第25回てつがくカフェ@ふくしまは、agatoで開催されました。
agatoと言えば、閉店のため哲カフェの会場としては5月が最後であることを告げてましたが、その後8月まで営業を延期されたとのことで、幸いにも今回も会場として使用させていただけました。
とはいえ、これが本当にLast agatoです。
今回は、オーナーの吉成さんのご提案で「愛とは何か?―愛は地球を救えるか?-」というテーマでの開催となりました。
しかも、今回のファシリテーターは「すぎっち」こと、世話人・杉岡伸也の初登板です。
いつもはカフェマスターとして珈琲を淹れることに専念してもらっている「すぎっち」に、開始12分前、世話人同士の間での無茶振りから、彼の登板が決まりました。
はじめは緊張の面持ちでファシる「すぎっち」を温かいまなざしで見守っていた20名の参加者たちも、議論が熱くなるにつれ、次第に彼におかまいなしで議論を深めていきました。
「愛の対象は人類から家族、友人、ペット、モノなど対象が様々に広がり、難しいところがあります。が、愛の反対語は何かと考えたとき「憎しみ」が挙げられると思います。その点で愛と憎しみは表裏一体ではないでしょうか。しかし、憎しみが対象を破壊しようとするのに対し、愛は生きるための手段であるように思います。愛なくしては生きられないのです。」
「愛とは熱であり、光であり、エネルギーそのものです。そして、子育てのように相手のことを思うことにエネルギーを注ぐという点では、愛とは犠牲の上に成り立つものだと思います。そのためには我慢が必要で、相手を生かすためには自分を犠牲にしなければできないのです。」
「私は「愛は時間である」と述べたことがありますが、まさにそれは相手のためにどれだけ自分の時間を割いたかが愛の証であるという意味です。子育てはその意味でいうとまさに自分の時間を相手に割く愛の営みと言えるでしょう。ですが、先ほど愛の反対語は憎しみという意見がありましたが、実は愛と憎しみは表裏一体ではないかとも思うのです。というのも、実は憎んでいる相手のことって、意外とずっと考え込んだりしてしまうものですから。その意味でいうと憎しみも時間なのかな、と。」
「自閉症スペクトラムを例にとってみると、その症状にある人はしばしば「世界の色を失う」と言います。つまり、世界にリアリティがもてないというわけです。それに対しスウェーデンの精神医療の専門家たちが、その患者の傍にいながら常にその患者の発話に応答することで世界のリアリティを回復させるという事例を聞いたことがあります。その点でいうと、愛が成立する条件として、まず世界が明日も明後日も今と変わらぬように続くということと関係するのではないでしょうか。自閉症スペクトラムの渦中にある人は、その瞬間その瞬間の対象が異なると言います。つまり、自分自身の中でも過去―現在―未来の非連続性があるのですね。すると、世界そのものが非連続であるどころか、話している相手さえも非連続で非同一的な存在なのです。そのような他者を愛することどころか、愛されるということさえ不可能なことでしょう。つまり、愛とは時間であるということは、この世界の同一性という意味とも関係するのではないでしょうか。」
「私はチェ・ゲバラが好きなのですが、彼がインタビューで「革命家にとって大事なものは何か?」という質問に対し、「それは愛である」と述べています。自分の安定した生を擲って苦しんでいる他者のために闘う姿は愛そのものではないでしょうか。たしかに、多くの敵を殺害したけれども、戦うことも愛の形の一つです。」
「さきほどから愛は他者のために自己犠牲を伴うとか、愛の成立条件が世界のリアリティの回復だという意見が述べられていますが、私はむしろ愛は無世界的だし、他者を喪失することを本質としているように思われます。道端で抱きしめあっている恋人同士は、まさに自分たちだけの世界に浸っており、それ以外に世界はないでしょう。自己犠牲もしかり。子どものためにと思っている親の教育が、むしろ子供にとっては迷惑だったり、まさにその子の良さを殺してしまうということは珍しくないのではないでしょうか。」
「いや、それは愛ではなく単に欲望にすぎません。つまり、それは相手のためと言いながらも、実は自分自身の欲望を満たそうとしているだけです。本当の自己犠牲というものは、そのような自分の欲望を満たすようなものではないし、それは愛に値しません。愛と憎しみがワンセットになっているという意見がありましたが、愛を善で救い出す必要があります。」
「愛はそれ自体で成り立つのか、それともだれかとの関係によって成り立つものなのか。自分だけが愛しても相手に受け入れられていなければ成り立たないものなのか。それとも、相手の思いに関係なく成り立つものなのでしょうか。」
