家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

フリスクフリークのためのフリスクケース――ちょっとした仕掛けあり

2007年06月30日 | レザークラフト

フリスク(FRISK)というタブレット菓子はご存知だろう。
どこのコンビニにも常備されており、社会的に定番商品になったといえる。
フリスクをケースごと入れるフリスクケース(?)も商品として目に付くようになった。

で、市販のケースに刺激されて、私もフリスクケースを作ってみたくなった。
例によって、既存品と同様のものを作っても面白くない、といろいろ考える。
発売中の製品を見れば、素材や柄はすでにかなりバリエーションがある。形も差がつけにくい。
オリジナリティのために着目したのは「機能」。
いろいろ考えた挙句、「コインホルダー」機能を融合することにした。
以前作ったコインホルダーが記憶に新しかったせいもあるが、
フリスクとコインホルダーのカップリングは悪くないとも思った。
特にフリスクフリークというかフリスク中毒者のためには――。
それは以下のような想定による。
「フリスクが日常化しているフリスクフリークほど、『フリスク切れ』は避けたいところ。であれば、ケースにコインが常備されていればイザというときそれでフリスクを調達できて心強い」
まあ、「財布は忘れてもフリスクは忘れない」くらいの筋金入りフリスクフリークが対象となろうか。

ということで、500円玉を1枚収納できるようにした(フリスクは1コ200円弱)。
ただ単に収納してもつまらないので、500円玉をパッと見、コンチョ的アクセントにしたらどうかと発想。
それでできあがった仕掛けがコレ↓。

    

500円玉より一まわり小さい円の穴を開けてあり、そこから500円玉の絵柄がのぞく。ふたを開けてここを指でずらすと500円玉が取り出せるという仕組み。
コンチョ的アクセントをかもしだすためには、収納するとき「500」という数字ではないほう、つまり「桐」の図柄が見えるようにするのがいいと思っている。

いまのところ、市販品でコインホルダー付フリスクケースは見かけていない。ネットでも「フリスクケース コインホルダー」でググッて見ても出てこない。
オリジナルを最初に出したと悦にいることができた。これが極私的商品開発の醍醐味である(笑)。
正面から見たらこんな風↓。

     

一見、何の変哲もない、というのもキモである(つもり)。

製品開発の過程では、フリスクフリークを念頭において、2連式、3連式フリスクケース、フリスクがずらりと並んだガンベルト式ケース、なんていうことまで構想してみた。
究極のフリスクフリークというかフリスク狂の注文を待つとするか・・・。


脳内は…

2007年06月28日 | その他

私の脳内はこんな感じらしい。

かつての「成分解析」よりはましな結果か。
なかなか、当たっているようでもあり、実態よりも美しすぎるようでもあり(笑)。

ネット上のいろいろな知り合いの名前でやってみると…


笑いを抑えきれず。
○○さんとか、△△さんとか・・・(あえて伏せます:笑)

自分の脳内が気になった人はココ↓へ。
「脳内メーカー」
http://maker.usoko.net/nounai/


わらしべ露天風呂

2007年06月26日 | 山小屋・ログハウス
 
6月26日は語呂合わせで「露天風呂の日」だそうである。

そこで我が山小屋の露天風呂を紹介する。
露天風呂というと、岩を配置した姿を想像するだろうが、我が家のは風呂桶(バスタブ)ごと地面に置いてある形式である。
大人4人くらい苦もなく入れる大きさがある。そんな風呂桶ならさぞかし値段も、と思われるかもしれないが、驚くほど安く手に入れている。

そもそもこんなに大きな風呂桶ってどこで売っているんだという話になる。
どこから手に入れたかというと地元の農家からである。
農家から手に入れたといっても、もともとは港にあったものである。
実は風呂桶ではなく、マグロの解凍用の桶だったものだ。使わなくなったその桶を農家が手に入れて、農作業用の貯水桶につかおうとしていたようだ。両親が車で移動中、農地にこれが2つ転がっているのを発見し、持ち主の農家に頼んで1つを譲ってもらった。
それを近所の塗装屋に出して表面処理してもらい、外側を発砲スチロールで包んで、山林で間伐したヒノキの樹皮を巻いて、さらにヒノキで作った木枠をのせて出来上がりである。桧皮葺の屋根状の蓋も作ってある。
土台につかったブロック、湯を引っ張るホースを含め総コストで約10万円にとどまる。

投資額から考えたらそのパフォーマンスはすこぶる高い。
これまでこの風呂で、蛍風呂、雪見風呂、星見風呂を楽しんだ。今年は両親が知人家族などを招待し蛍風呂を堪能してもらった。いいもてなしができたことだと思う。
今年はもみじが育ってきたので紅葉風呂を楽しむつもり。

