


というようなバカな発想を、前回のエントリで紹介したPost-itにメモしていたりする。

オリジナルPost-itホルダー 極私的新商品開発

2006年01月16日 | レザークラフト
Post-itホルダーを作った。
ふと、「今年は積極的にメモをとろう」と思い立ったからだ。

メモは携帯しないと意味がないのでコンパクトなサイズがいい。
75mm×50mmのPost-itがちょうど収まるサイズにした。閉じると手のひらに乗る小さな手帳のようになる。
Post-itはそもそもコンパクトで、メモをとるのに優れたツールだが、素のままで保持すると、収まりが悪く、どこかへいってしまったり、分離してしまったりする。その欠点を補うためにはホルダーになっているといい。

このホルダーにはペンも付けた。Post-itだけ持っていても筆記具を持っていない、などという間抜けな事態を防ぐためだ。
ちなみに、コンパクトさを追求した付属のペンはプラチナ万年筆の新製品「ポケットミニボールペン」(¥1050)。長さ82mmが軸を回転させて92mmに伸びる構造。使用するとき、この10mm差があなどれないのである。
参考URL: http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=119471&lindID=4

さらに、書き込んだ紙片を貼り付ける台紙をセットした。ペン付きのPost-itホルダーは過去にも製作したことがあるのだが、極限までコンパクトさを追求したソレ(※)には紙片を貼り付ける場所がなくて困ったという経験があったのだ。
1P目に書き込んでも、2P目、3P目と書き進めばいいように思うが、2P以降はPost-itの「のり」の部分には書き込めないし、めくりながら書いていると紙にクセがついて型崩れし、5Pくらいまとめてめくると紙の剛性から、そこから勝手に分離してしまったりするのである。
それにPost-itの良さとは、メモを貼り付けて俯瞰できるところにある。冊子のままで、目に触れない情報になっているのでは効果的な利用にならないのである。
そんなことを考えながら作った台紙は0.3mm厚の黒い塩ビシートを切って、布テープでつなぎ、じゃばら状にしてある。とりあえず4面分、貼り付ける場所を確保した。一時的な貼付場所としてはなんとか機能するだろう。
普段は「じゃばら」が広がらないよう、ベロ状の「押さえ」もつけた。

実は、Post-itホルダーは銀座の伊東屋でも売っている。しかし、それにはペンと台紙は付いていない。
メモを取る機能が一つで完結しているところにこのホルダーのミソがある。

こんなふうに新商品開発工程のようなものを極私的に楽しめるのがクラフトの面白さでもあると私は思っている。


<言い訳>
少し前にオーダーを受けたナイフシースはクライアントの方が忙しくて打ち合わせする時間がなく、停滞中。

※ 過去に作ったPost-itホルダーのこと。
 このときの開発コンセプト(笑)は「実用的なレベルの極小メモツール」。身軽な格好が好きであるにも関わらず、いろいろなものを持ち歩きたいというややこしい性格の私はそもそもコンパクトなものが大好き。25mm×75mmのPost-itと伊東屋オリジナルの手帳用のシャープペン(長さ86mm、軸径5mm)を組み合わせた。これは手の中に隠れてしまうサイズになった。新旧を並べた写真はコレ


<<追記>>
「ポストイットホルダー」で検索してこちらのエントリにいらっしゃる方が多いので、
その他の関連エントリを以下に紹介しておく。

ポストイットホルダー付きIDカードホルダー

大人の仕掛け筆箱

ポストイットホルダー kisaragiバージョン

エルメスより先んじる


1月16日は禁酒の日

2006年01月16日 | その他
私は酒が好きである。
お酒が楽しめる仕掛けも家に備えていたりする。そのほかココココで飲むのも気持ちよいし、施主仲間の金平糖さんココで飲むことをコメント欄で推奨(?)してくれた。

「どこで何を飲もうか」
そんなことを考えていると家づくりは俄然、楽しくなったりする。


しかし、今日は飲まないことにした。なぜなら1月16日は「禁酒の日」だからである。
1920年にアメリカで禁酒法が実施された日が由来となっているという。
日本人がなぜアメリカの事柄をもとに決めるのかわからないが、素直な性格の私はコレにしたがってみることにした。

で、ついでに
 4月23日 ビールの日
 5月13日 カクテルの日
 5月28日 ウイスキーの日
 10月1日 日本酒の日
 11月1日 本格焼酎の日、泡盛の日
 毎月20日 ワインの日
も素直にしたがって飲んでみることにする。
「さて、どこで飲もうか」


