テーマ:「私にとって哲学とは?」 18名 場所:イヴのもり
●ストレートなテーマだけれど、自分で考えてみると、これまた難しいなと思い2,3週間考えていました。
朝日新聞で鷲田さんの折々の言葉を書かれているけれど、それを読んでいて、自分にとって哲学とは一つの答えは、自分がいま、今日存在している、生きていることに対する答えをほしがっている自分に気付いた。自分が生きていることへの応答、でもあり、その答えを問うものだなという答えにたどり着きました。
●私も問いかけという言葉がひらめいたのだけれども、自分にとって一番何が大切かと問いかけることが哲学じゃないかな。対象が自分自身ということもあるし、他者や社会全般ということにもなるけれど、そして自分の中に価値観を創り出して行動していくことが哲学になるのだと思います。
●わたしにとって哲学とは、他人を理解し、寄り添う能力を高める魔法の学問です。わたしが仕事上で関わる病気で、幻覚や幻聴の症状が著明な方がいます。最初の頃は、その方といるのが苦痛で仕方ありませんでした。何を考えているのか、なぜ声かけを無視するのか、なぜ硬直しているのか、なぜごはんを食べないのか。もしかしたら介護拒否なのかなって、行動のすべてが全くわからなかったんです。
その方の病気をたくさん調べて勉強しました。そして医療的なケアの部分はある程度は理解しました。
それでもその人との関係性は深まりませんでした。わたしはその方のこと嫌いになりそうで、なるべく避けたいと思うようになりました。
でもあるとき、食事を提供しようと用意しているあいだ、着席して待っているその方を何気なく見ると、何もないテーブルの上をティッシュで軽く叩いていたんです。まるで虫でもつぶすみたいに。わたしは近寄って「虫いたの?」と聞いて、どうせ答えてくれないから勝手に虫退治の手伝いをしました。見えないけど。そうしたらその方が、わたしが叩いていたより30cmくらい逆方向を指差して「そっちにも」と言ってくれたのでした。見えねえよと思いましたが、わたしは嬉しくて、ずっと叩きました。しばらく指示どおりに叩いていたら虫はようやく全滅したのか、初めて「ありがとう」って言ってもらえました。とても嬉しくて楽しかった記憶です。
その方には感じて、わたしにわからない、そこにいる虫や小人。でも、わたしには感じないというだけで、果たして本当にこの世界に存在しないと言えるのか。わたしが見えているその雑草だって、もしかしたらわたしの頭が勝手に作り出した映像かもしれないのに。
好きで参加していたてつカフェと自分の職業が初めてつながった時でした。その時にわたしは、きれいごと抜きに「この人の人生に寄り添える!」と思いました。その方がいると言うなら、わたしに感じるか感じないかは関係なく、いるでいいじゃないか、と。
それ以来、その方と過ごすのが楽しくなりました。毎朝「おはよう、わたしの顔みて!わかる?」と聞きます。そうすると「あなたはわかるけど、あの天井にいる人は誰?」と聞かれます。場所は天井じゃなくタンスの裏のこともあります。わたしは「誰だかわかんな〜い」と答えます。いるらしいので、いないとは言えません。見えないけど。ときどき、わたしのこともわからないみたいです。オペラ座の怪人みたいなマスクがついている日があるようです。そういうときは硬直したまま動かないので、顔を見ないでしばらく自分1人でおしゃべりしたり歌ったりします。
そんなふうに、彼女の見え方が日々わたしと全く違うことをすんなり受け入れられたのは、てつがくカフェで培った習慣のおかげだと思います。たまに本当に突飛なことを言われ困惑はしますけど、その人がわたしと同じ見え方をしていないことが、わたしには不安ではないのです。それがわたしにとっての「てつがく」の魔法です。