モノが交換されていったわけではないが、粗大ゴミになりかかっていた出発点から考えると、価値の膨らみ方が、わらしべ長者のような風呂なのである。
一人で入ったときはまさに「長者気分」だ(笑)。



<補足>
このエントリを読めば、先日のエントリ「家が含む『無形資産』」でいいたいことがイメージしやすいかも。
この風呂の価値はバランスシートにあらわれない部分のほうがはるかに大きい。けっこうばかにならない「無形資産」が付随しているというわけである。

ぶらり途中下車の旅――東海道新幹線編

2007年06月24日 | 新幹線通勤
この土日、今年から新幹線通勤を始めた幼馴染と示し合わせて、新幹線定期を使った「ぶらり途中下車の旅」を決行した。

「東京」についた後、「品川」で降りて「原宿」に行き、大田記念美術館で浮世絵展を見た。ここで例の富嶽三十六景「遠江山中」の実物を見て感慨にふける。
そのあと骨董通りの「小原流会館」で西洋アンティーク雑貨のイベント「アメリカン プリミティブス」を見学。

その後、「品川」から「新横浜」へ行き、ラーメン博物館で昼食。
食後すぐに新幹線に乗って「小田原」へ。小田原城七福神めぐりをした。

小田原からは在来線の「東海道本線」を利用し、以前から気になっていた「根府川」駅で下車。予想通りのひなびた駅(なんと無人駅)だったが、ほんとうに何もなく、急な坂道を歩きまわって大汗をかいただけで終わる。
次は「熱海」で降り、汗もかいたことで温泉に入ろうと画策。出発時は泊まるかどうか決めていなかったのだが、結局、温泉宿に泊まることにした。
ここで温泉三昧して土曜日は終わる。

日曜日は朝風呂に入ったあと、チェックアウトし、「来宮神社」に行って大楠を見る。熱海市街を散策したあと、また東海道本線に乗って「沼津」まで行く。
ここで寿司を食いまくり、酒を飲みまくる。
二時半ごろ、さてそろそろ帰ろうとすし屋を出て、「沼津」から「三島」に行って、新幹線に乗車。

そこから二人して爆睡。連れが急に私をたたき起こすとそこは「名古屋」。
途中下車どころか、大きく乗り過ごし。
某氏と某氏の期待に無意識に応えようとしたものかも(笑)。

帰ったときは二人して家内に怒られましたとさ(笑)。

贅沢するとバチがあたるということである。


もう少し詳細にレポートしたかったところだが、アルコールがまだかなり入り込んでいるのでひとまずこれまで。


「中古」と「Existing」

2007年06月22日 | 家について思ったことなど
米国には「中古住宅販売」という統計がある。
これは「Existing Home Sales」と表記される。
Existとは和訳すれば「既存の」という意味で、「中古」とはちょっとニュアンスが違うと思う。
日本語の「中古」を英訳すれば「Used」になる。Used car(中古車)というように。

米国では「中古住宅」市場が発達しているが、「Used Home」という認識でないからかもしれない。
「中古」という言葉から受けるイメージはよろしくない。日本の中古住宅市場を発達させるためには「中古住宅」に代わる別の呼び名を考えるのが効果的のように思う。
ビンテージ住宅」とまではいかなくとも、もう少しマシなネーミングで表現できる家だって少なくないのではないだろうか。

試運転

2007年06月21日 | 新幹線通勤

 

            

 東京駅に着くと、隣のホームの新幹線に、めったに見られぬ(というか初めて見た)「試運転」の文字が出ていた。
 もしやと思い前に回ったら、やはり新型車両のN700系だった。



            

 かっこ良し。


家が含む無形資産

2007年06月21日 | 家について思ったことなど
弊ブログではこれまで何回か、資産形成の達人たちが「ローンを組んで住宅を手に入れることの愚」を啓蒙していることについて紹介した。
住宅ローンを組んで家を手に入れるということは、収入額に比べて大きな負債を抱える一方、利益を生む保証のないリスク資産を持つことである。このバランスシートのいびつさを考えれば賢い資産形成が難しいことは容易にわかる。その考え方に大筋で異論はない。
それなのに家を建ててしまっている身として、以前ひらきなおりのエントリを立てたりもした。
今回はそのほかにいくらかのなぐさめになるかもしれない視点をお披露目してみる。

