てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第38回てつがくカフェ@ふくしま報告―「図書館とは何か?」

2016年08月21日 16時27分00秒 | 定例てつがくカフェ記録






県立図書館を会場として、「図書館とは何か?」を問う哲学カフェが終了しました。
参加者数は36名。
中には、青春18きっぷで愛知県より来られた方がいらっしゃるなど、図書館に対する市民の関心度の高さがうかがえました。
何より、図書館司書の方々にも多数ご参加いただき、専門/非専門の垣根を超えた対話が実現したことは、これからの哲学カフェの新しい可能性を感じたものです。

さて、対話は図書館の魅力について語られるところから始められました。
ある司書の方は図書館の魅力を「自由」と「継続性」というキーワードで示されました。
そこでの「自由」とは「多様な資料を選択できること」と「誰が来てもいい場」という意味であり、「継続性」とは収集・蓄積された資料を未来に引き継ぐという図書館の使命において用いられます。
この「自由」について別の参加者からは、「無料」で閲覧できる点や「資料の収集力」、「言論・思想・信条・表現の自由」という点が加えられました。

これに対して、果たして図書館の「資料収集の自由」はどこまで認められるのか、あるいは本当に図書館は自由なのだろうかという問いが挙げられました。
とりわけ著作権と予算という縛りの中で選書しなければならない不自由を司書の方から挙げられます。
これについて、ある高校教員からは県立高校の図書予算比が年間20万円しかない窮状が訴えられ、その中で何を読ませるべきかは悩ましい問題であることが語られました。
しかし、ここには教育上の配慮から選書することはパターなリズムであり、「自由」とは相反するものではないかという疑問も投げかけられました。
そして、そこには「選書」する権利は果たして誰にあるのかという重い問いも含んでいます。

犯罪被害者遺族が出版差し止めを求めたにもかかわらず発売された『絶歌』を公立図書館は購入すべきか
あるいは、『はだしのゲン』の閲覧利用を制限することは認められるべきか
そこには図書館側の「資料収集の自由」が、公権力として市民が知る権利を阻害する可能性があります。
これに対しては「情報の価値判断は利用者側にある」という意見が出されます。
つまり、価値判断は利用者=市民の側にあり、図書館は国立国会図書館のように価値判断を排して資料収集に努めるべきであるというわけです。

しかし、これに対して司書の方から「図書館の種類」によって役割の「すみわけ」があることが示されます。
すなわち、県立図書館には郷土資料や専門書をメインに、市立図書館委はわりと「売れ専」の書籍をメインに収集する役割があり、学校図書館には読書になじませる教育的役割が備わる以上、それぞれにおいて選書の基準が異なるのはありうることだというわけです。

ここで「図書館の役割とは何か?」という論点がクローズアップされます。
そして、今回の議論のもっともホットな話題となりました。



まず、図書館とはそもそも「社会教育施設」として「知る権利」を実現する場であるはずなのに、昨今のツタヤ図書館問題は、市場原理を導入させたがゆえに、この社会教育という公共性を喪失させていったと言う意見が挙げられました。
そもそもベストセラー本のように、売れる本は市場に任せればいいだけの話なのに、そこにわざわざ税金を使う意味はないのではないか、というわけです。
そこでの評価尺度は図書館の集客数でしかなく、そのことが結果的に人や本におカネをかけずに消費文化だけを推し進めるため、残すべき文化遺産が継承され得なくなると言います。

しかし、これに対して「なぜ図書館がレジャーランド化することがいけないのか?」という問いが投げかけられます。
なぜ、図書館が「楽しさ」を追求することがいけないのか。
売れる本=市民が選ぶ本であるとすれば、売れる本を図書館が選書することは正しい税の使い方ではないか。
そもそも選書に「教育的」という要素を入れる点が押しつけがましいのだという意見が挙げられました。

この議論では、まさに図書館が「自由」と「パターなリズム」のはざまで揺れ動いている様が示されています。
学校司書の方の中には、教育的に読ませたいという選書が、生徒の好みと一致しない葛藤の中で、常に揺らぎながら選書のスキルが問われていると言います。
この対立について、「両方あってもいい」と言いう意見が挙げられました。
図書館には質の高い文化を蓄積する役目がある一方で、学校図書館では「ラノベ」のようなレジャー性をきっかけに生徒の本に対する関心を拡げる段階的な教育的方法もあるだろうとのことです。

