てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第6回シネマdeてつがくカフェ報告―「悪童日記」―

2015年01月10日 19時59分47秒 | シネマdeてつがくカフェ記録
昨夜、映画「悪童日記」を鑑賞した後に、そのままフォーラム福島館内を会場に、第6回シネマdeてつがくカフェが開催されました。
参加者は41名です。
平日の夜に、しかもマニアックな作品としては、かなりの入りだったのではないでしょうか。
しかも、今回は数名の高校生も参加し、大人顔負けの発言で会場を唸らせました。
初参加の方もかなり多かったにもかかわらず、議論の内容はかなり高度だったように感じました。



「魅力的だと思った部分と疑問だなと思う部分がありました。冷酷だったり道徳的だったり。そこにもどこか彼らなりの基準というのがあるように感じましたが、それはどこにあるのか。そんな疑問を持ちました。」

「私は今の意見とは逆のことを考えていました。戦争が人間をこのようにさせるのか、人間の本質がこうなのか。悪という言葉とは違うかもしれないけれど、監督は人間の本質を表現したかったのかと悩んだというか、興味を持ちました。」

「戦争という背景は大きいファクターだと思いますね。」

「感想は、彼らは彼らの中での正義があって、それに従って動いている気がしました。」

「その正義ってどんなものだと思いましたか?」

「最後のおばあさんを殺してしまうシーンとか、たしかに本人に頼まれたこととはいえ、彼らには自分たちの意思があって、その時の感情ではなく、行動の『基準』があった気がします。」

「修道院の女中を殺した場面や、お父さんを踏み越えていく場面にも彼らなりの『基準』があった気がしますね。」

「あばあさんに興味がありました。あのおばあさんは魔女ではなくて、実はおじいさんの死を幇助したのかなと思いました。勝手な解釈ですが、この映画は「生きる」というのがテーマで、死にたいという思う人は死なせるし、生きたいと思う人は救っていたのではないでしょうか。」

「基準に関して「生きる」というキーワードが挙げられましたね。」

「おばあさんは自分の娘を「雌犬」と呼んでいる。もしかしたら父親はその娘に性的虐待をしているから父親を殺したのかな。結婚写真を悲しそうな顔で観ている顔からそんなことを感じました。とにかくクエスチョンが多い映画でした。どうしてあの双子が別れられたのかなと思いました。ああいう世界を生きるためにいくつか試練を作っていましたが、やっと生きる力を身につけられたからこそ二人は別れられたのではないでしょうか。皆さんの話を聞かないともやもやしていたものが落ち着きました。」

「私は、皆さんの話を聞きながらますます疑問が深まりました。この映画の中で、靴屋のおじさん以外にイイ人はいたんだろうか。彼以外の人々の姿こそが人間の本質かなと思いました。」

「おばあさんは?」

「おばあさんは映画の中ではおじいさんを殺している設定でしたよね。」

「この映画の中で愛情はどこにあったのでしょうか。あの双子からしたら靴屋のおじさんに対するものは愛情だった。おばあちゃんの愛情も深いものあったけれど。あのお父さんが国境を越えようとしたとき、初めは子どものために自分の屍を超えさせようとしたのかなと思いましたが、お父さんが子供に対する愛情はあったのか、と思うとまた疑問がわいてきてわからなくなりました。」

「お父さんが子どものために自分の屍を超えさせようとしたのではないか、という意見は驚きです。」

「彼らはお母さんが迎えに来た時、なぜ一緒に行こうとしなかったかという疑問もありました。」

「救われない映画だなと思いました。家族って何だろうなということをすごく感じていました。お母さんの愛情というものを信じていたけれど、戻ってきたら違う男や腹違いと思われる妹がいて、お父さんが戻ってきたときは、「本当に戻ってきたのかな?」という不信感があったのではないでしょうか。だから、お父さんが自分たちを捨てたという確信を持った時、父も母にも捨てられた以上、一人ひとりが本当に自分で生きていかなければならないと確信したのではないでしょうか。」

「悪童日記というくらいなので少年の成長物語だとおもったのですが、双子が別れるのは死ぬより辛いとあったのに、最後は別れた。人間は最後はひとりで生きるものなのだということを表現していたのではないでしょうか。」

