てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第2回アートdeてつがくカフェ報告―IN はじまりの美術館―

2015年11月28日 09時46分54秒 | アートdeてつがくカフェ記録
去る11月22日、猪苗代町の「はじまりの美術館」で第2回アートdeてつがくカフェが開催されました。
テーマは伊藤峰尾さんの作品群です。
哲学カフェに先立ち、峰尾さんによるワークショップと、館長の岡部さんとのお二人によるギャラリートークが行われました。

(若干予定を前倒ししてしまい、遅れて参加された方には大変ご迷惑をおかけしましたこと、伏してお詫び申し上げます。)
ワークショップには、歴代最年少の1歳の方にもご参加いただきました。
さすがにてつカフェにはご参加いただけませんでしたが、今回は15名の方々にお集まりいただき、素敵な美術館内のカフェで対話がくり広げられました。
以下かなり長いですが、対話の全記録です。


こういった描き方って、今自分がやろうとしてもできないと思い、すごく斬新で羨ましいと思いました。

こういう描き方ができないというのは、どういうことですか?

やっぱり、微妙にはみ出たりとか、私たちはきっちりきれいに描かないといけないということが身に沁みついていて、微妙にバランスを崩しているようなところが、逆に書いてみると難しいような気がします。

描こうと思っても描けない?昔は描けたということですか?

おそらく5歳3歳の頃ならば書けた。自由にもっと描いていたんじゃないかな

僕もそう。子どもの頃、すごく絵を描くことが好きだったのに、たぶん学校でうまく書かなければいけないと思った瞬間から、図工で落ちこぼれた記憶があって、その前の時代のことをもいだして、急に描きたくなって描かせてほしいといって、さっき名前を描きだしました。



それはどういう気持ちで書いていたんですか?

ビデオでも伊藤さんの創作風景を見させてもらったし、目の前でジーッと字を書いている伊藤さんの描く姿に、こんなに一本一本の線を大事に描いていなかったなぁと思い、うまいか下手かをばかり気にして描いていたなあと思っていて、文字をこんなに時間をかけてゆっくり描いていることがすごく楽しかったです。

私もパッと見たときにものすごく楽しいだろうなと感じました。言葉の意味が面白いというよりは字が飛び出していて、ちっちゃい子なんかは描きたくなるだろうなと思いました。



福祉と美術をどうかかわっているのか教えて下さい。

この美術館の社会福祉法人が運営母体なのですが、私たちが仕事に出かけているように、知的に障がいがある方も、作業場で仕事に代わって何か日中の活動として、造形や絵を描く捜索活動に取り組んでいて、その支援をしている中で、ものすごく面白いものが生まれている。それで、ここだけで留めているのはもったいないと思うのがありありとあって、それがこの活動のきっかけだった。精神障害者の方を知ってもらうための足掛かりになるように始まったのがべーすにあります。

私も養護学校に勤めていて、たしかに、もったいないと思う作品がたくさんあって、どうしたらいいのかなと思っていました。

目の前に障害がある人に関心を持ってもらう前に、こんな面白いのがあるんだけれどどうですか、と作品を提示した後に、実はその方に障害があるということを知ってもらい関心をもってもらえればと思ったのですね。

障がいがアートの価値にフィルターをかけてしまうのか、それとも関係なしに純粋なアートとして評価はできるのでしょうか?

楽しいと皆さん感じていたのだけれど、伊藤さんの作品は、言葉だとあまりうまく表現できないけれど、絵や文字で自分を表現する楽しみと、言葉だと受け止められないけれど、文字によって別世界を捉えているのだなと理解することができると思います。その障害という理由があるから楽しむができると感じました。

楽しむという言葉が出ているんですが、それよりもコミュニケーションが、その作品を通じて成立する、その橋渡しとしてその表現されたものがあるなとすごく感じています。いわゆる美術品とか、アートとは明らかに違う。でも、それに並ぶものもときドーンとあったりするけれど、それとは別にその人の存在に一目を置く、認めると言った意味にこの作品はなるなぁと思っています。

すると、伊藤さんの作業そのものを観ている必要があるのでしょうか?

いや、あの作品の中にその姿勢は表れているのだと思います。先ほど、子どもの頃なら描けたという、ヘタウマとは異なる、完成された線を峰尾さんの作品から感じられたのですよ。あの揺るぎの内線なんかほれぼれしますよね。名前の筆跡もそう。熟練の成果だと思った。楽しむというより、造り続けているという感じがする。そういう意識なんじゃないかな。

そうですね。たしかに「楽しんでいる」というよりは、職人みたいなイメージがありましたね。

これは誰かが見て、自分の絵を見て楽しんでもらうために企画していのでしょうか?