すると、そもそも図書館が収集保存すべき本とは何かという問いが生まれます。
なるほど、ベストセラーのように売れる本を図書館が購入することは否定されるべきではないでしょう。
しかし、他方でその耐用年数を考えた場合、果たして図書館で購入すべきかどうかは疑問に思うというところがあるという意見もあります。
むしろ、売れる本ばかりが出版されることになれば、学術図書のように本は出版されなくなるという出版文化の危機を招くとの指摘もありました。
その点でリアルタイムではなく、知の遺産の未来への継承という役割が図書館にはあることになります。

また、「図書館の歴史」について少し専門職の方から説明が欲しいという要望も挙げられました。
日本では明治初頭(1872年)に新聞縦覧所として制度化されたときには、新聞を共同購入して読み聞かせなどをする組織として生まれたと言います。
その時代には図書資料は保管され容易に貸し出しは為されなかったところ、1970年代に貸出・閲覧が図書館の機能として始められたと言います。
閲覧・貸し出しが割と最近のことであるというのは驚きでした。
また、学校図書館でも司書が配置されるのは近年のことであるということ、福島市では1976年に市立図書館設置運動が為されたことで市立図書館が設立された経緯についても話題に挙げられました。



こうした時代の流れにおいて、近年では電子書籍化が進んでいる中で、果たして「図書」という概念そのものが変容しているのではないかという疑問も生じます。
なるほど、「情報」という点では青空文庫のように、ネット上ではアクセスする機会が拡大しています。
しかし、デジタル情報に対する違和感は少なからぬ違和感が挙げられました。
そもそも本に書き込みをしたり線を引いたりする研究職のような立場からすると、本は所有の対象であり借りるものではないと言います。
何度も何度も同じ本を読み返しても新たな発見があるというのは、単なる情報収集の対象として本を扱うのとは異なる向き合い方です。
これについては、「出会い直し」の経験を可能にするほんの「モノ」としての価値があるという意見が挙げられます。
高校生を相手にしている方からは、スマホ文化の浸透がウィキペディアを調べれば「わかった気になる」意識を蔓延させていると言います。
これに対して本の「出会い直し」の経験を何度も繰り返すことは、他者と出会う経験でもあり、その人の選書力を鍛えぬく意義があることも示されました。
その意味で言うと、単なる資料提供から学ぶための場としての図書館、自己教育の場としての図書館という姿が浮き彫りになります。
そのことが民主主義の基礎となる、個人の自分で考え判断する素養を育むというわけです。

最後に、「居場所」としての図書館についても議論になりました。
家庭に書籍がない子供と読書をしない傾向の関係性にふれながら、そのような子どもたちを以下に図書館に足を運ばせ、読書にふれさせられるかが図書館の課題として挙げられます。
「ホスピタリティ」というキーワードが図書館の存在にどのように関わるか。
もちろん、レジャー性がなければ図書館への来館も促せないでしょう。
しかし、ツタヤ図書館がいかに話題性を呼んでも、それが全国に広がれば、結局はレンタルショップとしてのツタヤ同様、どこでも同じサービスを受けられる画一的なコンビニ化にしかならないのではないでしょうか。
それに対して、むしろ地元の特産品を売りにするような地域的な資料収集などの特性を前面に押し出した図書館こそが、最終的には個性を売りにして人を集める場になるのではないか、という意見が出されました。

今回は図書の専門家である司書の方々と、一般市民がそれこそ対等に話し合いながら、お互いがそれぞれ見えない点を共有できた貴重な機会となりました。
図書館の発信力も取りざたされましたが、むしろ図書館側の一方的な情報発信ばかりに依存するのではなく、市民同士がこうした対話を通じて図書館をエンパワーメントする機会を増やしていくことが肝要なのではないかと考えさせられました。
こうした機会をまだまだこれからも創り出していきたいものです。