※ 過去の記念日シリーズ
いい夫婦の日」 
いい石の日
あかりの日

「いい家」の決め方、決まり方 <住宅本の読み方あれこれ>

2006年01月12日 | 家について思ったことなど
書店の住宅本コーナーを見ると「いい家」というキーワードがついた本がたくさんある。
この中で私を辟易とさせるのが、「『いい家』はこういうもの」と決め付けてある一部の本だ。
ある部分において幾分性能が劣っている住宅と比較して、こっちの方が優れた「いい家」と主張する。
それはあくまで「いい性能」の話だ。その性能に限定するならば、いかようにも優位点をアピールしてもいい。そういう情報は役に立つ。しかし、立地まで含めていろいろな要素が複合的に絡み合っている家というものを、限られた分野の性能の優位性だけで「いい家」と断定していいものなのだろうか。
例えば、
・ガーデニングや庭いじりがものすごく好きで、どうしてもある程度の広さ庭を確保したい施主がいたとする。しかし予算は限られている。「土地の広さ」という性能を優先して土地を確保して、とてもいい庭を造っても、他の性能を妥協したとしたら、それは「いい家」ではないのだろうか。
・施主が「眺望」とか「交通アクセス」に優れた立地にこだわる場合などもある。その立地に高性能住宅を建てればなおいいとわかっていても、ハードの性能より、限られた予算の中で「眺望」「交通アクセス」を優先したらそれは「いい家」にはなりえないのか。
・吹き抜けの「開放感」や「採光」より、「空調効率」を優先しないと「いい家」にはならないのか。
・建材で、「質感」より「ノーメンテナンス性」を優先しないと「いい家」にはならないのか。

施主にとって、家づくりとはコストの配分を考えることとも言える。
性能はそれぞれ高い方がいいに決まっている。しかし、優れた性能を確保するためにはコストがかかる。すべての性能を最高水準にするのは資金上、無理というもの。「土地の性能」も含めてそれぞれの性能にかけるコストの配分は施主それぞれで違うはずだ。

限られた予算の中で施主の望む要件をできるだけかなえた住宅が「いい家」というのではないのか。ある性能が劣っているとしても、それが致命的な水準でないかぎり、その劣っていることをもってしてレベルの低い家扱いするのはいかがなものだろう。
「いい家」を見出しにとった本の一部は、「いい家」の定義を狭量に捉えている気がしてならない。
「いい家」の「解」は一つではない。施主それぞれにユニークな「解」がある。本の著者が考える家を「いい家」と表現するのはよしとするが、それ以外を「たいしたことない家」「悪い家」のように表現する乱暴さは注意して読みたい。

山小屋の薪ストーブ

2006年01月10日 | 山小屋・ログハウス

この前の3連休のうち、土日は山小屋に泊まった。
温暖な地方とはいえ、山の方はやっぱり寒い。
到着と同時に薪ストーブに火を入れる。
スギの枯葉と小枝を焚き付けにするとマッチ1本で簡単に火がつくのだが、暖まってくるまでに結構時間がかかる。
ましてやこの部屋は吹き抜け。そして建物自体、素人が建てたものなので気密性に劣る。真冬では相当薪を使わないと薄着ですごせるほどには暖まらない。この日も震えない程度の暖かさにとどめておいた。
それでも薪ストーブはお気に入り。暖かさの質が気持ちいいし、時折薪をくべながらぼーっと火を見ているのは気分転換になる。
まったく電気を使わないというのもイイ。燃料が石油やガスだとしても、いまどき電気を使わない暖房器具はなかなかない。「暖房道具」とでも呼びたくなる。

今回、ちょっと失敗した。
ストーブの上でヤキイモがうまくできなかったのだ。
以前やったときは「ヤキイモ屋も真っ青」なくらいにうまいヤキイモができたのに…。
あれは「たまたま」うまくいったのだろう。薪ストーブの火加減という技術を会得しなければと思った。
ノコギリや金槌と同様、道具を使いこなすにはやっぱり訓練が必要なのである。
そして使いこなせるようになるとまた愛着が増してくると思う。


垂木がなぜか好き

2006年01月07日 | 家について思ったことなど

愚直に並んだ垂木の姿が好きなことを告白しておく。
理由はよくわからないし、昔から好きだったかというとそうでもない。
家の建築中にソレが好きなことを意識し始めたように思う。越屋根の姿が現れてきて垂木がきれいに並んでいるのを見て、「うんうん」とうなずいたあたりからかもしれない。

