昨日、開沼博著『はじめての福島学』(イースト出版)を課題図書とした、第7回本deてつがくカフェを福島高校にて開催されました。
しかも、今回は著者の開沼博さんにゲストとしてご参加いただき、なんと60名の方々にご参加いただいての開催となりました。
県内各地から約10名の高校生にもご参加いただき、いつになく充実した緊張感に包まれた会となりました。
以下、参加された方々のご感想です。
● はじめての参加でワクドキではありましたが、意外とヤワラカ~イ語り口の皆様の中にず~っと入っていけた感じでした。色々な企画があるようなので、又参加して見たいと思いました。多種多様な人と1つの話題について語り合う(主に聞き役)事は、とても楽しく、自分を深くしてくれる作業です。又、違ったテーマで色々な方の御意見を聴いてみたいと思います。今回の様に意見を発現しなくても楽~にその場に居れる雰囲気であれば、又参加したいです。聞き役(たまーに発言)が好きな者もいるので…。
● 本には書いてなかった「福島学」の全体像が見えました。とても面白かったです。こういったダイアログの手法があるんだなと新しい気づきでした。
● 「思考停止しない」→公共圏=話し合いの場をつくる→そのための前提知識を得る…共感しました。
● 不安の根について知りたい!と思いました。
● 発言もしましたが、若者すばらしいです。私もいろいろ理解しました。
● 大きな事故や事件、小さな事故や事件、どんな事件にも原因があり、経過があり、当事者がいて、現在に至っています。起こってしまった事については、時間が経っても、金銭的な補償があっても、永久に解決することはないと思います(忘れることはあるかもしれませんが)。不安感を軽減するためにには、このような場を継続的に行い、議論すると、考えを伝える場、客観的にみることが大事だと思いました。そして人それぞれの解釈で考え、判断すれば良いと思います。
● 意欲がある人でも、「~してほしい」「~であってほしい」といった意見が大多数を占め、「結局は他人事」なのかな…と少し残念に思うのと同じに、どうすればその思考を変えられるのか挑戦する。知識がなくても(少なくても)対話できる、行動できる場づくりを目標にした活動にもかかわっているが、また、知ることの重要性を再認識し、そのわりふりを考えていきたいと思った。無知を知った。『はじめての福島学』の内容から離れた言葉で話していいのか、明確にしてほしかった。感想はどう思ったかではなくて、何を考えたかではないだろうか、と思った。人数が多いとどうしても池が言いづらかったり、「対話」が重視されにくくなると思うので、5人程度のグループトークにするとどうかなと思った。彼の樹論と主張論も大事だが、何故どのようにどう自分が考えたかを話せる環境づくりが必要かと思った。知識&受け売りが強かった。この場で学べるものは、自ら作るのか、線引きの必要性を感じた。~してほしい論で申し訳ありません。とても勉強になり、自分が何を変えていけばいいのか、何を為すべきかより明確になりました!ありがとうございました。
● 今回のテーマは色が出やすい難しいものだったと思います。哲学的視点からどのように切り込んでいくのか楽しみにしていたのですが、他の震災系フォーラムの流れになってしまったことが少しガッカリです。もっと深めたいと思ったのは「思考の単純化」です。「福島学」は今後考え続ける必要があると思った。「主体的に政治に参加する」や「主体性」について語りたい。当事者=主体者になりうるのか。思考するとは何か。
● 初参加でした。本に対して様々な意見を聞くことができ、改めて「福島面倒くさいな!!」と思いました。それだけ
たくさんの意見を聞くことができましたし、県内、県外というだけで更に考え方、視点があると思いました。一人ひとりがめんどうくさいに向き合うためにも、データを知ることは重要で(向き合う必要があるのかも疑問ですが)、そのきっかけになる場だt感じました。
● 福高1年の、1回も喋らなかった者です。すいません。自分もこの本さわりしか読んでいません。深く反省しています。自分は原発問題などは賛成でも反対でもないです。そして復興も「終わった」とも「終わっていない」ともどちらとも言えない考えなのです。ただ、福島について誤解されていることが嫌で、昨日これに行こう!と思い立ちました。このなんでも言える雰囲気が楽しかったです(自分は何も言いませんでしたが)。これから本読みます。
● データと事実をしめした上でもまだかいしょうされない不安ってなんだろう。もはや宗教にすくいを求めるしかないのかしら。ダイアログになれしたしんでいるの、対話式を一度やってもらいたいです。
● 「自分に何ができるのか」というところで、いつも思考が止まってしまいます。考え続けることが大切ですね。今日は参加できてとても楽しかったです。
