monologue
夜明けに向けて
 



 「宇士多加禮許呂呂岐弖」をもう一度読み直すとこれはウジではなく「ウシ」である。
カゴメ唄にも「ウシロの正面」という一節があったがここにも宇士呂ということばがちりばめてある。
「ウシ」は牛とも書ける。二見浦の地図を参照するとニギハヤヒがヒントとしておいておいた答志島の上にも牛島があった。なにかありそうだ。
この「牛」という字は千にも手にも似ているような気がする。そして「許呂呂岐弖」の「許」という文字も言偏に午でどれも回転すると似てくる。わざと似た字を使っているのである。「岐」は山に十字に又、そして最後の弖はフタか戸の上に弓(きゅう)が乗っている。これらの文字を使って黄金太陽の内部構造を巧みに表現してあるのである。
 ピラミッドを上下逆に重ねた正八面体をなぜ黄金太陽と呼ぶかといえば、ピラミッドを「金字塔」と呼ぶようにピラミッドは「金」の形で「黄」は中央の重なった四角い底辺部分。
黄泉(四三)の「黄」はこの世との接岸部分で数字では四、この世は逆になって泉黄(三四)で御代ということになる。黄金太陽全体では泉黄泉(三四三)という構造で現世が七で接岸部の交点は四で彼岸も七、このように全体で十になるのが正しいバランスのとれた宇宙。
ところが現在は泉死後(三四五)という構造になっていてバランスがとれていない。
それはともに治めるべき月讀を無視して封じてしまったから。
現世は泉の白の世界で足すと七であるべきなのだが彼岸との接岸部の交点は四で同じだが此岸の数が九で苦界になってしまっているのである。
イザナギの櫛は数でいえばその九と交点の四。それがコードであったのでかれはそのコードで黄泉に入れた。
わたしの本籍は京都市下京区櫛笥(くしげ)通なのだが大物主(ニギハヤヒ)が櫛笥(くしのはこのこと)に蛇の姿で入ったという説話はかれがこの彼岸(苦界)の主であることを指している。
「弖」の字で示された戸の上に弓(きゅう)が乗っているのはかれの姿のようである。
かれは岩戸を開き正しい泉黄泉(三四三)の宇宙にもどしたいのだが様々なところに封印があってこれまではかれら一族だけではそれがなかなかできかったのだ。それで今回は人類も自立してこちらからも岩戸をともに開かねばならないのである。「答志島」という名前は彼岸と此岸の「志を合わせる」という意味をこめている。「ウシロの正面」にはかれらが首を長くして待っている。今か今かと。
fumio

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