まず、暮らし、家計、バランスシートを違う視点で眺めてみたい。
「無形資産(Intangible Assets)」という概念に注目してみる。
無形資産とは、バランスシートにあらわれない価値のこと。企業で言えば、ブランド価値、顧客価値、従業員の価値、知財の価値、などである。
それらは金額で表すのは困難だけれども確かに価値として存在するものだ。
これを「家」で考えてみたい。
「家は有形だから、無形資産ではないだろう」と思われるかもしれない。
家は有形の固定資産である。事実、固定資産税を納めている(笑)。ここでいいたいのは、家には無形資産も付随しているのではないか、ということだ。形のある企業の「ロゴ」にブランド価値という無形資産が付随しているのと似たような考え方である。
以前「プライスレスな家のスペック」というエントリで、照明を引き合いに出して、照明器具にはプライスがつけられるが、巧拙ある「照明器具の配置のし方」に巧拙によるプライスはつけにくい、というようなことを書いた。
バランスシートで考えると、固定資産として価値を算定するとき、照明器具の価格は表せるが、優れた照明配置の価値をバランスシートに表すのはまず無理だということになる。
そのエントリでは他に「外観」「内観」「眺望」「家事動線」「収納のしやすさ」などもプライスレスな価値を持つものとしてあげてみた。
これらは価値をバランスシートに表せない点で無形資産的にその価値を考えてもいいのではないだろうか。

個人住宅における無形資産的な価値は市場価値を算定できないため、やっぱり資産形成上、意味がないではないかということになるのだけれど、暮らしを豊かにするという目的での資産のようなものはバランスシートの外側にもあるんじゃないの、っていう話。
値段はつけられないとしても資産が付随して持っている価値を意識できれば、お金で表せる資産の増やし方が少々下手でも豊かな生活がおくれるということだ。

資産形成によってお金を増やす豊かさと質は違うが、資産に付随する(値段が付けられない)価値を上げることでも豊かになれる。
竣工時点の家が家としての頂点だと考えていると貯金を取り崩していくのと同じ感覚になる。だから、年を経ながら、素材の変化、味、趣、佇まい、風格、使い勝手等々、価値を積み重ねていると思えるようにすることがポイントだ(関連エントリ)。
「買ったらあとは消費するだけ」と考えるのではなく、「苗木を買って成木に育てる」というような気持ちで家を使えば資産が増えている気になれる。さらに、まっとうなモノを長年大事に使うことで骨董的価値が生まれる希望だってある。

青臭いと思われるかもしれないが、豊かさを実現するのは「お金」だけではないということである。資産形成の指南者にしてみれば、あまりにバランスシートを無視した家計が多いゆえに啓蒙しているのだろう。確かに市井の家庭のやりくりをみればその活動には大いに意味があると思うし、個人としてもその視点は重要だと思う。
しかし、逆にそればかりに目を奪われるとバランスシートに表せない豊かさの存在に気がつかなくなる恐れがある。それで「無形資産」を持ち出してみた。
「我が家のバランスシートは優れた状態とはいえないが、バランスシートの外にお宝がある」と思うと気が楽になる。
話の強引さは先刻承知。当然バランスシートはできるだけいびつでないほうが好ましい。だから「なぐさめになるかも」というレベルであることを冒頭で示した。

長々と書いたが、こんな↓言い方に集約できるかも。
「自分用の付加価値を創造(想像)できる『おめでたい』人間になることも豊かさにつながる」(笑)


築年数検索で思ったこと

2007年06月14日 | 家について思ったことなど
ネットには中古住宅物件をあつかうサイトがいろいろとある。
物件を検索するにあたっては、広さや間取り、築年数、駅からのアクセスなどいくつかの条件を指定する。
その中で「築年数」を見てみる。
選択肢は、「2年以内」「5年以内」「10年以内」といった具合。
そして「指定なし」とすれば築10年以上の物件も対象となる。これは、「建物の新しさにこだわらない」という意思表示になるだろうか。
そこで思ったのだが、「建物の古さにこだわりたい」場合はどうするのだ、ということ。
この検索で「指定なし」にすると新築から何から全て出てきてしまう。すなわち古い家は絞り込めない。
古い家のニーズのなさがそのような検索にさせていることは容易に想像できる。ものずきにはつきあえないということなのだろう。まあしょうがないことだ。

ただ、もし「30年以上」「50年以上」というような選択肢があったら非常に面白い。「以内」でなく「以上」とすることで古さを前向きにとらえた物件であることを主張する。どんなものなのか覗いてみたくなる。