「人にこの映画はなんですかと聞かれたときに説明しにくい映画だなと思いました。感想としては、聖書と本を持っていたと思うのですが、場面場面で協会などの宗教的なものが映し出されていましたが、実際、この映画では「神」はどのように扱われていたのでしょうか。皆さんの意見を聞きたいと思います。」

「今の質問に答えるわけではありませんが、戦争で人生を狂わされていく人々について考えさせられました。戦争の狂気に巻き込まれていく中で、少なくとも自分は訓練はしないと思うのですが、その中で人間はどう生きるのかなと考えさせられました。皆さんはその辺のことをどう思っているのでしょうか。」

「狂気という言葉を使われましたが、あの映画の中で正気だったのは、子供たちだけだったのではないでしょうか。彼らはその状況に応じて理性的に判断していました。冷酷というよりは狂わずに正気で、今何をなすべきか選び取っていたものではないでしょうか。「神」、「教会」、「聖書」という言葉を出された人がありますが、そこでほのめかされたのは「偽善」ではなかったでしょうか。神は直接には何もできないわけで、人間そのものの偽善が示されていたのではないでしょうか。哲カフェ前には何を話せばよいかわからなかったけれど、皆さんの意見を聞いているうちに「そうそう」といえるようになった。」

「神に関して問いかけがありましたが、映画の中で聖書を勉強の道具として使っているだけで、宗教的な神なんて存在していないと思います。『汝殺すなかれ』なんて意味がないし、司祭もわいせつなこともするし、この世には完璧なものがない。倫理も道徳もない戦争の中で、彼らが自分たちの中で基準を作ろうとしている姿なのではないでしょうか。」

「テーマは『生き抜く』ということ。生きようとしている兵士は救おうとし、死ぬ意思を表示した人には手を下した。70年前のことなので、現代のような情緒的な家族観とは異なる時代だったでしょう。父や母も切り離したし。宗教的なことに関しては、聖書はテキストでもあるし、司祭はカトリックのゆがんだ形式主義的なこととか、婚姻の許されない文化に性虐待なども描かれているのかなと思いました。」

「始めから子供の強さに触れられていたけれど、むしろ逆に感覚を麻痺させていっているように思えた。そうでなければ生きられず、最終的に二人でいることは束縛になるので、別れざるを得なかったのではないでしょうか。それと戦争が終わった時点で、彼らの正義感は通じるのかと疑問に思いました。正義感や強さを保ち続けるのは難しいなと思いました。」

「感覚的に麻痺させるという話はその通りだなと思いました。学生時代に学んだ養老孟司先生にこの本を勧められたとき、「論文ってこう書くもんなんだよ」と教えられました。私たちは成長するうえで感情を殺しながら成長していくんだよといわれた。解剖学を学んでいましたが、まさにそれは感情を殺して俯瞰的に見ることが大事なんだ、この本の中に書いてあるんだよ、と。」

「『僕ら』という言い方に関して、固有名詞ではなくて、名前でそのキャラクター付けする自分としては入り込みにくい映画でした。なぜ二人が別れていくのがなぜなのかという質問がありましたが、実はそこにキャラ付けが唯一あるところなのではないでしょうか。」

「感情を殺していく中で学んでいくことで理性的な存在となる点はそうだなと思いました。双子のキャラクター、そもそもなぜ主人公はひとりじゃなかったのでしょうか。」

「今、理性と感情という言葉が出ましたが、あの二人の目が野生の動物に見える瞬間があって、お母さんと再会した場面で、二人は言葉を交わさないんだけれど、分かり合う瞬間があって、それが野生的なものと感じました。戦争というものは、日常では覆い隠されているようなもの道徳や偽善がむき出しになるような状況、その中であの二人は理性的といえば理性的だけれど、彼らは強く生きるぞという意志も感じられないくらい自然でした。だから野性的なものを彼らから感じました。」