● 残念ながら読み終えてなくて発言はどうかと思い、できませんでしたが、特に今、「自由」に思っていることを言える場が大切ですし、若い人たちに、拡がっていってほしいと思いました。私たち大人世代は若い人たちをバックアップしていかなければと思っています。わずかでも、何かの力?になっていければ、とゴーマンにも思っています。
● いろいろなよみ方があるんだなと思いました。行政の人間として、色々なデータを示していましたが、つたわっていないのだなと反省しました。
● 単純化の話が興味深かった。問題が単純化されてしまうのは考えなくてすんで楽だからだろうか。私は知性というのは自分の認知について不安であり続けることが前提として必要だと思う。これが絶対正しいという姿勢が学問でなく宗教的なものに対する姿勢だ。福島を「宗教」にしないために、本書の「福島」を知るための25の数字」は有効だろうと思った。
● 東京方の参加。福島県の抱える問題、「原発が誘致される地方の状況」「農業の状況」などを、日本が抱える問題で普遍的な問題として考えて来た。本によっても、今日の他県からの発言からも、フヘン化が思考停止や単純化にもつながることを自分の課題として考えている。著者も最後に触れたが、本をきちんと読まない(読まれない)事実を理解した。出版を生業とする者として参考になった。
● 高校生の皆さんが素晴らしい意見を出してくれた。本当は自分も社会のために為になる意見を出していきたいが、悪い意味で空気を読んでしまい発言できない。
● 「はじめての福島学」の本を読んで、統計的に福島の現実をいろいろな角度から知ることができた。私は原発が廃炉になるまで県民が寿命まで幸せに生きるためには一人一人がどんなふうに努力しつつ生きれば達成できるのかと常に考えている。今日はもっと福高生が多いかと思ってきたが、一般の方も年配も多かった。超少子高齢化社会が進む中、廃炉問題まで抱えて福島県で生きる上で福祉面が充分でない点が気になる。社会的弱者の生活が厳しくなるという意味である。県民の生活が先細りでなく何とか限界はあっても寿命までその人らしく生活できるようにみんなで努力していく方策を見つけたい。
● 初めて参加しました。来れて本当によかったです。しかも、こんなにも世代が様々な方達が県内外から集うというのは本当に初めてての経験でした。ご著書に足りないものがあるという発言がありましたが、みんなで「福島学」を完成できたらすばらしいですね。そのための「はじめての福島学」だと思いました。
● 意識が高い方がたくさんいて圧倒されてしまいました。県外の方でも、福島県をよく知っている人も結構いて、とても反省しています。でも「考えるって楽しいな」と思いました。ここに自分の考えを書くのもなんです、が福島学は完成させなくてもいい気がします。開沼さんに期待を寄せてしまったら、開沼さんが教祖様になってしまうので…。完成させるのは、今の若者だと思いカます。
● 今日の読書カフェは最後まで10分頃で帰り、最後が聞けなかったのが残念です。記録、報告を楽しみにしています。個人的な感想です。開沼さんが調査による具体事例の収集と分析から、仮説や構想まで、具象から抽象まで仕事をしての著作と想いますが、『「フクシマ」論』と『初めての福島学』で、違うと感じたとか、人権侵害とか感想を話した方々は、開沼さんの仕事の一貫性をはじめ抽象度を高めて見ておらず、具体的なレベルでしか解釈しないので話が噛み合わないと思いました。人権侵害は以前からあり原発事故が顕在化させたとか、権利保障は国への依存心やゼロリスク期待などへの反省が感じなかった。 開沼さんが新しい社会や人の在り方や地の在り方を構想しているのに対して、今まで安住していた社会へのノスタルジーか継続を期待しているなどの違いも感じました。開沼さんが自由度をあげているのに対して、個別具体的なことに引きずられ停滞してしまった。 単純化という言葉が最初に出てしまったためひきずられたけれど、短絡化と抽象化と分けた方が良かったとも思いました。抽象化は人間の知性だけど、短絡化は反知性と思います。安心を求める気持ちも良いのかとかも。開沼さんに、いろいろ求める無責任やお節介さには疑問です。自己のあり方や考え方を哲学的に根本的に問うならば、意見や価値観が違う視点からみることは有用だし、哲学カフェだから出来ることではないかと思います。
しかも、今回は著者の開沼博さんにゲストとしてご参加いただき、なんと60名の方々にご参加いただいての開催となりました。
県内各地から約10名の高校生にもご参加いただき、いつになく充実した緊張感に包まれた会となりました。
以下、参加された方々のご感想です。
● はじめての参加でワクドキではありましたが、意外とヤワラカ~イ語り口の皆様の中にず~っと入っていけた感じでした。色々な企画があるようなので、又参加して見たいと思いました。多種多様な人と1つの話題について語り合う(主に聞き役)事は、とても楽しく、自分を深くしてくれる作業です。又、違ったテーマで色々な方の御意見を聴いてみたいと思います。今回の様に意見を発現しなくても楽~にその場に居れる雰囲気であれば、又参加したいです。聞き役(たまーに発言)が好きな者もいるので…。