「恋人同士が自分たちの世界に浸っている無世界性を指摘する意見がありましたが、それは自己愛に近いですね。それは恋情に近い愛ですが、それだけが愛ではないでしょう。もっと幅の広い愛もあるはずです。」
「愛は相手を幸せにする行動であり、相手を理想の姿にさせることであって、相手が望むままにしておくとか、相手を慈しみ、認め続け、敬意をもつことだと思います。」
「いや、愛はもっとドロドロしたものではないでしょうか。自分の恋愛経験がそうだからなのかもしれませんが、初めは単にこっちを振り向かせたいなと思っていた相手も関係が深くなるにつれて、自分のものにしたいという感情と交じり合ってしまうものだと思うのです。」
「愛はエネルギーだと言いましたが、そのエネルギーが善として燃えるのか、悪として燃えるのかが重要です。愛は善として燃えるものですから、そうすると愛と理性は一体化しているのではないでしょうか。」
「「善だから愛であり、悪であるから愛ではない」ということではないでしょう。愛が自己犠牲を伴ったり相手のことを思うことを本質とすることには同意します。しかし、そのことがその相手を殺してしまったり、別の他者の犠牲を肯定することがありうるのは、善や正義と愛がごちゃ混ぜにされているからではないでしょうか。私が愛は無世界的であるというのは、自分が大切だと思える相手に対しては利他的でありうる行為も、その相手にとって敵となる他者は排除することを容易に認めてしまえるからです。その意味で愛は排他的であるという意味での無世界性を本質としていて、それが善とか正義と誤って結びつくと容易にテロを肯定してしまう原理になりうると思うわけです。」
「いや、人を殺すのは愛のエネルギーではありません。愛は善であるはずです。だから、みんなが国を愛すれば、決して戦争が起こるはずがありません。」
「では、問いを変えましょう。冒頭で、愛の対象が人類からペットまで様々にあるとの発言がありましたが、果たして愛の対象は無限なのでしょうか?身近なところで恋人や家族、友人への愛がありうるというのはわかるのですが、その愛し方を国家や人類といった対象にまで広げることには個人的に違和感があります。皆さんいかがでしょうか?」
「愛の対象が有限であるということになると、愛は地球を救えないということになりませんか?」
「私はまさにその意味において愛は地球を救えないと思っています。」
「私は愛の対象は無限であると言えます。自分の家族の中に変わった性癖をもつ者がいたとしても、私はその存在を認めることができますし、どんな相手でも違う生き方をする人を認めることはできると思います。私はそれをスピリチュアルの思想から得たとき、自分自身の生き方が変わりました。すると、自分の中で、たとえ殺人者でも、自分とは違うその人の生き方を選ぶことを尊重して受け入れることができるようになったのです。それができるのは愛があるからなのです。」
「いま、相手を受け入れることに〈尊重〉という言葉を使われましたが、それに近い言葉で〈尊敬〉というものがあります。たしかに、自分には理解できない相手の存在を受け入れるためには、尊重とか尊敬が必要になると思います。けれど、それは愛とは異なる概念だと思うのです。愛が相手との距離を近づける力を持つのに対し、尊敬は「敬遠」という野球用語にもあるように、むしろ敬して相手との距離をとることで成立するものです。それを物理では「斥力」と言いますが、それはべったりと引き付けあう愛ではなく、相手との距離感をとりつつも決して関係を切らないような力だと言えます。自分とは異なる他者の生き方を受け入れながら共生・共存するためには、むしろ愛よりも尊敬が必要なのだと思うます。たしかに、イエスやブッダのような心のレベルの高い人にとっては愛によってすべての他者を受容することができるかもしれないけれど、普通の人々にそれを要求するのは難しいのではないでしょうか。」
「愛にも感情にも心が関係します。人にはそれぞれ器があると思いますが、各人が心の器を大きくすればよいのではないでしょうか。」
「愛することができる対象は有限だと思います。ただし、そのような愛が他者にもあるということを理解できれば、地球を救えるのかもしれません。まさにジョン・レノンの「イマジン」が必要なのだと思います。」
「すべての人を尊重するのが愛です。そしてそれを実践する場が家族であって、それが次第に地球上の人々へ拡大していくものです。」
「愛には相手を〈許す〉ということも含まれています。許し続けるのはしんどいけれど、悪事を見過ごすのは愛ではないでしょう。その意味で、勇気をもってルールを破るものへの実力行使も愛だと思います。」
「これまでの議論を聴いていて、いかに自分の考えていた愛が自己中心的だったか考えさせられました。私にとっての正義に愛という便利な言葉を当てはめてきたのだなと感じました。」