そのカテゴリに入る物件は、メーカーやビルダー、設計者にとっても誇りになるのではないか。
長い年月を経ても頑丈で、陳腐化しておらず、風格も出ていると胸を張れる。
営業面からも、「この家は実はわが社が手がけました」なんて紹介して、新築を建てる依頼主に対して強力な販促ツールにできる。
そうなったらサイトを運営する不動産会社にしても、「貴社が手がけた古い物件が出たので設計・施工社名を載せますよ。つきましては広告料は・・・」なんてビジネス展開ができる(ちなみに「不動産取得税、固定資産税が安い物件」なんてセールスするのも面白いかも)。

住宅業界の健全な発展につながると思うのだけれど、誰かやらないかなあ。



関連エントリ 「いい古い家



箱物行政と現代の家

2007年06月11日 | 家について思ったことなど
箱物行政とは、行政サービスの充実を大義名分にしながら、身の丈にあわない施設を建設して地元の目先の景気浮揚(といいながら恩恵は一部の業界だけ)を図る目的でなされる。
たいがい建物を供給するだけで、「仏作って魂入れず」に終わり、行政サービスの向上にちゃんと貢献するものは少ない。
例えば福祉行政の成果は、「『○△福祉センター』を建設しました」というようなことだけにスポットが当たる。それがどのように利用され、それが無かったときと比べてどのように良くなったか、という点は重視されない。
そんな行政手法で出来上がった公共施設を見ながら、最近の住宅に重ね合わせて思ったこと。


健康住宅
省エネ住宅
エコ住宅

いずれも理念としてはすばらしく、心地よい響きを持つ。だけどよく考えてみると「○△福祉センター」も同じだ。理念としてはすばらしく、心地よい響き。

ハード(建物)だけに目を向けると、「そういうものができたから実現に向かっている」というような短絡的な考えにつながりかねない。
ソフト(暮らし方や運用)を抜きにしたら、箱だけの公共施設を作ったこととたいして変わらなくなる。

「健康住宅」でも、不摂生で不規則な生活をすれば健康は保てない
「省エネ住宅」といいながら真冬にTシャツ一枚で過ごせるまで暖房してしまう省エネでない生活
「エコ住宅」といいながら短命に終わらせて建て替える非エコ

いずれも現実にあるシーンである。
健康住宅、省エネ住宅、エコ住宅という選択はいいとしても、その後の運用次第では当初の目的は台無しになりかねない。基本的には個人の自由なので人の生活ぶりをとやかくいうものではない。しかしその選択だけで社会正義のように語られるのには抵抗がある。
「健康住宅」でないと健康に暮らせないかのような、「省エネ住宅」に住んでないと省エネに貢献できないかのような、そんな言説は乱暴だ。それならば、昔の家に住み続ける人は皆「不健康」で「非省エネ」だというのか。
以前紹介した松場登美さんは築200年の昔の家で、健康的で省エネ、エコに暮らしている
また、特に「健康」とも「省エネ」とも「エコ」ともうたっていない息子さんがセルフビルドした家で、とても健康で省エネでエコに暮らすターシャ・テューダーのような方もいる。
市井にも丁寧に暮らすことで、自然に「健康」「省エネ」「エコ」を実践している人々はいる。

「健康」「省エネ」「エコ」はハードだけで実現するようなものではないのだ。

自分の家を建てるとき「健康」「省エネ」「エコ」を考えなかったわけではない。いやむしろ積極的に考えたほうだと思う。だけどそれだけで「健康住宅」なんてはずかしくていえない。
自分自身の生活を見つめたとき、自分などよりもっと健康的で規則正しい生活をしている人がすぐに思い浮かぶし、事実そういう人のほうが健康だったりする。それは「家」によってもたらされた部分より、「生活・暮らし方」によってもたらされた面の方が大きい。

「健康住宅」を建てたから健康に暮らせる、というような考え方は、「福祉センター」を建てたから福祉が充実した、と主張する箱物行政と似ている。
いい建物ができていくぶんやりやすくなったのは事実としても、それだけで実現が保証されるものではない。まして建物の効能に頼らずに実践している人の住宅を貶めるような言い様をしてはならない、そんなふうに思う。

施主が読んでみたい施主の「声」

2007年06月07日 | 家について思ったことなど
施主・施主予備軍の要望としては、新築したばかりの施主の「声」より、例えば築10年たった施主(住まい手)の「声」が読みたい。
新築時はそもそも不満が出にくいものだ。夢がかなったばかりだし、家もきれいだし、新しい設備が入っているし…。