アールブリュットが、ここ10年ほどでじわじわ認知度が上がっていますけれど、いちばんはその人たちの存在と力が、障碍者と遠ざけていたものを、ちゃんと向き合うようにしてくれたのではないでしょうか。

今のお話に関して言うと、アールブリュットの取り組みを国内でされている方のお一人が、アールブリュットと障がい者との関係を、「立つ瀬」という言い方をしていたことを思い出しました。その方が社会の中で存在意義を見直されるような観点に似ているなと思いました。どうしても、障がいを持っている方というのは、お世話になるとか、お世話しなきゃというイメージを持たれてしまいますが、そうではなくて、その人の役割が生まれるものかなということです。

その人の存在ということと立つ瀬が結びつくというのは、この作品が社会とその人の存在を媒介するものだということですかね。



いま、感じていることは芸術とは何なんだ、ということです。

私も、まったくそう思っていました。もっと言うと学校で習っていたあれは何だったのか、という問題ですね。

社会とつながる媒体は他にもあると思うのだけれど、あれがアートだと言えるのは、どこにあるのか?アートとして価値があるのはどこにあるのか?

もし、その伊藤峰尾さんの障がいを知らずにこの美術館に来た場合と、知らずに見に来た場合には違うんだろうか。私は知ってきたので、そのイメージを持っているのですが、その辺のことを聞きたいです。

まったく知らずに来られた方はいらっしゃいますか?

はい。私は知らずに来たのですが、独特な感じの感性があるなと思っていて、私も字よりも顔の方が面白いと思うけれど海外で評価されたのは文字の方であるというと、アートの方が受けるというのは価値観が違うのかな。



そこにはオリエンタリズムがあって、それで認められたということもあるのではないでしょうか。

そういう意味でアートや芸術というものを認めるというか、読み取るというか、その価値を認める感性は、日本の場合、フランスを経由しないと認めるということはなかったけれど、日本の浮世絵の絵師たちが見ていたら、僕は認めたような気がするんですね。そういうところまで、いっているかどうかの話だと思う。

西洋の芸術を媒介にしなくても、価値があったということですか?

フランスのある人たちが見て、評価したというのは彼らの感度の方がよかったと言うだけの話です。ただ、日本にもぜんぜんいなかったかと言えば、江戸の絵師や岡本太郎が見たら評価したんじゃないかな。

フランスから認められたから、これがアートとして成立したというのはどうなのかな?

フランスに認められたというよりは、日本の現代社会の中では失われていたものに風穴をあけたというだけじゃないかな。

それは、「芸術作品としての客観的なレベルがある」という立場のような気がするんだけれど、僕はそもそも学校で美術を習って、特に現代美術にふれたとき「?」と思ったタイプで、なんだ客観的な価値なんてなくて、画商が主観的に「イイ」って言ったらイイってことになるんじゃないかと思って、時代時代によって変わるものなのだろうと思ってしまいました。ある時代までは美しく技術を高めて描くというのがあった気もするんだけれど、いつからかそれが壊れてしまって、あとはその価値を主観的に決める人がいるかいないかというだけの問題になっているだけじゃないかな。そこが僕とは対立しているかなと思いました。

いや、考えとしては同じです。音楽も含めて、芸術には、みんなその作用が働いている気がしています。

僕もお二人は同じ考えだと思っていて、こういう絵を見て、見ただけではそのすごさがわからないので言語化できなくて、ピカソの価値もわからなかった。見ただけですごいことは感じられるのだけれど、それがなぜなのかはわからない。だから、それを見て説明してくれる人がいないといけない。芸術はすごいと感じられるけれど、わかることとは違うと思う。だから、芸術を評価する媒介者がコミュニケーションツールとしていないと、わかりあえないのではないでしょうか。

現代アートの何がすごいかというと、何でもありに見えるんですけれど、今までのアートの流れや文脈を乗り越えて、この作品が生まれて評価されたかという点にあるのですが、峰尾さんの作品の場合は、そういうものとは別に、個人的な人生の中での文脈の中で生まれてきたというものとして、そういう系譜とは区別できるのではないかと思います。