「とりわけ政治の領域で愛を語るほど誤った用いられ方はないと思います。愛は政治の原理ではないでしょう。」
「仏教では愛は諸悪の根源とされていますが、キリスト教ではむしろ愛の宗教だとされます。その意味でいうと、「愛は地球を救う」というのは、キリスト教からの最大限のメッセージではないでしょうか。」
「でも、地球はそもそも自分を救ってほしいなんて思っていないでしょう。スピリチュアルな観点でいえば、けっきょく他者を救うことはできない。苦しむ他者を救うことは他者を低く見ていることになります。その他者にとって自分はせいぜい相手が成長するために気づかせてあげられる程度に役立つ存在です。だから、「地球を救う」という発想自体がおこがましいのです。」
「たしかに、愛は地球を救うというのは人間の勝手な考え方であって、地球の寿命は時間で決まっているのであって善悪で決まっていない。それよりも、原発避難してきた立場からすれば、コミュニティを存続させたいという思いが愛がなければできないものだということです。」
「同じく避難してきたものですが、その過程で人間の色々な様相を見てきました。賠償問題やら何やらで、穏やかだった村の人々の心が乱れてしまったことも。今、少しずつ昔の笑顔を取り戻しつつあり、腹を割って話せることを取り戻しつつあります。人間愛って何かを考えるきっかけになっています。まだまだ避難民の様子は暗いけれど、哲学カフェに参加するようになって、受け入れられて、安心して眠れるようになってきました。哲カフェのおかげです。」
今回は哲カフェ「愛」について語られたところで終了時刻を迎えましたが、わりとテーマに沿った議論が交わされたのではないでしょうか。
このようなテーマを与えて下さった吉成さんにあらためて感謝です。
そして、初ファシリテーターを無事こなした「すぎっち」にも感謝です。
「すぎっち」の感想は、「あんなに人の話を聴かなきゃならないことが大変だとは思わなかった」というものです。
ふだん、人の話って聞いているようで聴いていないものですよね。
人の話を聴くことがどれほど大変なことなのか体験したい方は、遠慮なくファシリテーターの体験希望をお申し出ください。
これから夏本番です。
福島市はこれからどんどん暑くなりますが、皆さまには充実した夏をお過ごしになられることをお祈り申し上げます。
agatoと言えば、閉店のため哲カフェの会場としては5月が最後であることを告げてましたが、その後8月まで営業を延期されたとのことで、幸いにも今回も会場として使用させていただけました。
とはいえ、これが本当にLast agatoです。
今回は、オーナーの吉成さんのご提案で「愛とは何か?―愛は地球を救えるか?-」というテーマでの開催となりました。
しかも、今回のファシリテーターは「すぎっち」こと、世話人・杉岡伸也の初登板です。
いつもはカフェマスターとして珈琲を淹れることに専念してもらっている「すぎっち」に、開始12分前、世話人同士の間での無茶振りから、彼の登板が決まりました。
はじめは緊張の面持ちでファシる「すぎっち」を温かいまなざしで見守っていた20名の参加者たちも、議論が熱くなるにつれ、次第に彼におかまいなしで議論を深めていきました。
「愛の対象は人類から家族、友人、ペット、モノなど対象が様々に広がり、難しいところがあります。が、愛の反対語は何かと考えたとき「憎しみ」が挙げられると思います。その点で愛と憎しみは表裏一体ではないでしょうか。しかし、憎しみが対象を破壊しようとするのに対し、愛は生きるための手段であるように思います。愛なくしては生きられないのです。」
「愛とは熱であり、光であり、エネルギーそのものです。そして、子育てのように相手のことを思うことにエネルギーを注ぐという点では、愛とは犠牲の上に成り立つものだと思います。そのためには我慢が必要で、相手を生かすためには自分を犠牲にしなければできないのです。」
「私は「愛は時間である」と述べたことがありますが、まさにそれは相手のためにどれだけ自分の時間を割いたかが愛の証であるという意味です。子育てはその意味でいうとまさに自分の時間を相手に割く愛の営みと言えるでしょう。ですが、先ほど愛の反対語は憎しみという意見がありましたが、実は愛と憎しみは表裏一体ではないかとも思うのです。というのも、実は憎んでいる相手のことって、意外とずっと考え込んだりしてしまうものですから。その意味でいうと憎しみも時間なのかな、と。」