10年後の感想であるなら、状況が違う。
施主は高揚感がおさまって冷静である。たんたんと良し悪しを語ってくれそうだ。
しかも評価に実績が伴う。
例えば、
耐震や免震について、実際に地震があったときどうだったか、というようなこと。
省エネ性能について、10年後も新築時の水準を維持できているのかいないのかというようなこと。そしてその時点での新築の家と比べてどうか、というようなこと。
使用した建材・素材について、経年変化の有無とその良し悪し、メンテナンスの頻度と費用というようなこと。
間取りや収納について、家族の行動にあっているか、とか家族構成の変化に対応できているか、というようなこと。
家に対する愛着がどのようになっているかというようなこと。

新築時の「声」より、よほど役に立ちそうに思うのだがどうだろう。
きっと施主はいいことだけでなく悪いことも語る。悪いことの方は設計・施工サイドとして自分のサイトには載せにくいかもしれない。しかしこの場合、いいことだけ載せるのでもそれなりに役に立つので文句は言わない。10年経った家を紹介できる自信があるということ、そして10年経っても依頼先のためにコメントしてくれる施主がいるということ自体が評価できることだからだ。



施主の満足度をどう読むか

2007年06月05日 | 家について思ったことなど
住宅関連業者のHPにはよく、施主の「声」が紹介されている。
その中に「100%満足しています」というような発言を見かける。中には「120%満足」なんていうのもある。
表現は自由であるべきで、そのことを批判するつもりはない。
ここでは読み手として「こういう表現をどう読むか」ということを考えてみたい。

「100%」とか「120%」とかいう表現は、自分の願望や事前に想像していたものと、出来上がったものの比較から発せられる。
100%というのは、自分が望んでいた水準をクリアしていてどこにも文句がない、ということになるだろう。120%というのは想像していたものよりかなり良いということになるだろうか。
となると、発言者がそもそもどのくらいのものを家に望んでいたのか、ということや、住宅に対してどのくらいの想像力を持って家づくりに臨んだのだろう、ということを読者としては意識すべきではないだろうか。
家づくりを自ら熟考した施主の言う「100%満足」と、業者にすべて任せて家づくりした施主の言う「100%満足」っていうのはきっと違うものになるだろうからだ。
また、家に対する想いが大きい施主の言う「100%満足」と、家に対する想いがさほど大きくない(つまりあまりこだわりがない)施主の言う「100%満足」っていうのもきっと違うものになるだろう。
それぞれが満足しているのだから、発言者にとっては喜ぶべきことである。ただ、これから家を作ろうと考える施主がこうした情報を利用するとき、発言者の家づくりに臨む姿勢と家に対する期待が自分のスタンスに近いかどうかを吟味することは重要だろう(※)。


(※)そしてバイアスにも注意すべきだ。

ローテクなのか――前挽き鋸を見て思う

2007年06月04日 | 家について思ったことなど
 
写真の鋸は父がある大工さんからもらったものである。
大工さんがくれたといっても実は大工さんが使う鋸ではない。
木挽き職人が使っていた鋸、すなわち板や角材を挽くための鋸である。
父は用途だけを聞いて名前を聞いていなかったらしい。
調べてみたら「前挽き鋸」という名前であることが分かった。

前挽き鋸の幅が広いのは大きな面をまっすぐ挽くためだ。細かな曲線を挽く糸鋸が対極の存在だろうか。
いくら幅が広いといってもこの鋸で均一な厚さの板を挽くというのはすごい技術だと思う。
どうやって使っていたのだろうと調べたら、作業風景は葛飾北斎の富嶽三十六景にあった。

「遠江山中」(東京国立博物館)↓
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=F08&processId=00&col_id=8778&Title=&Artist=%96%6B%8D%D6&Site=&Period=&FromNo=&ToNo=

職人が、自分の何倍もある大きな材に乗って前挽き鋸で板を挽いている図(※)。
自分だったらとても均一できれいな面の板にする自信はない。

こういうのを「ローテク」などと言っていいのだろうか。決して低い技術などではないはずだ。

「ハイ(high)」とか「ロー(low)」で表す「テクノロジー」とは、「業(わざ)」とは違うものを指して言っていると考えたほうがいいと思った。



※:今回、あらためて葛飾北斎のすごさを実感した。この題材、この構図。発想がすばらしい。

東屋計画進行中

2007年06月03日 | 山小屋・ログハウス
 
父の普請道楽につきあって山小屋で作業した。
かねて計画していた東屋の建築が徐々に進行しているのである。
この日は間伐された杉、檜を運搬する作業だったが、建築現場をみると礎石が加工されていたので写真に収める。
平らな面のある石に鏨で穴を開け丸い石をはめ込んでコンクリで固めてある。
以前、物置でやったのと同じ立柱方式である。
ここに中央部分を凹ませた柱を立てる。柱材はもらってあった地松をつかう。
さてさてどんなものができあがるのやら。