「いま野生的な目ということでしたが、かつて哲学の授業で聞いた自然状態だなと思いました。あの映画の社会の中で、戦争という状態の中で秩序のない状況を上手に考えていると思いました。じゃ、戦争がなくなって理性的な状態になれば素晴らしいかといえば、偽善とか抑圧のある社会になってしまうのかなと思いました。善悪の問題に関していえば、靴屋さんだって悪さをしていることだってあるだろうし、一人の人間の中で善悪が混在しているんだろうなと思います。」

「自分の生い立ちと映画の内容が重なったのでさほど驚きもせずに見ていました。先ほどから挙げられている、双子に独自の『基準』があるということは感じませんでした。水汲みと槇わり以外は、割と周りに感化されていたのではないかな。反抗期だったのでは。彼らの訓練と呼んでいるものは自傷にしか見えなくて、その行為によってぎりぎりの理性を保とうとしたのかなと思いました。意外と弱いなと思いました。」

「この双子というのは小学生くらいかなと思いました。彼らはただ学ぶというか、欲求を自覚しているわけではなく、周りを見ながら学習していた気がします。」

「最初は子供と親の視点で見ていましたが、最後は親の視点で見ていました。震災の時、子供を疎開させた親もいて、親は子供を疎開させる方が幸せだと考えるのでしょうが、子どもの方は必ずしもそう思っていません。親はなくとも子は育つし、思うように育たなくてもありかなと思った。すがすがしい映画でした。」

「色々なものがそぎ落とされていて、感情的なものがそぎ落としていて、たとえば愛とはないかとか戦争とは何かとか誘導するものが全くない。だからすごくすがすがしい。ストレートで骨太。疑問もあるけれど、作家の言いたいことは見るものに任されている、生の形自体が放りだされていることがすがすがしいと感じるのだ思います。この作品が書かれているのも80年代から時間も経っているけれど、戦争の時代を伝えるのには、そのくらいの時間が必要なのかなと思いました。」

「解説の方には価値判断を除いて事実のみと書いているんだけれど、それではたして小説が書けるのでしょうか。映画が書けるのでしょうか。」

「離れに兵隊さんが招かれたとき、和解将校がなぜ嫉妬したのですか?」

「映画全般にホモセクシャルな部分も出ているし、強姦の話も出ているし、母親も別な男を作っていたり、母親が性的虐待を受けていたということをにおわせていたし、セクシャリティの観点から描かれている部分が見られました。」

「見ることと聞くことを分けた訓練が重要何だと思いました。言葉がないと相手に伝えられない、見ることだけ聞くことだけでは不十分で、最後は言葉によって結びつく学習をして完成した形で別れたのではないでしょうか。感情的なものを書かずに理性的なもので書くことで、狂気的な理性が完成されたと感じました。」

「映画で描きたかったのは、善なのか悪なのか。」

「善悪を超えて、人間とはこういうものだということをできるだけ正確にありのままに描き切ろうとしているのではないかな。」

「その点で、いまの日本社会に生きる私たちの状況はこの小説の状況に近づいているのかもしれませんね。」

「すごい映画だったな。死がずっと思い出される。色々な死が出てくるけれど、それをたどると人間の本性をざっくばらんにぶっちゃけている。死ぬということを色々な形で物語っている。」

「最後に双子が別れるシーンがあるけれど、一人は今までの場所に残るけれど、一人は過去のことが書かれたノートをもって国境を越えていく姿は、けっきょく過去に縛られているのではないかと思いました。前に進んでいるわけではない。感情がないから、悔しいから前に進もうということがない。もしかしたら彼らは過去に縛られているのではないでしょうか。」


最後に高校生から問いが提起された時点で、残念ながらタイムアップとなりました。
映画を観た後はその映画について思い思いのことを語りたいものですが、とりわけ今回の『悪童日記』は見終わった瞬間に呆然として言葉にすることができないという参加者が多かったように思われます。
けれど、興味深かったのは、今回ほど他の参加者の意見を聞くことによって自分の言葉を見つけることができたという声が挙げられたことはなかったのではないでしょうか。
その意味で、あらためて他者の言葉によって自らの言葉が引き出される力があることを認識させられたものです。
まだまだ話し足りなさそうな方もいらっしゃいましたが、また次回、ぜひ多くの方々にお集まりいただきたいと思います。
フォーラム福島の阿部さまにはあらためて御礼申し上げます。