てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第7回カフェ報告

2011年12月28日 23時53分04秒 | 定例てつがくカフェ記録


渡部です。
朝鮮半島情勢を視察しにいっていたためカフェ報告のアップが遅れました。
さっそく拙い記憶を辿りながら、私なりにどのような議論が交わされたかまとめてみましょう。

第7回のテーマは「〈対話〉と〈和〉の精神」。
そもそもは前回のカフェを踏まえて、〈対話〉は〈和〉を乱すものなのか、という問題意識のもと設定されたテーマでした。
もちろんてつがくカフェでの議論は前回の問題意識にとらわれる必要はまったくないのですが、
今回の導入では〈対話〉や〈和〉に対する各人の解釈やイメージのズレを確認することから始まりました。
というのも、迂闊にも世話人の認識では〈対話〉と〈和〉は対立するものと考えていたのに対し、
中には〈和〉を〈対話〉が成立するための前提であると認識されていた参加者もいらしたからです。
あらためて各人の言葉に対する解釈や意味づけを確認する作業の大切さを認識させられました。

さて、毎度ながら序盤は話題の起点や論点がどこにあるのかの探り合いから始まります。
あちらこちら話が散らばったところで、ある参加者から「会議が終わってから往々にしてみんなホンネを喋りだす」という経験談が示されたあたりから、発言のしにくさをつくり出す〈和〉をめぐって議論が展開しました。

ある参加者からは、それはすなわち「空気」のことであるとの明快な答えが示されました。
たしかに「空気を読む」とは、日本的なコミュニケーション方法の一つであるとされます。
その意味で〈和〉であるともいえるでしょう。
では、「空気」あるいは「空気を読む」とはどのようなことなのでしょうか。

ある参加者によれば、それは「私が何を言いたいか」よりも、「相手に何を求められているのか」考えることを強いるものであり、それによって「その場の流れ」をよい方向にもっていくことを最優先させるものだということになります。
言い換えれば、それは「みんなで仲よくする」ことであり、さらに言えば「調和(ハーモニー)」を生み出すものと言えましょう。
これこそが〈和〉の精神だというわけです。

この個人の「発言」や「意見」を封じる〈和〉=〈空気〉をめぐって議論が展開するにつれ、次第に論点は「対話ができる空間/できない空間」に移っていきます。
まず「対話できない空間」については、「親しい人」や「多数の集団内」、あるいは「長い時間を共有する相手」といった関係性が挙げられます。
曰く、「相手を裏切ってはいけない」や「相手を気にする」不安などがその原因だともされました。
しかし、よく見ていくと、実はそれは「相手の考えがわからない」という「未知」への「恐れ」なのではないかとの点も確認されました。
ある参加者からは、このたびの放射能をめぐる〈温度差〉から友人と疎遠になった原因は、お互いに知りえない部分が見えたことにあるのではないかとの意見も出されました。
これはその人がもつ「予測不可能性」とでもいえばよいでしょうか。
人が誰かとつきあうときには、ある程度その人のイメージをもって関係をとっていくものですが、それが破綻したとき、相手に対する「未知」の「恐れ」が生じ、〈対話〉が不可能となるのではないか。
そんな仮説が浮かび上がりました。

また、「対話ができない空間」に関しては、「相手に否定(論破)されるとき」や「まちがってはいけない」、「同意を強要される場面」などが挙げられました。
とりわけ、ここでの「恐れ」とはその人の「意見」とその人の「存在」を同一視することから生じるのではないかという見方は興味深いものでした。
その意見によれば、そもそも「意見」は対立することはあっても「存在」が対立することはないのではないか、とのことです。
したがって、ここから「意見」は否定しても「存在」を殲滅しない〈対話〉のマナー、というか文化を創り上げることの重要性が確認されます。

すると、逆にいえば「対話しやすい空間」というのは、その「恐れ」がない状態、あるいは相手に関心を持ってもらえる状態であることが見えてきます。
つまり、「対話しやすい空間」とは「何を発言してもOK!」、「空気を読まずにしゃべっていこうよ!」との前提が共有されている「安心感」が確保された状態なのです。

この「安心感」に基づく〈対話〉状態とは、まさに「〈和〉に基づく対話」ということができるのではないでしょうか。
ただし、ここでの〈和〉とは「みんなと足並みを揃える」という意味での「和」の意味ではありません。
むしろ、相手と意見が異なり、対立していようともそれを許容し、「尊重」できる関係性を保つものです。
ここに、世話人が設定した当初の問題意識とは異なる〈対話〉と〈和〉の関係性が浮き彫りにされました。
そのことを、何でも言い合える「根幹がつながっている」関係性と表現した参加者もいます。
「対等」な関係性がその「尊重」を保持すると発言した参加者もいました。
〈対話〉が成り立つ条件として「理性」と「知性」がその信頼の根拠であると発言した参加者もいます。
「結果」や「正しさ」を気にせずに、一つのテーマをめぐって「対話そのものが目的となる対話」。
これがいわゆる〈対話〉だとすれば、それは安心して発言できる「信頼感」、そしてそれを保持するための「尊重」といった条件があってはじめて成り立つものではないか。
そんな意見が多くの参加者から挙げられました。