●存在への応答というところへ述べたので、今の意見にある他者へ寄り添うという応答という意見に僕ちょっと感動しちゃった。
●私は生きづらさとは何かと考えていた時に、語られうるものではないんじゃないかと思っていて、もしかしたらこの場に行ければそのことをかたりあえるんじゃないかと思って参加していました。言葉にならないものを言葉にする過程になのかなと思っていました。自分はどう思っていても他の人たちはどのように物事を見ているのかなと思って参加しています。
●僕は哲学をやって生きやすくなったなと思っています。哲学というのは一つは何でもいいから根本的に疑ってかかることだと思っていて、それは普通はしない。普通は常識を身に着けて大人になっていくものだけれど、常識にがんじがらめになっていたものを疑ってかかって、生きづらさが解消されているなというのが一点です。もう一点は、哲学を勉強し始めてみると、難解な哲学者がたくさんいて、哲学体系を作り上げて、そのあとにすぐぼこぼこにされる。哲学の歴史を見てみると、これしかないよという歴史を見ていると正解はないんだねということを知って楽になったかなと思っています。
●私も若干哲学の先生のところにいたんですけれど、人それぞれの悩みや常識を疑う空間が、だったので、私も田舎の常識が嫌で首都圏の大学の倫理学を受けて、パーソナルイズポリティカルという、個人の悩みは社会の問題になるということ、その常識を疑うというが好きでした。一般企業に入って考えないで生活できれば楽なんでしょうけれど、考えるようになっているというか、疑うことはしているように生きています。
●生きづらさと同じことだと思うんですけれど、若いころから世界への違和感があちこち自分の中にあって、それほど深刻なことはなくきたんですけれど、40代の時に、この世界の仕組みとか人間の仕組みってどうなっているんだろうと思い始めたんですね。それを自分で調べ始めたら、たくさんのブロックのボードゲームみたいなのがあるとしたら、次はこれが見えた次はこれが見えたという風に全体像が見えてきたら、とても楽になった。楽になって、自分の中に余裕ができて楽しさにもつながってきた。次はどのボードが見えなくなっていくんだろう、と自分の中の何かができてきて、それがボードのどこかとうまく合ったときに、ああこれかと。こういう場で私と違う人がいろいろ教えてくれることで、自分の哲学が愛と知という風に理解すると、他者の違った意見を自分に取り入れていくと自分の狭い見方がよく見えてきたという喜びがもたらされ、これから何が見えるんだろうという楽しみがあります。
●哲学って自分だけで突き詰めていくイメージがあるんですけれど、この場は他者の意見を聞きながら考えるという点で、そのイメージとは異なるものでした。
●来月でてつがくカフェ@ふくしまは5年になりますが、哲学を専門に研究していると自分で研究しているときは、それこそ自分で考える営みだったものが、やっぱり哲学カフェとは異なる。それがどう違うのか、どうつながるのかというのは、興味深いなと思っていました。なので、哲学とは何かという問いもそうですが、哲学カフェとは何かという問いについても話し合えればありがたいです。
●子供のころから人生とは何かとか考えていて、こんだけ考えているのは自分だけだろうとと思っていたんだけれど、そしたらみんな考えているんだなと気づいて、自分で考えたことは誰かが考えていることなんだなと思った。みんなこういうこと考えていたんだということを知って、安心したというか。
●「みんな」というのは誰?