● 本には書いてなかった「福島学」の全体像が見えました。とても面白かったです。こういったダイアログの手法があるんだなと新しい気づきでした。
● 「思考停止しない」→公共圏=話し合いの場をつくる→そのための前提知識を得る…共感しました。
● 不安の根について知りたい!と思いました。
● 発言もしましたが、若者すばらしいです。私もいろいろ理解しました。
● 大きな事故や事件、小さな事故や事件、どんな事件にも原因があり、経過があり、当事者がいて、現在に至っています。起こってしまった事については、時間が経っても、金銭的な補償があっても、永久に解決することはないと思います(忘れることはあるかもしれませんが)。不安感を軽減するためにには、このような場を継続的に行い、議論すると、考えを伝える場、客観的にみることが大事だと思いました。そして人それぞれの解釈で考え、判断すれば良いと思います。
● 意欲がある人でも、「~してほしい」「~であってほしい」といった意見が大多数を占め、「結局は他人事」なのかな…と少し残念に思うのと同じに、どうすればその思考を変えられるのか挑戦する。知識がなくても(少なくても)対話できる、行動できる場づくりを目標にした活動にもかかわっているが、また、知ることの重要性を再認識し、そのわりふりを考えていきたいと思った。無知を知った。『はじめての福島学』の内容から離れた言葉で話していいのか、明確にしてほしかった。感想はどう思ったかではなくて、何を考えたかではないだろうか、と思った。人数が多いとどうしても池が言いづらかったり、「対話」が重視されにくくなると思うので、5人程度のグループトークにするとどうかなと思った。彼の樹論と主張論も大事だが、何故どのようにどう自分が考えたかを話せる環境づくりが必要かと思った。知識&受け売りが強かった。この場で学べるものは、自ら作るのか、線引きの必要性を感じた。~してほしい論で申し訳ありません。とても勉強になり、自分が何を変えていけばいいのか、何を為すべきかより明確になりました!ありがとうございました。
● 今回のテーマは色が出やすい難しいものだったと思います。哲学的視点からどのように切り込んでいくのか楽しみにしていたのですが、他の震災系フォーラムの流れになってしまったことが少しガッカリです。もっと深めたいと思ったのは「思考の単純化」です。「福島学」は今後考え続ける必要があると思った。「主体的に政治に参加する」や「主体性」について語りたい。当事者=主体者になりうるのか。思考するとは何か。
● 初参加でした。本に対して様々な意見を聞くことができ、改めて「福島面倒くさいな!!」と思いました。それだけ
たくさんの意見を聞くことができましたし、県内、県外というだけで更に考え方、視点があると思いました。一人ひとりがめんどうくさいに向き合うためにも、データを知ることは重要で(向き合う必要があるのかも疑問ですが)、そのきっかけになる場だt感じました。
● 福高1年の、1回も喋らなかった者です。すいません。自分もこの本さわりしか読んでいません。深く反省しています。自分は原発問題などは賛成でも反対でもないです。そして復興も「終わった」とも「終わっていない」ともどちらとも言えない考えなのです。ただ、福島について誤解されていることが嫌で、昨日これに行こう!と思い立ちました。このなんでも言える雰囲気が楽しかったです(自分は何も言いませんでしたが)。これから本読みます。
● データと事実をしめした上でもまだかいしょうされない不安ってなんだろう。もはや宗教にすくいを求めるしかないのかしら。ダイアログになれしたしんでいるの、対話式を一度やってもらいたいです。
● 「自分に何ができるのか」というところで、いつも思考が止まってしまいます。考え続けることが大切ですね。今日は参加できてとても楽しかったです。
● 残念ながら読み終えてなくて発言はどうかと思い、できませんでしたが、特に今、「自由」に思っていることを言える場が大切ですし、若い人たちに、拡がっていってほしいと思いました。私たち大人世代は若い人たちをバックアップしていかなければと思っています。わずかでも、何かの力?になっていければ、とゴーマンにも思っています。
● いろいろなよみ方があるんだなと思いました。行政の人間として、色々なデータを示していましたが、つたわっていないのだなと反省しました。
● 単純化の話が興味深かった。問題が単純化されてしまうのは考えなくてすんで楽だからだろうか。私は知性というのは自分の認知について不安であり続けることが前提として必要だと思う。これが絶対正しいという姿勢が学問でなく宗教的なものに対する姿勢だ。福島を「宗教」にしないために、本書の「福島」を知るための25の数字」は有効だろうと思った。