その作品に対して評価者というか、芸術の専門家しか評価できないのか。

そういう系譜とは関係ないということで、アールブリュット、生の芸術ということなんでしょうね。

どこからがアールブリュットなのか。誰かの価値判断が入ってアートなのか?そうではなくて、それ自体に価値があってアートなのか?アートの語源は技術ですが、技術をもって芸術性を入れてつくられた表現の受け手がいて成立するもので、精神的な反応を受けるもの、それは誰かが評価したからアートになるのではないのかなと思うんです。だから我々の仕事は、これはアートだと紹介しているわけではなくて、おもしろいよねと紹介しているところなんですよね。

アートは、この社会を作っている営みだけれど、その中でこの社会を豊かにするものを生み出す技をふるう人、それをアーティストと呼ぶんじゃないかな。

峰尾さんの絵を見て書きたくなるのも一つだし、誰かに説明されなくても刺激されるものもある。それがどこかに潜んでいて、生活の中に出てきてプラスに作用する人なのかな。種をまくすべを持っている人なのかな。

それを社会とつなげるのが難しいなと、いつも思うんです。展示の仕方とか。たくさんあるんだけれど、認めてもらえるように社会とつなげて。

紹介の仕方、展示の仕方を含めて正解がなくて、試行錯誤しながらやっているんだけれど、障がい者の作品だと思ってこられた方と、そうじゃない方との場合との見え方の違いも美術館側としては意識しなくてはいけない。でも、何でキャッチされるかはわからない。

そうすると、誰かの反応がアートの条件ということになるということでしょうか。

専門家がいそうなのであまり言いたくないんだけれど、有名な作家の作品を展示してありがたがってみるという鑑賞の仕方が一方にあるけれど、それとは別に、ワークショップは皆が参加してやる別のアートの在り方があって、それは対極的。楽しむという意味でいうと、もっと身近にあっていいし、線引きなんかしなくていいと思うんだけれど、それはそれで一つのアートとしてあっていい。けれど、音楽と同じように美楽というか、それは身近にあっていいと思う。それとは別の芸術性は別のところにあっていいのかもしれない。

芸術性のあるアートと楽しむアートは別だということですね。

学校教育では美術教育としてやっているけれど、それは技術を教えているんだけれど、その前にある表現したいという衝動があって、その前に技術の方が先に教えられることで、衝動を失わせてしまうんじゃないかな。

そこに専門家という考え方から、カネになる将来への道筋というところに特化して考えると,俺は無理とか、やっても意味がないという風にしかならないのではないかな。

役に立つ、役に立たないの話になっちゃうしね。

教養にも入れられちゃっているよね。人として知っておきなさいとかね。

でも、美術の授業と勝手、あなたが表現したいことを表現していいよといっても、そんなに表現したことがないようで、逆に、技術があって初めて表現することができることがある。

手がかりがあって、はじめて書きたい文章も書けるしね。



アールブリュットは、表現したいことがあって表現しているものなのですか?

そうですね。アールブリュットの定義の一つには内なる衝動に従って表現されたものとか、正規の美術教育を受けていないというものがあるんですが、自分たちの取り組みの中では、その定義と相いれないものも出てきたり、障がい者の作品がいわゆるそうだという見られ方をされてきているところも危惧されているところです。

でも、それでかえって保障される気がするんですが。

アールブリュットがその人の居場所という意味で保障されるという意味では、たしかに。

言い方は悪いけれど、それで保障されると社会からの見方も、すごいなとわかってもらえた方が手っ取り早いかなと思いますが。

美術館を運営する自分たちも、そこはすごく感じていて、障がいに関する理解が欲しいとか、地位向上は別にあるので、アールブリュットという国際的な基準に位置づけられるということは保障されるんだけれど、逆にそこに縛られちゃうというか、そこで新たな区別や差別も生んでいるのは確かなんですよね。ま、ステップだとは思っているんですが。で、結局、最初の話に戻ると、アールブリュットとアートは何が違うんだ、ということになるんですよね。なぜ、アールブリュットと言わなければいけないのだ、と。

正当な美術制度からも自由なのがアールブリュットの意義だったはずなのに、アールブリュットが制度化されてしまうと、制度からから自由になろうとしたものが、元も子もなくなってしまいますよね。

そもそもアートが正規の美術教育をけた人だけの特権なのか、ということになってしまうし、そうじゃないよねという逆転の発想もあるし、アートの定義に照らしても、そんな正規の美術教育を受けることが成立条件だとされてはいない。その人の持っている技術で、創造性をもってつくられたものが、誰かの心に響くということがアートだとしたら、アールブリュットに垣根はないのかなと思う。けれど、ずるいですけれど、ステップとしては使ってしまっていますね。

少し前の話に戻りますが、芸術を表現しようという衝動が誰にでもあるのか、ないのか?