●もちろん、先人とかだけれど、哲学カフェに集う人もそうです。
●それ以外の人は考えていない気がするんだけれど。
●どうかな。「みんな」って結構広げられる気がするけれど。
●私も高校時代に何のために生きるんだろうと考えて、武者小路実篤なんか読んだ気がする。
●僕が大学生のときにオウム真理教の地下鉄サリン事件があったんだけれど、あの時のオウムの若者がなぜ凶行に走ったのかというのは、直感的にわかる気がしたんですね。バブル崩壊後に学生生活が始まったとはいえ、大学はまだまだレジャーランドの雰囲気があって、それこそ『人生とは何か?』みたいな話はお互いに野暮な話だとして、話せる雰囲気がなかったんですね。でも、そういう問題を真剣に考えていきたいという若者が、オウムのような団体に回収されていったという問題は、実感としてわかる気がするんです。
●僕は大学時代にS学会という宗教団体に入信したことがあるんですね。僕は社会思想を研究したいと思っていただけなんだけれど、話を聴いて入信しちゃったんだけれど、別に悩みや生きづらさや苦しさを感じてはいったわけではなかったんですね。いいことがあったら前世の徳だと説明され、悪いことがあっても前世の魔と説明され、それってどっちに転がっても説明できるじゃんと思ったときに、脱会することができたんです。この経験を通じて、信じると疑うこと、答えをくれるのが宗教であって、それは信じなきゃいけないのが宗教だけれど、哲学はどんな大哲学者でも疑いをかけていく。最後の最後は信じるのか疑うのかというところで異なっていると思います。
●哲学やったことないので、哲学って何といわれると困るんですけれど、自分の中に最低3人の自分がいて、賛成する自分と反対する自分と斜め上から見る自分がいて、脳内会議をやって、答えを出すときってその3人4人の自分を統合する作業が哲学だと思っています。哲学カフェって普段無意識でやっているからあまり考えないけれど、ここは脳内会議を発展させられる。ここで発散するスポーツみたいなものだと思います。
●感情で動く、賛成反対によって脳内が動くだけではなく、社会的な立場で脳内会議が変わる自分がいる。つまり、自分の中でいくつか分かれていて、自分の場合答えが出なくて、それがすごく疲れちゃうんです。その時に哲学をすると楽になるとおっしゃっていましたが、常識的に考えれば楽なのに、苦しんじゃうのでここにきてその苦しみをみんなで共有したいのです。
●自分がいま置かれている状況から距離が置ける。一瞬当事者から離れられて、楽になれるという面があります。
●もしかすると、自分中心に考えちゃうから疲れちゃうのかも。
●逆に、自分のことを考えていると楽じゃないですか。他者のことを考えるとつらくないですか。
●自分のことだけ考えているときだけは楽だけれど、私は哲カフェに安心感を持って参加できるのは、自分のことだけを考えなくて済むというか。ここにくるとみんな変だから、安心できます。社会に適応していかなきゃいけない自分から解放されてここにいるときはすごく楽です。
●ここのカフェに通い始めて間もないのですが、私も学校では保健室で過ごした時間が長くて、保健室はいじめっ子といじめられっ子が一緒にいてもトラブルが発生しなかったのだけれど、それに近い気がしています。哲学ってなんだかよくわからないけれど、それでも居心地が悪いわけでもなく、なんとなくいられる。何かを得られるところが安心していられます。
●今のなんとなくいられるって、いい言葉ですね。ここでは話さなくてもいいし、場を壊す発言をしてもいいし。
●保健室の居心地の良さというのは、色々な意見があることをゆっくり思わせてくれる。そのままでOK、いていいというのが愛だと思うので、哲学の愛知ということと結びつくのだと思う。そういう組織が理想だと思う。
●これまでの意見というのは、とても肯定的で哲カフェの世話人としてはとてもありがたく思います。でも、一方で哲学の世界では、哲学カフェなんて哲学じゃないという人だっています。それで、あえて問いたいのですが、それは色々な意見が許容される空間といっていながら、誰でも参加を拒まないと言いながら、ほんとうにそうなのか。僕はそれを公共性という言葉で表現してきたけれど、じゃ誰でも参入可能という意味での公共的な空間はありうるのか、という問いです。たとえば、ヘイトスピーチのような人たちでもこの場にきて対等に対話することは可能かいう問いです。