● 東京方の参加。福島県の抱える問題、「原発が誘致される地方の状況」「農業の状況」などを、日本が抱える問題で普遍的な問題として考えて来た。本によっても、今日の他県からの発言からも、フヘン化が思考停止や単純化にもつながることを自分の課題として考えている。著者も最後に触れたが、本をきちんと読まない(読まれない)事実を理解した。出版を生業とする者として参考になった。
● 高校生の皆さんが素晴らしい意見を出してくれた。本当は自分も社会のために為になる意見を出していきたいが、悪い意味で空気を読んでしまい発言できない。
● 「はじめての福島学」の本を読んで、統計的に福島の現実をいろいろな角度から知ることができた。私は原発が廃炉になるまで県民が寿命まで幸せに生きるためには一人一人がどんなふうに努力しつつ生きれば達成できるのかと常に考えている。今日はもっと福高生が多いかと思ってきたが、一般の方も年配も多かった。超少子高齢化社会が進む中、廃炉問題まで抱えて福島県で生きる上で福祉面が充分でない点が気になる。社会的弱者の生活が厳しくなるという意味である。県民の生活が先細りでなく何とか限界はあっても寿命までその人らしく生活できるようにみんなで努力していく方策を見つけたい。
● 初めて参加しました。来れて本当によかったです。しかも、こんなにも世代が様々な方達が県内外から集うというのは本当に初めてての経験でした。ご著書に足りないものがあるという発言がありましたが、みんなで「福島学」を完成できたらすばらしいですね。そのための「はじめての福島学」だと思いました。
● 意識が高い方がたくさんいて圧倒されてしまいました。県外の方でも、福島県をよく知っている人も結構いて、とても反省しています。でも「考えるって楽しいな」と思いました。ここに自分の考えを書くのもなんです、が福島学は完成させなくてもいい気がします。開沼さんに期待を寄せてしまったら、開沼さんが教祖様になってしまうので…。完成させるのは、今の若者だと思いカます。
● 今日の読書カフェは最後まで10分頃で帰り、最後が聞けなかったのが残念です。記録、報告を楽しみにしています。個人的な感想です。開沼さんが調査による具体事例の収集と分析から、仮説や構想まで、具象から抽象まで仕事をしての著作と想いますが、『「フクシマ」論』と『初めての福島学』で、違うと感じたとか、人権侵害とか感想を話した方々は、開沼さんの仕事の一貫性をはじめ抽象度を高めて見ておらず、具体的なレベルでしか解釈しないので話が噛み合わないと思いました。人権侵害は以前からあり原発事故が顕在化させたとか、権利保障は国への依存心やゼロリスク期待などへの反省が感じなかった。 開沼さんが新しい社会や人の在り方や地の在り方を構想しているのに対して、今まで安住していた社会へのノスタルジーか継続を期待しているなどの違いも感じました。開沼さんが自由度をあげているのに対して、個別具体的なことに引きずられ停滞してしまった。 単純化という言葉が最初に出てしまったためひきずられたけれど、短絡化と抽象化と分けた方が良かったとも思いました。抽象化は人間の知性だけど、短絡化は反知性と思います。安心を求める気持ちも良いのかとかも。開沼さんに、いろいろ求める無責任やお節介さには疑問です。自己のあり方や考え方を哲学的に根本的に問うならば、意見や価値観が違う視点からみることは有用だし、哲学カフェだから出来ることではないかと思います。
私は、小林よしのりさんを連想しました。彼が漫画ゴーマニズム宣言でエイズHIVで厚生省を告発したときに、彼を人権派とか反政府系市民運動の新旗手と勘違いした方々は、彼を称揚し、次はこのテーマで漫画を書いて欲しいとか依頼、期待をしました。私は彼の漫画執筆動機には市民運動も人権派もないのでおかしな期待をしていると思いました。その後小林よしのりさんは、かれの価値観で戦争論を書いて多くの方を失望させ、彼が変質したと非難しました。彼は変わっておらず、彼を理解できなかったのに。
開沼さんのフクシマ論と福島学の本の違いにしか目がいかないのは即物的で読者の期待や都合で読んでいるだけ、共通点や本質を見つけ、開沼さんが何を一貫して伝えたいか、著書の内在的な論理から理解する読み方がないからと思いました。開沼さんに著作の書き換え要求紛いやどうすれば良いか正解?を書く要求など、期待ハズレだと開沼さんを後日非難する人になるだろうと思います。いずれも、方法や結論を知りたがりマニュアルを欲しがる、考える苦しみや楽しみといったプロセスがないと思います。つまり、哲学がない。
読書DE哲学の会にしては、どこかしら集会っぽく感じました。人権侵害といいながら誰からの侵害か抽象化出来ず、話せば具象的に話して長くなるとしか答えられず人権侵害の意味さえわからず、福島学としておかしいと批判しながら、逆に批判の基準福島学の定義を質問されて答えられないなど、哲学カフェとしては、知って入る分かっているつもりが分かっていないことに気づくよい契機でした。
よくあることだと思います。