最近では、山小屋の脇の物置が出来上がったとき、物置と山小屋の垂木が連続して見えるのを知って、うれしくなってしまった。

垂木とか、あらわしの梁が好きなのは、やはり私がサルに近い方のホモサピエンスだからなのか。


ビオトープと人間の位置関係について思う

2006年01月05日 | 山小屋・ログハウス
ウチの山小屋の隣に、こぢんまりとした湧水がある。
湧水といっても、川の横であるから、伏流水が湧き出しているものと思われる。ただ、乾季に横の川が干上がってしまった場合でも、この湧水は途絶えず、小さな池の源となっている。
水があるところには生物が寄ってくる。そしてビオトープを形成する。

昆虫だと、例の蛍のほか、トンボが5、6種類くらい存在する。私はそれまでオニヤンマを自然界でまじまじと見た覚えがなかったが、ここでは当たり前のように見かける。スズムシ、コオロギのほか、クツワムシもいる。ハンミョウ、タマムシといったきれいな虫もいて楽しくなってくる。当然、テントウムシやカメムシ、バッタなどありきたりな虫だっている。
鳥もいろいろ来る。サギは池の魚をがめつく獲りにくるのでしゃくにさわる存在だが、ウグイス、メジロ、セキレイ、シジュウカラなどはかわいらしい。時には美しいカワセミが現れる。

ビオトープとはそもそもは「本来の生態系が保たれた空間」だそうである。しかし、「人間が生活する地域の中で」というまくらことばがつくのが一般的になっているようだ。
学校など教育現場では「人工ビオトープ」なんていうのも増えている。というか、今普通にビオトープといった場合、人工のソレをいうのかもしれない。
ここでは「天然」ビオトープを考えてみたい。

我が家が山小屋を建てるために山林を購入したとき、この小さな湿地は荒れ放題だった。
湧水の出る部分こそなんとか見えていたものの、小さな池はアシだのヨシだのが密生して全貌は見えていなかった。何が飛び出してくるかわからないようなコワサもあった。
それを母がコツコツと手入れして、今ではすっきり池が姿をあらわして落ち着いた風情となっている。
水面が見えることでトンボは増えたし、鳥もよく訪れるようになった。荒れ放題だったころより、たぶん寄ってくる生物の種類は増えているだろう。

母はクレソンやわさびを持ち込んで育てている。きくらげが生えそうな木をわざわざころがしていたりもする。したがって植物の種類も増えている。

育てているというほどの手入れはしておらず、植物を置いているというイメージではあるが、葦などは今でも適宜刈り込んでいるわけで、この生態系に人間が介在しているのは間違いない。
となると、これをビオトープと呼んでいいものか、などと思い至る(「人工」をつければビオトープと言っていいのだろうが…)。
私としては、生態系を完全に支配せずに、自然と共生する形での人間の介在であればそれはビオトープといっていいのではないかと思っている。生態系の一部として人間という動物がかかわりあっているからだ。
ビオトープという呼び方がまずいのであれば、里山(さとやま)ならぬ里池(さといけ)とでも呼ぼうかと思う。
荒れ放題だった自然の状態より美しく、かつ、動植物がたくさん寄ってきている。こちらの姿の方が私は好きだ。



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こころが洗われるようなブログを一つ発見。
小学校4年生のバスケ小僧君による「ぼくのビオトープ」。
http://biotop.cocolog-nifty.com/biotop/
旺盛な好奇心と行動力。イマドキこんな子供もいるんだと少し感動した。全然登場してこないが親御さんはかなりの人物ではないだろうか。ほぼ同年代のわが息子と友達になってほしい。
介在するのが、すれた大人でなく子供なら、ビオトープと言って全然おかしくないような気がしてきた。

CATVの善し悪し

2006年01月04日 | 我が家のスペシャルな事情
ウチはCATVを導入している。
家の外観上の邪魔者ともいえるアンテナが不要なため、設計事務所はそうじて導入したがる傾向があるようだ。
私は電信柱のソレに比べればアンテナの不恰好さくらいは我慢してもよかったのだが、CATVインターネットの安さが気に入り、家族の反対もなかったのでプランの初期の段階で導入を決めてしまった。
おおむね満足しているのだが、困ったことがないわけではない。
CATVのコンテンツはまるで「大人買い」を思わせる一挙放映というものが多く、視聴にキリがないのだ。特に最近、父が「時代劇専門チャンネル」にはまり、長時間テレビの前に座っている。こちらは別にこれといってみたい番組はないことが多いのだが、リビングにえんえんと時代劇言葉が流れ続けているのはいい加減疲れる。
それは子供が見ているディズニーチャンネルしかり、である。ひとつひとつしっかり見ればそれなりに面白いのだが、絵柄や言葉のトーンが日本のアニメに比べて単調で、BGMとしては飽きてくる。
割を食っているのは私と妻。この正月はそれを思い知らされたのだった。