「自閉症スペクトラムを例にとってみると、その症状にある人はしばしば「世界の色を失う」と言います。つまり、世界にリアリティがもてないというわけです。それに対しスウェーデンの精神医療の専門家たちが、その患者の傍にいながら常にその患者の発話に応答することで世界のリアリティを回復させるという事例を聞いたことがあります。その点でいうと、愛が成立する条件として、まず世界が明日も明後日も今と変わらぬように続くということと関係するのではないでしょうか。自閉症スペクトラムの渦中にある人は、その瞬間その瞬間の対象が異なると言います。つまり、自分自身の中でも過去―現在―未来の非連続性があるのですね。すると、世界そのものが非連続であるどころか、話している相手さえも非連続で非同一的な存在なのです。そのような他者を愛することどころか、愛されるということさえ不可能なことでしょう。つまり、愛とは時間であるということは、この世界の同一性という意味とも関係するのではないでしょうか。」
「私はチェ・ゲバラが好きなのですが、彼がインタビューで「革命家にとって大事なものは何か?」という質問に対し、「それは愛である」と述べています。自分の安定した生を擲って苦しんでいる他者のために闘う姿は愛そのものではないでしょうか。たしかに、多くの敵を殺害したけれども、戦うことも愛の形の一つです。」
「さきほどから愛は他者のために自己犠牲を伴うとか、愛の成立条件が世界のリアリティの回復だという意見が述べられていますが、私はむしろ愛は無世界的だし、他者を喪失することを本質としているように思われます。道端で抱きしめあっている恋人同士は、まさに自分たちだけの世界に浸っており、それ以外に世界はないでしょう。自己犠牲もしかり。子どものためにと思っている親の教育が、むしろ子供にとっては迷惑だったり、まさにその子の良さを殺してしまうということは珍しくないのではないでしょうか。」
「いや、それは愛ではなく単に欲望にすぎません。つまり、それは相手のためと言いながらも、実は自分自身の欲望を満たそうとしているだけです。本当の自己犠牲というものは、そのような自分の欲望を満たすようなものではないし、それは愛に値しません。愛と憎しみがワンセットになっているという意見がありましたが、愛を善で救い出す必要があります。」
「愛はそれ自体で成り立つのか、それともだれかとの関係によって成り立つものなのか。自分だけが愛しても相手に受け入れられていなければ成り立たないものなのか。それとも、相手の思いに関係なく成り立つものなのでしょうか。」
「恋人同士が自分たちの世界に浸っている無世界性を指摘する意見がありましたが、それは自己愛に近いですね。それは恋情に近い愛ですが、それだけが愛ではないでしょう。もっと幅の広い愛もあるはずです。」
「愛は相手を幸せにする行動であり、相手を理想の姿にさせることであって、相手が望むままにしておくとか、相手を慈しみ、認め続け、敬意をもつことだと思います。」
「いや、愛はもっとドロドロしたものではないでしょうか。自分の恋愛経験がそうだからなのかもしれませんが、初めは単にこっちを振り向かせたいなと思っていた相手も関係が深くなるにつれて、自分のものにしたいという感情と交じり合ってしまうものだと思うのです。」
「愛はエネルギーだと言いましたが、そのエネルギーが善として燃えるのか、悪として燃えるのかが重要です。愛は善として燃えるものですから、そうすると愛と理性は一体化しているのではないでしょうか。」
「「善だから愛であり、悪であるから愛ではない」ということではないでしょう。愛が自己犠牲を伴ったり相手のことを思うことを本質とすることには同意します。しかし、そのことがその相手を殺してしまったり、別の他者の犠牲を肯定することがありうるのは、善や正義と愛がごちゃ混ぜにされているからではないでしょうか。私が愛は無世界的であるというのは、自分が大切だと思える相手に対しては利他的でありうる行為も、その相手にとって敵となる他者は排除することを容易に認めてしまえるからです。その意味で愛は排他的であるという意味での無世界性を本質としていて、それが善とか正義と誤って結びつくと容易にテロを肯定してしまう原理になりうると思うわけです。」
「いや、人を殺すのは愛のエネルギーではありません。愛は善であるはずです。だから、みんなが国を愛すれば、決して戦争が起こるはずがありません。」
「では、問いを変えましょう。冒頭で、愛の対象が人類からペットまで様々にあるとの発言がありましたが、果たして愛の対象は無限なのでしょうか?身近なところで恋人や家族、友人への愛がありうるというのはわかるのですが、その愛し方を国家や人類といった対象にまで広げることには個人的に違和感があります。皆さんいかがでしょうか?」
「愛の対象が有限であるということになると、愛は地球を救えないということになりませんか?」
「私はまさにその意味において愛は地球を救えないと思っています。」