個人的な話ですが、ウェブのデザインを仕事にしている中で、美術が実は嫌いだったんですが、美術をやってきた人はこだわりがある分だけ、実際には使いにくいデザインが多いんです。夫は音楽関係の仕事をしていて、彼はアーティスティックなことをしているんですが、彼は追及していくタイプですが、その分、欠けている部分もあります。だから、芸術への情熱なんかは特別なものなのかなと思うところがあります。

はじめは中学校で教えていたのですが、養護学校での勤務になってから自分も自由になった気がします。テーマをもって中学生に自分の気持ちを表現しなさいと言っても、言って書かせるもんじゃないなと思いました。

高校で美術を教えているんですが、ついつい生徒には表現したいものがあるでしょと言いがちなんですが、私はどちらかというと表現したいものが先にあるのはすてきだなと思うのですが、私はどちらかというと技術から先に入るタイプで、自分で表現したいものが何なのか、今でも悩んでいます。

やっぱり何もないところから何かを生み出すのというのは、一般的に抱かれがちな幻想で、ある程度外部から刺激があってはじめて自分の表現ができると考えられるのではないかと思います。生きていて違和感とか感じることとか葛藤があって、何か生まれてくることはあるケースもあるとは思いますが、皆がみんなあるわけではない。そういう人には無理に表出させなくても、遊び心から創作させるやり方もあるのかなと思いました。

峰尾さんも最初から絵を描こうとしていたわけではないですよね。最初は、お父さんに名前くらい書けるようになれと言われて、ひたすら職人のように名前を描いていた。そのうち、なぜかそれが意図せずに作品として評価されるようになっていったのだろうけれど、本人は作品を作っている意識はなかったのですよね。

ぞうですね。作品をつくっていると意識してきたのは、評価され始まったからじゃないかなと思います。

日本人って、ほとんどアートとか芸術という言葉は、輸入されてきた言葉なので、江戸時代に人たちも自分たちは芸術をやっているなんて思っていたわけではないし、技法という言葉も当時の明治期に輸入されて、無理やりつくられた概念の上に今の我々があるということだと思います。そこから入って説明すればするほど、わからなくなってしまうのではないかと思います。

職人というならいいですよね。江戸時代の絵師たちは、飯の種として仕事をしていた職人さんたちですよね。もっと直接的に言うと生きる糧のために仕事していた人たちですよね。

一連の会話の中で大事なポイントがあったなと自分なりに思ったのですが、自分で何か表明したいのがアートだとすると、峰尾さんは自分の名前の練習をしていただけで、あとからアートだと評価されて初めてどうなったわけですよね。すると、別に内からの衝動とアートの因果関係はないのではないかなと思いました。

写経のように練習していた時というのは、それ自体は訓練だったのが、それが評価されたときに自分の存在が認められたというのは大きいのかもしれないね。

あの展示物は実際に練習されたものなんですか?

そうですね。日ごろの日課になっているものです。

そうすると、芸術は日本人にとってはフィクションだし、後付けのものだということになる。
峰尾さんの作品を見るときに、何の知識がなくても、文字って誰でも書けるじゃないですか、だから峰雄さんの作品みたいなものは、誰でも想像しやすいんですよ。時間とか、そのときの心情とか。そこから手がかりにして、ひたむきさの感情というか、そのときの心情とかを観る人がもっと膨らませて、感情を感じられるだけでいいんじゃないかなと感じ、それをアートとして見ようとしなくてもいいし、紹介するときに、「これは芸術だ」とか「アートだ」とかは、知らない人には邪魔になるだけかもしれません。

「障がい者」というのも邪魔になるかもしれないですよね。

「私は芸術わからないから」といっちゃうことも邪魔かなと。

よく、大人の人たちが言うことですけれど、ピカソもしっかりした絵を描いて、練習した時代があったうえでキュビズムにいったと言いますよね。あまり好きじゃないけれど、先日ネットでホリエモンが言っていたんですけれど、お寿司屋さんの弟子として修業したことのない人が、パリで三ツ星レストランを取ったとかなんとかということで、修行とか訓練とか関係ないんだということを書いていました。そこから先がうまく言えないんですが…