家づくり「いろはかるた」

2006年01月01日 | 家について思ったことなど
謹賀新年

ということで、正月らしいコンテンツを提供してみたい。
昨年初は年頭所感といっていい、やや堅苦しいエントリだったので今年はやわらかめなものにしてみた。いささか発想がジジくさくて恐縮だが、「江戸いろはかるた」の家づくりバージョンである。
年末、通勤途中にこつこつと考えた。原文のトーンというかリズムをできるだけ損なわないように苦心したつもりで、けっこうな頭の体操になった。ヒマな時、ゆっくりかみしめながら読んでいただけたらと思う。
最初に江戸かるたの元の文、次の行のカッコが「家づくりかるた」の文である。わかりにくいものには簡単な解説を付けた。このブログといくらかでもかかわりのあるものについては関連エントリへのリンクもつけた。

(い) 犬も歩けば棒にあたる
「家を建てればブログ始まる」
拙ブログもこの例にあてはまる。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/88e8d6b5d1ed39901c66b139a128a759

(ろ) 論より証拠
「論より施工」
理論も大事だが、施工の確実さがなにより重要ということ。

(は) 花より団子
「ハウスメーカーより堅固」
工務店でもハウスメーカーより堅固な家にできるという意。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/93f2b398c1f158de68afaa3ed2bc71da

(に) にくまれっこ世にはばかる
「にくまれずに余の『はばかり』」
もめることなく小便器を設置できた夫が満足しているというハナシ(詳しくは↓)。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/fe13c49fe298bc45a9526d809e57b1f7

(ほ) 骨折り損のくたびれ儲け
「骨組みどうよ躯体はどうよ」
家は見えない部分も大事、それを意識して建てたかという確認。

(へ) 屁をひって尻つぼめる
「平面図にらんで部屋つぼめる」
予算の都合で施工面積を狭めなければならなくなった状況のこと。ありがちな風景。

(と) 年寄りの冷水
「年寄りの風水」
若者だけでプランを練っていたら、親世代から想定外の要求が出てきて混乱することがありますよという意。

(ち) ちりも積もれば山となる
「小さい見積もり山となる」
そんなに贅沢な要望でもないのに積み重なって大きな金額になるということ。

(り) 律儀者の子沢山
「立面図のコダワリ大」
立面図に注文が多い外観重視の施主のこと。

(ぬ) 盗人の昼寝
「塗り壁の税金」
固定資産税の評価額が高くなってしまう仕様というものがあるんだよという意。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/fb7acbc26be99134cd3e64027d35496d

(る) るりもはりも照らせば光る
「ルーフも梁もテラスも削る」
予算オーバーでいろいろ削らなければならないのだが、どこを削減したらいいかわからなくなっているような混乱した状況のこと。

(を) 老いては子に従う
「老いては高高に住め」
なんやかんやいっても年寄りには高気密・高断熱(高高)住宅が向いているよ、ということ。

(わ) 割れ鍋にとじ蓋
「わがままに特注」
こだわりが大きい施主は特注しかありません。

(か) かったいのかさ恨み
「解体の価格膨らみ」
旧家屋の解体費用はばかにならない額だという意。

(よ) よしのずいから天井のぞく
「予算がないから天窓除く」
切実度の低いものから削られるということ。

(た) 旅は道づれ
「宅を見る妻」
竣工した家をうっとり見る妻の姿。また、施工途中に眉を吊り上げてチェックを入れる妻のことをいう場合もある。

(れ) れう薬口に苦し
「レンジ選びで口げんか」
ガスにするかIHにするかで揉めている夫婦の図。我が家は決して揉めたわけではない。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/8bc000dd974e48b98854695d2a4037fb

(そ) 総領の甚六
「外断熱の信者」
外断熱は確かに理のある構造でいいものなのだが、信奉するあまり、それ以外はすべてレベルの低い家と思ってしまっている人のこと。

(つ) 月夜に釜を抜く
「妻に型を聞く」
システムキッチンなど住宅設備機器は妻に型式を指定させたほうがうまくいくことが多いという意。

(ね) 念には念を
「根太には根太用」
こだわりの対象にはまずならない根太にもそれに適した材というものがある。施主も木のことをよく勉強しましょうということ。

(な) 泣きっ面に蜂
「泣きっ面に追加工事」
ただでさえ予算オーバーなのに、追加工事が必要になった状態。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/26bc5cb8ca69e0b1b8e66c42ba010f7c

(ら) 楽あれば苦あり
「欄間あれば気配あり」
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/6aa8d04831099852f87cba0bdd73efae
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/999a6d063f59f9c52b0e9f8e2d7ec3ea