「私は愛の対象は無限であると言えます。自分の家族の中に変わった性癖をもつ者がいたとしても、私はその存在を認めることができますし、どんな相手でも違う生き方をする人を認めることはできると思います。私はそれをスピリチュアルの思想から得たとき、自分自身の生き方が変わりました。すると、自分の中で、たとえ殺人者でも、自分とは違うその人の生き方を選ぶことを尊重して受け入れることができるようになったのです。それができるのは愛があるからなのです。」
「いま、相手を受け入れることに〈尊重〉という言葉を使われましたが、それに近い言葉で〈尊敬〉というものがあります。たしかに、自分には理解できない相手の存在を受け入れるためには、尊重とか尊敬が必要になると思います。けれど、それは愛とは異なる概念だと思うのです。愛が相手との距離を近づける力を持つのに対し、尊敬は「敬遠」という野球用語にもあるように、むしろ敬して相手との距離をとることで成立するものです。それを物理では「斥力」と言いますが、それはべったりと引き付けあう愛ではなく、相手との距離感をとりつつも決して関係を切らないような力だと言えます。自分とは異なる他者の生き方を受け入れながら共生・共存するためには、むしろ愛よりも尊敬が必要なのだと思うます。たしかに、イエスやブッダのような心のレベルの高い人にとっては愛によってすべての他者を受容することができるかもしれないけれど、普通の人々にそれを要求するのは難しいのではないでしょうか。」
「愛にも感情にも心が関係します。人にはそれぞれ器があると思いますが、各人が心の器を大きくすればよいのではないでしょうか。」
「愛することができる対象は有限だと思います。ただし、そのような愛が他者にもあるということを理解できれば、地球を救えるのかもしれません。まさにジョン・レノンの「イマジン」が必要なのだと思います。」
「すべての人を尊重するのが愛です。そしてそれを実践する場が家族であって、それが次第に地球上の人々へ拡大していくものです。」
「愛には相手を〈許す〉ということも含まれています。許し続けるのはしんどいけれど、悪事を見過ごすのは愛ではないでしょう。その意味で、勇気をもってルールを破るものへの実力行使も愛だと思います。」
「これまでの議論を聴いていて、いかに自分の考えていた愛が自己中心的だったか考えさせられました。私にとっての正義に愛という便利な言葉を当てはめてきたのだなと感じました。」
「とりわけ政治の領域で愛を語るほど誤った用いられ方はないと思います。愛は政治の原理ではないでしょう。」
「仏教では愛は諸悪の根源とされていますが、キリスト教ではむしろ愛の宗教だとされます。その意味でいうと、「愛は地球を救う」というのは、キリスト教からの最大限のメッセージではないでしょうか。」
「でも、地球はそもそも自分を救ってほしいなんて思っていないでしょう。スピリチュアルな観点でいえば、けっきょく他者を救うことはできない。苦しむ他者を救うことは他者を低く見ていることになります。その他者にとって自分はせいぜい相手が成長するために気づかせてあげられる程度に役立つ存在です。だから、「地球を救う」という発想自体がおこがましいのです。」
「たしかに、愛は地球を救うというのは人間の勝手な考え方であって、地球の寿命は時間で決まっているのであって善悪で決まっていない。それよりも、原発避難してきた立場からすれば、コミュニティを存続させたいという思いが愛がなければできないものだということです。」
「同じく避難してきたものですが、その過程で人間の色々な様相を見てきました。賠償問題やら何やらで、穏やかだった村の人々の心が乱れてしまったことも。今、少しずつ昔の笑顔を取り戻しつつあり、腹を割って話せることを取り戻しつつあります。人間愛って何かを考えるきっかけになっています。まだまだ避難民の様子は暗いけれど、哲学カフェに参加するようになって、受け入れられて、安心して眠れるようになってきました。哲カフェのおかげです。」
今回は哲カフェ「愛」について語られたところで終了時刻を迎えましたが、わりとテーマに沿った議論が交わされたのではないでしょうか。
このようなテーマを与えて下さった吉成さんにあらためて感謝です。
そして、初ファシリテーターを無事こなした「すぎっち」にも感謝です。
「すぎっち」の感想は、「あんなに人の話を聴かなきゃならないことが大変だとは思わなかった」というものです。
ふだん、人の話って聞いているようで聴いていないものですよね。
人の話を聴くことがどれほど大変なことなのか体験したい方は、遠慮なくファシリテーターの体験希望をお申し出ください。
これから夏本番です。
福島市はこれからどんどん暑くなりますが、皆さまには充実した夏をお過ごしになられることをお祈り申し上げます。
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