てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第1回哲学書deてつがくカフェのレジュメ

2013年08月24日 12時55分51秒 | 開催予定
いよいよ本日16:00より、サイトウ洋食店にて第1回哲学書deてつがくカフェが開催されます。
わりに読みやすい哲学書としてデカルトの『省察』を選書したのですが、それでもやはり再読してみると、慣れない方にはよみにくいだろうなぁと、若干冷や汗を掻いております。
当日は本を読んできていない方でも参加できるように、世話人から本書の概要を説明させていただきますが、今回も精読ではなく『省察』から読み取れる論点について対話することを主眼にカフェは進めさせていただきます。
そこで、なるべく誰にでも本書の内容理解を図れるように、世話人がまとめたレジュメを用意させていただきました。
このレジュメのまとめ方が果たしてうまくいっているかどうかは甚だ不安ですが、もし、これをご覧になって少しでも関心をもっていただけたとすれば幸いです。
もはや開始時間3時間前なので遅きに失しておりますが、ここにそのレジュメの内容を掲載させていただきますので、ご参照下さい。

第1回哲学書deてつがくカフェ 2013.8.24 @サイトウ洋食店

【課題図書】ルネ・デカルト『省察』 

※参考書籍 山田弘明訳・ちくま学芸文庫/[ ]内数字は本書の段落表記

なぜ、デカルトは省察を書いたのか?(ソルボンヌ宛書簡)

① 神の存在と精神が身体とともに滅びはしないことを無神論者にも証明できること
② 神の存在について知られる根拠が、我々の精神のうちにあるのを証明すること
③ 精神が身体とは異なることを証明すること 
④ 私(デカルト自身)は無知を自覚しているから、読者によってこの書の欠陥や訂正をしてもらい、この書の証明をより厳密なものに高めてほしい

第一哲学についての省察 そこでは 神の存在と、精神の身体の区別が証明される
【第一省察 疑いをさしはさみうるものについて】


[1] 学問を確固としたものにするために、一生に一度はすべてを根底からくつがえし、少しでも不確実だと思うものは疑ってみよう。

[3] 私が真理だと思ってきたものの大半は感覚から受け取ったものだが、時々感覚が欺くことを知っているから感覚は信頼しない方が賢明である。

[4] それでも狂人でない限り、この身体が私のものであることは否定できないだろう。

[5] しかし私は夢の中で狂人と同じ経験をしているではないか。よくよく考えてみれば、覚醒と眠りを区別する標識がまったくないことに驚いてしまう。 

[6]~[8] とはいえ夢を見ているあいだも、その意識の世界の色や物体は単純で普遍的なものから構成されている。目覚めていても眠っていても2+3=5の真理は明白な真理である。

[9]  しかし、これらすべてが今見えている通りに存在していると思っているのは、実は神が私が誤るように仕向けたかもしれないではないか?

[10] つまり、私がかつて真だと思ったもののうちで、それについて疑いの余地のないものは何もないことは認めざるを得ない。

[11]  仮に神ではなく、狡知な悪霊が私を欺こうとしていると想定してみよう。すべては誤っていると見なす省察に固執しよう。私は真理を認識できないとしても、少なくとも偽なるものに同意しないことはできる。しかしこの企ては、気を抜くと私は普段の生の習慣に引き戻される。私はそのような古い意見に逆戻りし、目覚めるのを恐れるのである。

【第二省察 人間精神の本性について 精神は身体よりもよりよく知られること】
[1] 私は昨日と同様に、何か確実なものを知るまで確実なものはないことを確実に知るまで、さらに歩みを続けよう。

[2] 記憶、感覚、物体、形、延長、運動、場所は何も存在しない、幻想だとしよう。真理は確実なものは何もないということだけだろう。

[3]  しかし私は確実なものは何もないと知っているのは、私自身が考えたからだ。ならば、少なくとも私は何ものかであるのではないか?たしかに、私は既に感覚や身体、天も地も精神も物体もないし、私もまた存在しないと自分に説得したはずだ。しかし私が自分に何かを説得した以上、たしかに私は存在した。それゆえ「私は存在する」という命題は、私がそれを言い表すたびに、精神で把握するたびに必然的に真である。

[4]  しかし、いまや必然的に存在するこの私が何であるかを、私はまだ十分に理解してはいない。それ故今まで私を何だと思っていたのかを、あらためて反省してみよう。

[5] 私とは何かを考察するたびに、私の意識にはまず身体が現れ、次に私が栄養を取り、歩き、感覚し、思考するという魂が現れた。魂は風やエーテルのようなもので、それが身体に注ぎ込まれると想像していた。物体は、他のものに触れられることで動かされるもので、自らを動かしたり感覚したり、思考する力を本性とはしない。しかし、この力が身体に見出されることに驚いた。

[6] 私は物体の本性と魂の本性(栄養を摂る、歩行する、感覚する)は、身体がないのだから作りごとでしかない。しかし思考は確かである。これだけは私から切り離すことができない。私は存在することは確かであり、私が考える間だけ存在する。私とはただ考えるもの、精神、知性、理性である。

[7] 私が存在することについての知識は、想像力で思い描くものにも依存しない。というのも想像するとは、物体的なものの形や像を眺めることで、それらはすべてが夢幻に過ぎないからだ。精神が私の存在を判明に知るためには想像力を遠ざけねばならない。

[8] 私とは考えるものである。すなわち、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲さず、また想像し、感覚するものである。

[9] 疑い、理解し、欲する私は、想像する私、感覚する私と同じ私でもある。それらは私の意識の部分をなしているからである。光を見、喧騒を聞き、熱を感じることは虚偽である。しかし、見聞きし熱いと思っていること自体は虚偽ではありえず、これは考えることに他ならない。

[10] それでも依然として私は、「考えること」より物体的なもの方をはるかに判明だと認識していると思わざるを得ない。

[11] それならば判明と思われる物体である蜜蝋を取り上げて考察しよう。蜜蝋は火に近づけると五感で捉えられる部分は変化する。それでもなお蜜蝋は蜜蝋のままである。

[12] 蜜蝋が無数の変化を受けても、この蜜蝋が最初に思っていた蜜蝋と同じである認識するのは視覚や聴覚や想像によるのではなく、ただ精神によってのみ認識するのである。

[13]  私は、蜜蝋がそこにあることを「蜜蝋を見る」という言葉によって欺かれるが、目で見ていると思っているものを、私の精神のうちに在る判断の能力によってのみ理解しているのが深層である。

[14]  蜜蝋が何か完全に認識したのは感覚や想像力による認識ではなく、たとえ私の判断に誤りがあるとしても、蜜蝋を人間精神なしには実際にそのように認識できないのである。

[15] 私が蜜蝋を見ることから蜜蝋が存在すると判断するなら、私が蜜蝋を見ることから私自身もまた存在することが明らかになる。私が見ているものが実は蜜蝋ではないということがありうるが、「私が見る」と考えている私自身は存在する、という結論に帰結するのである。

「結局、私は私の欲していたところにおのずから帰還したのである。というのも、物体そのものは本来、感覚や想像の能力によってではなく、一人知性によって認識されること、そして触れたりみたりすることによってではなく、ただ知性で理解することによってのみ認識されることが、いまや私に知られているので、私は、私の精神ほど容易にまた明証的に、私によって認識されるものは何もないことが明らかに知るからである。」

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