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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感想 (参加者A)
2016-08-21 00:34:46
図書館に努める立場から考えることはあったが、今回一般の方の意見も聞くことができ、考え方の幅が広がったように思いました。
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感想 (参加者B)
2016-08-21 00:35:56
楽しい時間でした。
もっとじっくり帰りつつ考えてみたいと思います。
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感想 (参加者C)
2016-08-21 00:37:10
今回、初参加です。
今まで休みが合わず、参加できませんでした。
初めてで発言できませんでしたが、次の参加からは発言していきたいと思います。
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感想 (参加者D)
2016-08-21 00:38:00
もっと固い話し合いの場なのかなと思っていましたが、多様なお話を聞くことができてとても良かったです。
2時間、すごく短く感じました。
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感想 (参加者E)
2016-08-21 00:38:35
ベストセラーの扱いについての話が面白かった。
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感想 (参加者F)
2016-08-21 00:40:54
現役の司書さんが選書について葛藤されているということを聞き、ある意味ホッとしました。
ぜひその葛藤を継続していただきつつ、利用者と対話を続けながら(葛藤の過程を公表すると、より良い対話が生まれると思う)、よりよい図書館を気づいてほしいと思いました。
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感想 (参加者G)
2016-08-21 00:45:04
参加者の方々が、特に自らの所属や属性を明かすことなく、自由に発言を重ねていくことのできる場が新鮮でした。
今回が初めての参加だったので、震災に関連するテーマを、5年以上経った今、ぜひ取り上げてほしいです。
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感想 (参加者H)
2016-08-21 09:50:33

<哲学カフェを探しに>
てつがくカフェ@ふくしまをご紹介します。
【名称】てつがくカフェ@ふくしま
【日時】8月20日(土)15:00~17:00
【場所】福島県立図書館・第2研修室(3階)
【テーマ】「図書館とは何か?」
【参加費】なし
【事前申し込み】不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp
【ファシリテーター】
小野原雅夫さん
【ファシリテーション・グラフィック】
渡部淳さん
【参加者】36名
【哲学カフェの流れ】
「てつがくカフェ@ふくしま」は、哲学カフェの後にブログに詳しい報告を掲載されています。記録報告の良い見本です。屋上屋を架す、愚を回避したいので、本日の哲学カフェの内容にご関心のある方はぜひブログをご覧ください。もう既にアップされています。仕事が早い。
@ふくしまの特徴の一つは、ファシリテーターは進行に専心しながら、出てきた発言をホワイトボードに整理しながら書く「ファシリテーション・グラフィック」を別に設けていることです。@せんだいもされていますが、話す-聴くという自然な対話を重視する哲学カフェのグループは採用されません。ホワイトボードがないのも理由ですが。いわゆるミーティングを促進する会議ファシリテーションの世界では、議論の空中戦を避けるため、論点を可視化させ、同じ主張ばかりする方の発言を抑制させるため、ファシリテーション・グラフィックは独自のスキルとして欠かせません。ファシリテーターとグラフィカーを兼任するか専人にするかかについて、@ふくしまが専人化した長所はブログに論点を整理しながら流れも解る報告を掲載されていることに成功しています。@ふくしまの特徴の一つですし、後述するルールの⑤につながります。
⑴挨拶
⑵テーマ、趣旨説明
昨今、「図書館」を巡って変化が見られる。例えば、いわゆる「TSUTAYA図書館」にみられる公設民営化や指定管理者制度などの民営化。また、「図書館のせいで本が売れない」といった出版社や作家からの批判から新刊書の貸し出しの制限を求める意見。さらには、子どもの安全な居場所としての図書館などの役割期待。
図書館を問うということは、同時に私たちの民主主義のレベルを測り直すことに他ならない。一般市民も専門職もこぞって集まって「図書館」について語り考えあい、財政難の克服を図書費や教育費の削減から始めるこの社会のあり方を問い直すと同時に、地域の図書館と図書館運営に携わる方々を勇気づける機会にしたい。
⑶哲学カフェのルール
①お互いに対等の立場で話しあってください②聴くときは最後まで聴き、話すときはわかりやすくまとめてください③独白の応酬ではなく対話となるように努力しましょう④ファシリテーターは皆さんの哲学対話が活性化するようにお手伝いします⑤解散後もずっと考え続けていきましょう。