●哲学の大学院というのは、きっちりつめて戦って自分の解釈を戦わせる議論の場なのですね。それが哲学の場だと思っていたんだけれど、これはこれ意味があって、哲学の出発点は対話だと思うから、とことん議論しあうと、それはそれで哲学のイメージに近づくんだけれど、これはこれでありかなとも思うんですが。
●そもそも公共性なんてはありうるのかと思いました。結局、公共性はあり得ないんじゃないかと思って、こういう場も含めて、こういう場に集まった人。それぞれの場が色々あって公共性なのではないか。こういう場の一つ一つの集合が公共性なのかなと思う。
●哲学カフェは福祉とか社会からこぼれた人が力をえられる場として意味があるのだと思います。どうして公共性でなければいけないのか意味がわからない。
●僕が哲学カフェを取り組むときには民主主義の危機という問題意識があって、民主主義の原点であった古代ギリシアのアテネに憧れがあって。もともと僕は公共性というのはとても大事だと思っていて、みんながとことん語り合って、何かを作っていく場を作りたかったということがある。あるべき民主主義社会につながっていってほしいと思うんだけれど、哲学カフェはそこにつながることがあるんだろうかということも思いがないわけではない。この先民主主義の再生はありうるんだろうかと思うところがあります。
●私は公共を念頭に哲学カフェが終わった後に、それが実践できるかを考えてしまう。「保健室」を出てからその先なんですよ。そこを出て何ができるか。先ほどオウム真理教事件の話がありましたが、私の場合は秋葉原事件に同情してしまったのです。民主主義が崩壊したとおっしゃっていましたが、それは対話がなくなってしまったからだと思うんです。対話がなくなったところから、それをどう再生できるかという点で、哲学カフェはとても画期的だと思ったのです。公共の場に戻ったときに、そこで哲学があるんだなと思ったときに、情があって考え方の多様性があってと考えることができる。哲学と哲学カフェの違いというのは、哲学はアカデミックな世界ですが、哲学カフェは情を感じることができる。文字は見えないんだけれど、それを言葉の端々から感じることができる。哲学カフェにはテーマに自分で考え、対話し、明日から実践に移そうという気持ちになれることが、この場の一番いいところだなと思いました。
●聞くということは、聴きあうということはそれぞれの存在を響かれるということ、それが心地よいんです。自治会でもPTAの中でもこういう対話を実践したいんだけれど、疑義を提示すると変な奴だと思われる。そうじゃなくて、色々な意見を交わしあうことで成熟して結論を出すのが民主主義。
●ハワイにも、ホーポノポノという昔から伝わる哲学があるんですけれど、みんなが同じ立場になって意見を言い合いましょうという文化があるんだけれど、日本ではそれが成り立たない。それぞれが意見を言い合える場を持つというのがとても難しくて、いつもそれを引き出せなくて悩むことがあります。みんな実は、話し合うのは面倒くさいし、誰かの指示に従った方がいいと思っているんじゃないかな。
●僕はそれは慣れていないだけだと思う。
●僕も慣れの問題だと思う。公共性という話になったけれど、哲カフェのルールに賛成できる人たちが参加できるだけだから、これは誰に対しても開かれているんじゃないかな。
●先ほど上げた哲学カフェの公共性への問いかけに関してです。そもそも哲学と民主主義のあいだには折り合いがつかないという問題があります。先ほどから上がっているように、哲学は社会の常識をラディカルに問うわけですから、そもそも反社会的な側面があります。それが民主主義とどう折り合うのかという問題がありました。でも、僕はその哲学のラディカルさは民主主義を支える上で結びつくと考えているんですね。だから、この場そのものを問い直すことだって、むしろ必要なことだし、それがなくなってしまえば単なる同質集団に過ぎないのではないか、ということです。問題は、この場が理解できない他者を排除していないだろうか、という問いを持つということです。それに疑問を付さなければ、多様な意見を保障すると言いながらも矛盾を犯さないだろうか、という問いです。先ほど、この場は参加者の意見の言葉から情を感じるという意見もありました。僕もそれは賛成します。けれど、情というものがこの場を結びつけるのだとしたら、それこそ同質集団になってしまうのではないか、という問いです。