(む) 無理が通れば道理引っ込む
「無理を通せば棟梁引っ込む」
棟梁が撤退しそうなほどの無理を言ってはいけないという意。

(う) 嘘からでたまこと
「ウチから出した間取り」
家族で考えた間取り図に執着すること。

(ゐ) 芋の煮えたもご存じなく
「居間のアキ場所5畳もなく」
せっかく広いリビングにしたのに収納をしっかり考えなかったので、いろいろ物を置くことになって使える部分が狭くなってしまったという状況のこと。

(の) のど元すぐれば熱さ忘るる
「延床(のべゆか)増えれば貯えなくなる」
施工面積が増えるとお金がかかりますよということ。

(お) 鬼に金棒
「親が金出し」
親の資金援助がある家づくりのこと。金だけにとどまればいいが、口まで出してくることが多いようだ。

(く) 臭いものに蓋
「躯体の中に札(ふだ)」
棟札を入れてみたらどうだろうというハナシ。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/6b338813d0603101639c34a4003ccb77

(や) 安物買いの銭失い
「安くしたくて施主支給」
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/9037b54f86278763e275960cd863de7f

(ま) 負けるは勝ち
「間取りは家事」
家事動線のことを考えた間取りにしなさいということ。

(け) 芸は身を助ける
「建築家が身銭をきる」
どうしてもやってみたいことがあるのだけれども施主に資金がなく、自分でお金を足すしかないと建築家が決断したラッキー(?)な家のこと。

(ふ) 文をやるにも書く手は持たぬ
「普請(道楽)をやるにも時間を持たぬ」
いろいろ家づくりを楽しみたいのに時間がとれない人のこと。逆にウチの父は時間たっぷり(↓)。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/02a5fc02a54e52cb62615a8d03806a1a

(こ) 子は三界の首枷
「子は3階に首ったけ」
一番見晴らしのいい3階の部屋は子供にとられるという意。

(え) えてに帆をあげる
「縁側で呆ける」
縁側でボーッとするのもいいもんだ、ということ。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/febc2316c2f8b4bb34975ccd06b9eee4
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/bb592aaea0a676e15c7568b1a7dec03f

(て) 亭主の好きな赤烏帽子
「低低のスキマ、ああなつかし」
案外、低低住宅も良かったよな、というノスタルジー。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/a82fee80b21d6e060a76f1bc2866142a

(あ) 頭かくして尻かくさず
「頭金なくして借金へらず」
頭金が少ないとローンの負担が大変だということ。

(さ) 三べん廻って煙草にしょ
「三畳間作って煙草部屋にしよう」
肩身の狭くなったヘビースモーカー施主の願望

(き) 聞いて極楽見て地獄
「気密断熱見て納得」 
高高にこだわるのだったら、ちゃんと施工過程を見て、測定もしましょうということ。

(ゆ) 油断大敵
「床暖快適」
床暖房はとても気持ちがいいということ。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/10199bf7e3ffff50d0e2a02384a1cfa5

(め) 目の上のこぶ
「目の上の子世帯」
二世帯住宅では子世帯が上になることが多いということ。

(み) 身から出た錆
「見積りから出た額」
そういう要望をだしたから見積り上、こういう額になったのですよ、という意。

(し) 知らぬが仏
「知らぬが見とけ」
施主はたとえ建築のことを良く知らないとしても、現場はよく見ておけということ。

(ゑ) 縁は異なもの
「エコは流行りモノ」
いいことなんだけど流行モノのように扱われているということ。

(ひ) 貧乏暇なし
「ビー玉持ち出し」
施主検査の時、施主が床にビー玉を置く姿をいう。施工会社の気分を害するのですすめられない。どうしてもやりたかったら一人の時にどうぞ。

(も) 門前の小僧習わぬ経を読む
「問題の構造わからぬ会社をよす」
姉歯元建築士の偽造を見抜けなかった検査機関をさける動きのこと。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/eae11c5764b89bf3760b43b7a691dcaf

(せ) 背に腹はかえられぬ
「施工にミスはさせられぬ」
あたりまえなのだが、「基準すれすれ」(↓)ならなおさらである。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/e3d4593841b299c8044b0e31cef02b42

(す) 粋は身を食ふ
「図面は間をとる」
建築家からプランが出てくるのに時間が必要ということ。または、最初のプランが出てくるまでが待ち遠しく感じるということ。

(ん:京) 京の夢大坂の夢
「キッチンの夢おおげさな夢」
夢をふくらませて計画したら、やっぱり現実からかけ離れていたという意。


拙ブログに訪問してくださる皆様、今年もよろしくお願いいたします。 garaika