旨けりゃいいんだということだよね。

修行しないと、そういうレベルになれないんだという神話が必要な人たちがいるんだという話なんですよ。

それにつながるようなことをさっき思っていたんですが、それが芸術であろうが何であろうがいいけれど、これに表されているものに何かを感じてしまって、これは何を表しているんだろうと、こちら側が勝手に色々考えて何かを読み取って。たとえば、その前に柿がたわわになっているんですよね。これと伊藤さんの作品が同じだと感じた。これもいのち、いのち、いのち。どちらも「いのち」が表されているんだと読み取って悦にいっていたんです。だから、寿司を出されて誰が創ろうと、こっちが味わっちゃう。認めるのに何も条件はいらない。

それはすべてをカッコに入れるというか。誰が創ったとか、出自だとか関係なく判定できるということですかね。

という受け止め方を僕らはできるはず。ただ、認める眼力というのは、それになりに熟練を経た人の目に適うものがそこに備わってしまっていて、そこに見出す人があるというものだと思うけれど。それはまた別の話だと思うんです。

そこにもうちょっとこだわりたいですね。やっぱり眼力は必要なんですかね。

いや、眼力を持っちゃった人は世の中にはいる。

岡部さんの最初の話ですよ、これはアートですと紹介するのではなく、これいいなと思ったものをどうだろうかと知ってもらいたいとおっしゃっていましたが、それこそ美術教育を受けた人じゃないと評価できないのか。そういう眼力を持った人が評価すると価値の高い作品になるのか。そのへんを聞きたいな。

それはひっくり返されることが絶対あると思うんですよ。たまに小学生と美術館でいっしょに鑑賞することがあるんですけれど、その時に難しいことを考えたり言ったりしている先生よりも、小学生や中学生の方がズバッと本質をつかんでしまう時があって、何も説明していなくても、それを作品からキャッチできることがある。いくつかの段階はあるかもしれないけれど、経験とか年齢にこだわらずそういうものがあるということを信じたいな。



ゴッホみたいに生きている間には見向きもされなかった作品が、突然評価され始めちゃう仕組みってどうなっているの?

やっぱり、よく言われるように時代が追いついたということじゃないですか。

その時代が追いつくって何?

小学生が評価したものがすべて時代の最先端の芸術になるとは、私は思いませんが、今言ったようにその本質をつかむことができる子たちがいて、その中で新しい時代の価値観が飛び出して、それが時代の最先端ということになっていくと思うんですけれど、私は別に皆が最先端になる必要はないと思っていて、自分が好きだと思ったやつをやっていけば、何より自分のためになると思うんです。

私は高校の美術講師をやっていて、どちらかというとデッサンとか見たものをそのまま描くのは得意としてきたんですね。でも、自分に欠けているのは、本当に表現したいという気持ちなんです。やっぱり自分は外部からの刺激が足りないなと思うんです。幅を広げていかないと表現者としていい作品が作れないなと、この場で思いましたし、これからの課題だと思いました。

会津で精神障がい者の方々と関わっているものです。今日は障碍者の伊藤さんが描いた作品ということで入ってきたんですが、まだそのへんが消えてないんですね。パッソで今も作品をつくられる環境は伊藤さんにとっては素晴らしいなと思っています。この作品がパリの人々の目に止まったというのは、伊藤さんが障がい者だからというのが拭い去れてないからのか、そうではなくアートとして認められたというところをお聞きしたいと思います。私などはとても描き続けられないのですが、これを描き続けるのは伊藤さんの特性なんだなぁと思っていました。障がい者と健常者の境目をなくして語られているこの場はうれしいなと思いました。

国内の障がいを持っている方の公募展で入選しまして、それがベースとなって海外のアールブリュットなどの展示を得意としている美術館の館長さんが選んでいるので、前提としては障がい者の作品という前提はあったと思います。

残り30分となりました。ここまでは「アートとは何か?」というテーマで展開されてきましたが、それは割と見えてきたと思います。もう一つは、福祉とアートの関係をどう位置づければいいのかという問題があります。この美術館の存在意義ともかかわると思います。

私も障害とどう向き合えばいいのか日々悩んでいます。

先ほど岡部さんは、障がい者はいないと思うとおっしゃっていましたが?