⑷概要 以下のようなことが話題になりました。
<1>図書館とは何か?
①利用する側からは「自由」(誰が来てもいい、居ていい、何をするかを選べる居場所としての図書館)
②サービスを提供する側からは「継続」(積み重ね、後世への引き継ぎ、公共性、収集と保存)
③フリー無料で利用できる。
④資料集めで世界中から入手してくれる。
⑤オスマン=サンコンさんがアフリカでの長老を図書館に喩えて
⑥本来社会教育施設だが、カルチャースクール、レジャーランド化している。
→レジャーランドになってどこが悪いのか?
→売れているベストセラー本が増え学術書などが購入されない。税金投入の意味がない。
→ニーズがある本を買うならば税金投入の意味があるのでは?
→出版文化とも関係している。学術書の購入が下支えになっている
→レジャーランドで終わらせない
⑦読書センター、情報センター
⑧国会図書館、県立、市立、学校図書館の棲み分けや協力
⑨福島市で図書館運動を40年間してきた。家庭文庫、地域文庫を作って活動し、公立図書館建設を求めてきた。その成果で公立図書館も出来て、司書職を採用する東北地方でも少ないことが実現できていることは良いところ。
⑩芸術、スポーツ、文化は公的に支援し、裾野が広くないと質の高いものは生まれない。情報を独占させず、誰もが学び自分の頭で考えられる人が増えないと民主主義は育たない。
<2>自由について
①本当に自由か(「絶歌」「ハダシのゲン」)
♥>選書について
①司書として難しさを感じる。
②少ない予算で何を買うべきか
③県立高校は図書購入費は年間20万円
→ライトノベルを生徒は希望するが、その次のものを読ませたい。
→教育とかお仕着せでは。
→読ませたい、とは。
→学校図書館司書として悩ましい
④理想論だが、言論の自由、思想・良心の自由、表現の自由があるから図書は判断しない方がいい
<4>デジタル化
①電子書籍は図書館の在り方を変えるか
②図書館から本を借りない。買って所有したい。線を引ける。返却期限なく、何度でも繰り返し読める。
③モノとしての本の手触りで紙質から歴史を感じることが楽しみでもある
④インターネットで本の検索をするゆり、書店や図書館で探す方が、意外な関連した本を発見出来る一覧性や綜覧性がある。
⑤スマホ文化は情報を断片的に集め後に知識として残らないです
<5>これからの図書館
①各個人が持っている図書を登録してつなぐマイクロ図書館
<6>その他
図書館の歴史について短く教えて欲しいという意見があり、図書館司書の方がミニレクチャーをされました。
<感想>
「今まで訪問した哲学カフェの中で一番良かったかったのは「どこ」ですか?」とよく質問されます。私は「てつがくカフェ@ふくしまとクルミドコーヒーさんのクルミドの朝もやです」と答えるようにしています。
「何処が良いのですか?」と聞かれますと、「雰囲気がいいのです。参加している人が仲が良くて、人間関係が良いからです」と答えます。哲学カフェは主宰者のファシリテーションスキルが良いとか、哲学対話として深いかとが私の評価基準ではあるません。哲学対話において大切なのは「安心感」です。真剣に聴き応答する参加者の参加する姿勢が安心感と自己開示や他者を受け入れる対話を生み出すわけですが、最大のファシリテーターは参加者です。「どこ」とは主宰者と参加者の総体です。
@ふくしまの何処が良いかと質問されたら、「最初に訪問した時に、「原発の被災の後、今まであまり考えてこなかった。これからは考えなくてはいけないと思うようになった」と言われた方がいて、その他の方々が参加者する姿勢を見て影響を受けました」と答えています。いわゆる「探求の共同体」が生まれているなと感じたからです。主役はファシリテーターでなく参加者というのがよく解ります。私も参加する時は平気で馬鹿な発言よくして笑われますが、良い笑いも良い哲学カフェの指標です。

世話人の小野原さんも、渡部さんもテーマ決めたり場所を探したり広報したり本当は大変なのだろうなあと思いながら、私は自分に根拠がないけれど自分も頑張って哲学カフェやってみようかなと思いました。真似は出来ないけどね。また前回おうかがいした時は、渡辺さんが福島に来る人へのキツイ一言を吐露されて、自戒するところあります。そんな熱いところも好きです。
@ふくしま(世話人と参加者の皆さま)の皆さま、ありがとうございました。
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図書館とは何か (藤田理穂)
2016-09-02 21:40:30
 図書館員にとっては「図書館とは何か」は常に自問自答していること。しかし図書館を使う人と使わない人の意識の差は大きい。
 図書館員にとっての悩みは、その意識格差をどうやって埋めていくかなのだろう。本当に図書館を必要とする人が図書館を使わない。それは図書館の敷居が高いと感じるから。敷居を低くするためには、学校図書館がもっともっと活用されて、学校を卒業した人たちが公共図書館を使えるようにすること。
 本を買うか借りるか、という議論に関しては、買える人はどんどん買ったらいいと思うし、買うゆとりのない人は図書館を利用すればよい。本を買えない状況の人が自由に学べるために、図書館はどうしても必要なものです。
 
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