こうして後半の議論は「〈対話〉とは何か」という論点に移っていきます。
まず、これまでの議論のなかで揺れ動く〈対話〉概念の再定義が求められました。

これまで論じられた〈対話〉は、一つのテーマを自由に安心して語り合える営みを指しているようで、どうもその中には会議での話し合いは含まれていないのではないか。
そんな問題が提起されました。
たしかに、これまでの議論からすると、一つのテーマについて結論を求めずになされる〈対話〉とは、自由と対等性と安心感をその構成条件としています。
しかしながら、集団で一つの結論を出さなければならない話し合いの場合、それらの条件を確保するのは難しいでしょう。
とりわけ、今回の〈放射能〉問題では、その対応に関する合意形成をめぐって〈対話〉のあり方が問題となりました。
先に挙げた、会議の場では語らずとも私的な場では個人的な思いを語るという例がそれに当たるでしょう。
解決の方策の見えない未曾有の事態にあって、個人的な考え方を圧し殺し「公的な(職務上の)立場」でしか発言できない(考えられない)状況を露出させたという危うい事態も引き起こされました。
そもそも緊急事態の合意形成にあって、話し合いをもつことは内部分裂を引き起こす好ましからざるものである、との見解もあり得ました。

これについてある参加者からは、集団的決定に際しての話し合いは〈対話〉ではなく「議論」であると定義づけられました。
すると、集団的な意思決定に際して、〈対話〉は無力なのでしょうか?
この問いは開いたままにしておきましょう。

また、ある参加者からは「信頼感」がなければ「〈対話〉は成り立たないのだろうか」との問題も提起されました。
その意見によれば、そもそも〈対話〉とは「話す」・「聞く」・「考える」の3つによって単純に構成されたものであり、そこに「信頼」という要素が必要であるというのは違和感があるとのことです。

この問題提起に対して、ある参加者が音楽の「対位法」を用いて比喩的に論じた意見がヒントになるのではないかと思っています。
もともとこの意見はまったく別の論点で示されたものですが、むしろここでの問題提起にこそ意味をなすものと理解し、紹介します。
その意見によれば、そもそも西洋音楽史において和声や和音なるものは、時代とともに伝統的なその正統性を破壊しながら、新しい調性を創り出してきたのだといいます。
現代音楽など、おそよハーモニーとは言えない不協和音同士の衝突が新しいハーモニーを創り出している。
そして〈対話〉も同様に、不協和音としか思えないような異質性とのぶつかり合いの中で、すべてが壊されたと思っても必ずや新しい調性が生み出されているのだというわけです。
つまり、「信頼感」といった条件がなくとも、思い思いの意見をぶつけ合うことそのものが〈対話〉を可能にするわけであって、必ずしも「安心」や「信頼」が前提とされなければ成り立たないというわけではない、
むしろ、その前提条件がなく、話し合いが破綻したとしても〈対話〉は新しい調性を生み出すのではないか、
この「対位法」の比喩からは、そんな〈対話〉のありようが示されたように思われます。

ここにカフェ記録の執筆者として個人的な意見を書くことはあまり好ましいことではないのかもしれませんが、
今回の議論で気になった点を最後に少しだけ書き連ねてみます。
それは、まさに何を発言しても許される「自由」や「信頼感」など、〈対話〉の前提条件が共有されない相手との〈対話〉は成り立たないのか、という問題です。
ある参加者からは、キリスト教文化が共有されているヨーロッパ社会だからこそ〈対話〉は可能となるという見解が示されました。
まさに個人的に問いたいのはそこです。
〈対話〉が求められている相手とは、こうした文化的条件が共有不可能な相手にこそ求められるものではないのでしょうか。
それは議論のなかに挙げられた「予測不可能性」を孕んだ相手といってもよいでしょう。
それはひょっとしたら理性や知性を持ち合わせていない存在かもしれません。
あまり議論の射程を広げるつもりはありませんが、その条件の共有不可能な相手が〈対話〉の対象とされないとすれば、それは随分と閉じた関係においてしか成り立たない営みではないか、といったら言いすぎでしょうか。
いささか〈対話〉の日常性からかけ離れた問いかけになってしまうかもしれませんが、割とこの問題は身近な社会問題としても考えることが可能だとと思っています。
この点については、いずれまた皆さんと語り合える機会があれば幸いです。

とはいえ、今回の議論のなかで〈対話〉の自由さを経験できる例として、この「てつがくカフェ@ふくしま」の場を挙げていただけたご意見には、世話人としてとても嬉しく感じます。
何より、この場での唯一の「信頼」の根拠として「てつがくカフェ@ふくしま趣意書」を挙げていただき、むしろその紙切れ1枚だけで〈対話〉が成り立つ奇跡を、あらためて趣意書作成者の一人として教えていただきました。
ご参加いただいた皆様にはあらためて感謝申し上げます。
またぜひ自由に語り合って考えあいましょう!