そうですね。障がいをどう定義するかにもかかわるのですが、よく言われるように医学モデルと社会モデルがあって、前者だと本人に問題があって、疾病や欠損を医療的な手当てが必要だという視点で、後者は誰でもいろんな凸凹があって、暮らしやすさに差はあるけれど、けれど社会がそれを受け入れる体制ができていないという、社会の方の問題だというものです。いまでは両者をミックスして考えられるようになっているけれど、私は社会モデルがベースになっているといいじゃないかなと、自分は思っています。それは他人ごとではなく、自分や家族もいつそうなるかわからないし。そういう点で、社会モデルからすると障がい者はいない。社会の問題として生きにくさの問題があって、そこは解決していかなければいけないと思います。

社会的に捉えるか、個人の問題として捉えるかでは、ぜんぜん見方が変わりますね。

切り口になるかわかりませんが、美術館をつくる段階で、色々なアートに関わる方にお話を聞いてきたのですが、障がいとアートは意外と似ていると思いました。実は、皆、どちらもよくわかっていない。言葉として知っていて、イメージはもっているけれど、よくわかっていない。で、わかっていないものを人はどう処理するかというと、崇めるか見下すかのどちらかなんです。フラットな関係性ができていない。アートもそう。自分のことになっていなくて他人ごとで、「自分は得意じゃない」と処理してしまう。そうなると、崇めるか見下すかは別だけれど、構造的には似ている。もう少しいうと、他人事だと言うけれど、ぜんぜん他人ごとじゃないと思うんですね。自分だって加齢とともに障害が生じている部分もあるし、その人そのものに凸凹や得意不得意があると思うんです。そういうことって、例えば、皆さんのそういう部分を知ると自分が豊かになっている。そういう観点や切り口が身につくプラスがある。アートもそうだと思うんですね。創造性というのは表したいという衝動がなかったらできないんじゃないかという話がありましたが、でも、それは出すばかりではなく、受けるのも創造力だと思うんです。すごい作品に出合った時に感受する力もそうだし、それによって何かを創りたくなるムクムクする力もみんなにあるんじゃないかな、と思うとそれは皆にある者で、人ごとにしておくのはもったいないなと思うんです。

障がいがあるのは社会の方だ。たがいに生きているこの社会を豊かにしあうもの、交換し合ってやっていけるような社会。これはきれいごとでしかないけれど、今は資本主義の役に立つ、立たないの議論でギスギスした社会になっているけれど、それはもうギリギリまで出てきちゃっているから、こっちに切り替えないといけないといけなところまで来ているんじゃないかな。震災にあったことで、よりそういうことが見えるようになったと思うんですが、今、パリで起きていることもそうだと思うんですよね。要するに片方からしか見ていない。無視され続けてきたものがあんなふうになって爆発している。でもいまだにその視点は取り挙げられない。そうすると、社会の方が障がい者なのかなと思うのです。

これはわざということなんですが、特養に勤め始めた人の話を聞くと、相互コミュニケーションがとても大変で…。今日もトークショーのときに伊藤さんが一生懸命何かを伝えようとして下さっているんだけれど、やっぱりわからない。紹介のところに「何を言っているのかわからないと言われることが嫌だ」と書いてあったけれど、やっぱりわからない。それは見下すわけでも崇めるわけでもないんだけれど、そういう個性は個性でいいんだけれど、うーん。施設にいると職員さんは利用者の方々とは通じてきちゃうもんなのですか?それとも、どこかダメなところはだめみたいなものがあるんですか?

コミュニケーションとしては、通じてくるところはあるけれど、何でもOKでないのはたしかです。先ほど社会の方がおかしいという話がありましたが、社会がもしかすると社会通念の方がおかしいというのも多々ありますが、でも、実際いまの社会で暮らしていく上では違いますよねということはお伝えしています。

それはコミュニケーションの概念をどっかで変えていかないとやっていけないなぁと思う。それは認知症の祖母と母親のやり取りを見ていると、分かり合おうとは思わないけれど付き合っていくという仕方をしないと、とてもやっていけない。知識伝達というのとは異なるコミュニケーションのあり方は問われる必要がある気がしますね。

最後の最後に分かり合えない部分ってありますよね。最後はわかる方が何とかするというか、つきあい方を覚えるというか、そういう形でしか乗り越えられないでしょう。

「わかる方」が上になっていませんか?