●聞くということは相手を認めること、というのは気づかされたことで。ルールが公共性を担保するというのはその通りだなと思うけど、国会はヤジがひどくて聞きあおうとしないことが民主主義の崩壊につながっているんだと思う。聞くというができて、それは向こうにも聞くということができて、それが民主主義の再生につながるのかなと思っている。
●なぜ、意見が違うから話せないというのがわからない。
●ヘイトスピーチという話もあったけれど、いかなる団体組織があったとしても、どうしてそういう過程になったのというところに関心があります。彼らと対話することは大事だけれど、ともに考えるというヘイトスピーチという風に考えない方がうまく対話ができるのかなと思います。日本人は何かに所属していたい、守られていたい、というところがある。彼らの正当性を聴く側がどのようにしてとらえるかが大切だと思います。
●オウムもそうだけれど、どうしてそこまで行っちゃったの、というその前の時点で何かをできることがあったのでは。個人として尊重されることが成熟していないと、いけないんじゃないかな。
●個人が尊重されるということで、一人の人間として失敗することをフォローする度量があって初めて民主主義であり、公共性であると思う。
●ヘイトスピーチを悪と決めつけないのは大事だけれど、信じる人というのは信じない人を拒んでしまう。民主主義では100パーセントの答えはない。50パーセントの民主主義。
●100パーセントを目指さない。それでは全体主義になってしまう。
●もちろん、そのとおりですね。僕はヘイトスピーチの考え方をまったく理解できないし、賛成できない。だからといって自分が100%正しいというつもりもありません。僕の方が誤っていることだってありうるんじゃないか。それが前提にあって対話が求められるのだと思います。
●なぜ対話をするのか?先ほどからヘイトスピーチの人でも参加できるかどうかという話題が上がっていましたが、なぜ、そこまで対話を求めるのでしょうか?
●それは理解したいからです。先ほどの意見にもありましたが、なぜ、彼らがそういう思考にいってしまったのか。それを理解したいからなのだと思います。
●それと、人間は変わるかもしれないということもあるよね。お互いに理解し合えないかもしれないけれど、もしかしたら対話を通じて人間は変われるのかもしれないということだよね。
●それもありますね。それに関して言うと中
国帰還者連絡会が例として興味深いです。彼らは、中国の撫順戦犯管理所に 戦争犯罪人として抑留されていたときに、日々自分たちが戦時中に中国において何を為したかを対話と反省において自覚していったといいます。もっとも、彼らは戦後日本へ帰還した際に中国共産党に洗脳されたとバッシングされたわけですが、その当時は自分が正しいと思っていたことが、誤っていたということに気づくという点では変わりうるという点に希望を持つということはありますね。だからといって、相手の考え方を変えたいというわけではありません。相手も自分の考え方も「変わりうる」という可能性があるからこそ、対話が存在するということなのだと思います。
●対話するときに、自分の枠を持っちゃうと、枠対枠との戦いになっちゃうと思う。もし、その相手がイスラム国に参加しているとなると平等な対話ができない。だから、ヘイトスピーチの人とか、イスラム国の人といった枠を外した対話の中で、その人を理解していくことが大切だと思います。
●今までの議論を聞いていてもやっぱり意味が分からない。なんで、この場に公共性が必要なのか。ヘイトスピーチの人たちだって理解されたいと思っているわけじゃないと思います。だから、彼らを理解しようなんて傲慢じゃないですか。別に彼らがこの場にくる必要もないし、この場で話が通じる人たちで理解し合えるだけで十分じゃないですか。哲カフェの場が常連ばっかりになって、なれ合いの場になってきているからといって、それで哲学カフェを辞めるなんて話には納得がいきません。
●この場を共有できている人たちの考えは理解できるという態度こそ傲慢だと思います。僕は理解できない他者だからこそ、理解したいと思っているだけです。それから、この場が同質集団になってきているから哲学カフェをやめるなんて話は、どこから出てきたのですか?まったく意味が分かりません。