てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

〈ともだち〉とは誰か?レジュメ

2011年06月24日 17時43分11秒 | 開催予定
いよいよ明日は「第2回てつがくカフェ@ふくしま」開催です。
明日は、テーマを選ぶに際して世話人たちが話し合ってみたことを、
以下の通りまとめてレジュメにして配布する予定です。
もちろん、これにとらわれない自由な論点を提起していただくことが大切ですが、
参考までに「〈ともだち〉とは誰か?」事前にお考えいただく材料にしていただければ幸いです。


〈ともだち〉とは誰か?

「♪1年生になったら 1年生になったら ともだち100人できるかな♪」
こんな歌のフレーズにあるように、僕たちは「友だち」は大切なものであり、
できればその存在をたくさん得れば人生は豊かになるとの価値観を抱いています。
けれど、その一方で「友だち地獄」(土井隆義)という言葉が示すように、
時として僕らはその関係性に苦しめられる現実もあるようです。
果たして、「友だち」とは「よい」ものなのでしょうか?

また、私たちは「単なる友だち」と「親友」とをどこかで区別しているようにも思いますが、
それは数ある「友だち」のあいだに差があるということでしょうか?
他にも「同士」や「仲間」、「戦友」、「相棒」といった存在もありますが、
いったい、それらのあいだにはどのような違いがあるのでしょうか?

「理想の友情」なんて考えてしまうことも、そのことと関係があるのかもしれません。
太宰治の『走れメロス』は「友情」をテーマにした代表的な文学作品ですが、
他にも夏目漱石の『こころ』や武者小路実篤の『友情』、
井上雄彦の『スラムダンク』などスポ根マンガはもちろん、
哲学者であるキケロやモンテーニュが著した「友情とは何か」も同様のテーマを扱っています。
けれど、理想の友情をテーマにする作品は、なぜいつも「男の友情物語」ばかりなのでしょう?
(私が知らないだけなのでしょうか?)
逆に「女の友情」をテーマにすると雨宮処凛の『ともだち刑』などのように、
残酷な人間関係が描かれがちなように思われます。
「女同士の人間関係は面倒くさい」とは、よく話題にされることです。

しかしその反面、社会において男性が職場以外の人間関係を築くのが苦手とされるのに対し、
女性はわりとどこでも誰とでもうまく人間関係を構築していける能力があるとも言われます。
いったいこの差は何なのでしょうか?
ひょっとすると、ここには男女のあいだで相当異なる友情観が影響しているのかもしれません。
もし、そうだとすれば、いったい「友情」とはなんなのでしょうか?
いや、そもそも私たちはいつから相手を「友」と呼ぶようになるのでしょうか?
言いかえれば、何をもってその人を「友」と呼べるものなのでしょうか?
いったい、〈ともだち〉とは誰のことなのでしょうか?

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