それはある意味で上だけれど、人間の命といのちという関係では同じという意識を持つしかないでうしょね。できる人が負担を抱えるのは、どこでも同じだし、そこまで平等を求めるのはためにする攻撃でしかない。そういうことを言っているんじゃないですよね。伊藤さんの場合は、どなたかはほぼ全部聞き取れる人がいるんでしょうか?

先ほど通じてくると言わせていただきましたが、もっと表出のない方もいらっしゃるので、そういうときのコミュニケーションというのは、僕たちの課題です。先ほどアートが人を豊かにすると言いましたが、その時の「豊かさ」とは何ですかね?

自分が生きた時間を主体的に過ごし、生きていること。そういう別にアートじゃなくてもいいんですが、ちょっと引いてすべての人がアートに関わらなくてもいい。

僕がアートが人を豊かにするといった意味は、伊藤さんからこういう見方、発見を与えていただいただけで、それ以前よりは自分は豊かにしてもらったと感じていることです。

高村幸太郎が芸術とは何かみたいなことを述べていたのですけれど、芸術は人を強くするものだというのです。それは一時的なものではなく、前に進める力のあるものみたいなことを書いていたんです。それは辞書にはない言葉で、明治期に芸術が西欧から入ってきた中で、高村自身から出た言葉で、それを指標にしてやっています。あと私の先生も、新しい価値観を提案するのがアートの仕事だとおっしゃっていました。芸術ではなくてもいい仕事って何だろうと考えているところがあって、いい仕事をしている人たちはどう生きているんだろうとか。

ずっと聞いていてなるほどと思うところがたくさんあったのですけれど、わかるものとわからないものがあってもいいというか。わからなくてはいけないものを、それをわかりやすさとか言ったり、わかるということについて教えたり、さらにそこに道徳的なものが入っちゃうと、より分からないとダメということになってしまうことが、邪魔だなと思っていて。わからないものを分からないままに、ドンと出すっていうのが生というか。これを無理にわかろうとしなくていいのかなと。探っていくうちに、いかにも道徳的によさげな話になってしまうのは、このタイプの芸術には合わないというか、危ない。さっき、紹介者っていいましたけれど、それが「いいでしょ」っていうやり方ってたぶん違うんじゃないかな。わかっていた気がしていたけれど、けっこうわかっていなかったよなということがある。



それに関して言うと、伊藤さんの介助をされていた方が、峰尾さんのフィルターを通じて外部から内部に取り込まれて、それがまたフィルターを通じて表出されるんだとおっしゃっていたのが印象的でした。僕にはエレキングしか見えないのに、伊藤さんはウルトラマンとして描いた絵なんかがそう。同じものを観ていても違って見えているのか。お互いにかけている眼鏡のようなフィルターが異なっていることをどうやったらわかるんだろうということを、あらためて考えさせられました。それがわかりやすさって、役に立つとか立たないとか、売れるとか売れないとか、社会のフィルターで切り取られているものをわかったつもりになっているだけなんだろうな。と。

今日の話の流れで、コミュニケーションの難しさに対して、「豊かさ」ということで返したのですが、わからなくていいんじゃないかというのが結局そこかなと思います。本当にコミュニケーションが難しい方はわからない。そういう時に支援員がどうするかというと、その人の心地よさを優先します。でも、何が心地よいのかわからない。それを分かるためには想像力を膨らまして仮説を立てます。そういう、わからなさが前提にあることはいいことなんじゃないかな。そこから膨らむものがあって、そこから刺激される。峰尾さんもそう。いま社会がおかしいという問題でも足りていない部分で、本当はわかっていなくても、想像力が欠如して差別に行ってしまうのは寛容性が足りないという問題に行きついてしまう。だから、豊かさという意味では想像力を膨らませることなのかなと思います。

最後に一言。

誰にでも「いいな」って思う気持ちを大事にしていきたいと思って、それができるのが教育なのかなと思いながら話を聞いていました。

学校教育は評価するもので、子どものときは誰しも楽しんでいたものがつまらなくなるのはそこにあるのかな。伊藤さんの絵は人間のように動きだしそうなものを感じていました。改めてこういう作品を観させてもらうと、学校で受けた美術のフィルターで見てしまうのかな。そういうフィルターを取っ払うのは難しいのかもしれないけれど、それを取り払うことで豊かになれた時間でした。


峰尾さん、今回はワークショップを含め貴重なお時間をいただきありがとうございました。
素敵な家族に囲まれたこの写真は、私のお気に入りの一つです。