心に封じてある思いをひも解くために、十日ばかりタイムスリップします。
棺の中で穏やかに眠る叔母はもう旅立った後だった。
5月10日の夜8時頃、叔母が心筋梗塞で倒れ、この世を去った翌々日、
私は仕事帰りに上尾から高崎線に乗り、埼玉県深谷市へ向かった。
深谷駅で降りると、そこには1年ぶりくらいに会う従兄弟が手を振って待っていた。
その日、先に車で叔母の家へ行っていた父と駅まで迎えに来てくれたのだ。
19時半すぎ、夜の道を走る車の助手席に座る従兄弟は言った。
「びっくりしたでしょ」
そう、この従兄弟こそ亡くなった叔母の息子だ。
従兄弟といっても私より16歳も年上だから、私にとっては従兄弟というより親戚のお兄さん、あるいは叔父さんという感覚だった。
従兄弟の顔は真っ赤で、お酒のにおいがした。飲まずにはいられなかったんだろう。
私が「本当にJ子おばさんが死んじゃったなんて、全然実感がなくて、ご愁傷様なんて言葉も出ないくらいだよ」というと、
「でしょ?あのねぇ、だってその日電話で話したんだよ、ほんとにどうでもいいようなことで珍しく一日に2回も電話がかかってきたの。そんなこと今までほんとに滅多になかったんだよ」
もしかしたら一言でも多く最後に話すように神様か誰かが計らってくれたのかもしれない。
きっと、その日の午後8時までの61年間が叔母さんにとっての寿命だったのだ。
車で駅から15分ほど走り、叔母の家に着いた。
夜に叔母さんちにいくというこの非日常のことが楽しいことで集まれたらよかったのにと思った。
「どうも、わざわざ来てもらって悪いね」
玄関を入ると、叔母の旦那であるS叔父さんが出迎えてくれた。
叔父さんは最愛の妻を亡くした哀しみの色に染まりきって、影に抱かれていた。
私は、それから真っ白な大輪の百合に囲まれお棺の中で眠る叔母の姿を見ることになる。
「会ってやってよ」
かなりいい大人の従兄弟は顔を真っ赤にしていつの間にか、泣きながらそう言った。
従兄弟は礼儀やマナーに厳しくて、私は会うたびに緊張していた。
そんな従兄弟が泣いていたのを、真正面から見ることはできなかった。
「なっこが来てくれたよ」
「ほら、色々心配してたじゃん」
「見てやって」
私は何かまるで、足がすくむような、何か現実を突きつけられてそれを受け入れる覚悟をしたばかりのような、そんな心持で棺を覗き込んだ。
叔母は黙っていた。静かに、ただ静かに、そこに横たわっていた。
ほっかむりして、「どうも」なんて言いながら現れそうなのに、そこに叔母の亡骸があった。
「なっこのこと本当に心配してたんだよ」
「おい、トシんとこのなっこちゃんが来てくれたんだよ、おい、起きてくれよ」
S叔父さんが、お棺の側に置かれた籐の椅子に座って妻の遺体を眺めがら、
そう言う。
私は、まるで何にも喋らない叔母さんを前にしてなにも言葉がでなかった。
なんで急にいっちゃうんですか。
私、今年のお正月はこっちにこなかったから会えなかったんだ。
従兄弟なんて、一人っ子で、東京に住んでて、叔父さんと二人でこんな贅沢な家に住んでたんじゃないですか。自慢の一人息子と、旦那残してどうしていっちゃうの。
しかもちゃんと聞いたら、材木屋始めたのおばさんだっていうじゃないですか。
創業者であり、実質社長であったおばさんがしんじゃったら、材木屋どうなっちゃうの。
うちの父さんも叔母さんのことをだいぶ頼りにしていたよ。
どうすんの。
こんなに沢山の叔母さんを頼りにしてる人を残してどうしてそんなに早くいっちゃうの。
私叔母さんに進路のこと心配してもらったままだよ。
その先の話、してなかったじゃんよ。
今上尾の建設現場で事務のバイトしてて、やっぱり建物に関わる仕事がしたいって思うようになった、そんな実感を持ったんだよ。
色んな思いがこみ上げてきて、棺の前で私は泣いた。
叔父さんも、従兄弟も、父も、皆泣いていた。
叔父は妻である私の叔母の側を離れようとはしなかった。
きっと亡くなった一昨日からずっと側にいるんだろう。
まだ、叔母の突然の死を受け入れられてはいないようだった。
伴侶を亡くすということは、どれだけ寂しいことだろう。
これから先の自分の人生をどう生きればいいのか、考えると寂しくて寂しくて
きっと夜も眠れないだろう。
叔母は若い頃、一人で材木を軽トラで現場に運んで大工に心配されたというくらいパワフルな人で、ある意味男前なところがあったのだけど、
9歳年上の旦那の前ではとても女らしかった。
それは周りの誰もが知っていた。
だから叔父の埋められない寂しさを思うといたたまれない気持ちになるのだった。
「これから二人で色々旅行にいこうって言ってたとこなのになぁ…いっちゃうんだもんよ、そりゃないよなぁ。やっと落ち着いて好きなとこ行けるって言ってたときだったのによう、死んじまうんだもの」
そんな叔父の言葉を聴いていてなんだか、女の人より男の人のほうが実は脆く、弱いもんなんじゃないかと思ってしまった。
私は、できることなら、結婚したら夫になる人よりも後に死にたいと思った。
こんなに哀しみに包まれて今にも消えてしまいそうな愛する人を残して死ぬくらいなら、自分がその哀しみや痛みを味わったほうがいいと思った。
そう思わせるくらい、残された叔父と従兄弟、男二人の悲しむ姿は痛々しかった。
棺の中の叔母は買ったばかりだという今シーズンのCHANELの春夏のツィードのスーツを着ていた。叔母はCHANELとHERMESが好きだったらしい。
靴もCHANELで首元には従兄弟がプレゼントしたHERMESのスカーフが巻かれていた。
そして体の上には初めての家族で行った海外旅行先の香港で買ったという、CHANELの冬のスーツがかけられていた。そして、家族やペットや家の写真と、リリーフランキーの『東京タワー』が棺の中に入れられていた。
「お通夜の日がね、ちょうど母の日なんだよ。前から母の日に『東京タワー』をあげようと思ってたら、これお母さんが死んじゃう話なんだよね。まさかこんな形であげることになるなんてね」
家族に囲まれ、大好きな百合の花に飾られ、お気に入りのCHANELのスーツに身を包み、旅立っていく叔母を心からかっこいいと思った。
太く短く生きたその生き方は叔母らしいと思う。
きっとその叔母が支えていたものは計り知れないほど大きく、これからは父も私も叔母が支えてきた何かを背負って大きくならなきゃいけないんだと思った。
「私が死んだら他の花はいらないから、百合の花をバーっと飾ってね」
叔母は生前から従兄弟に色々と自分が死んだらこうして欲しいようなことを言っていたらしい。心臓は悪かったらしいけど、特に最近具合いが悪かったようではなかったということだった。でも、生前から自分が死ぬときはこうして欲しいとか、自分はこれが好きだとかそいういう自分のスタイルが確立されているっていうのはなんてかっこいいんだろうと思った。
思う存分生きて、人との出会いを大事にして、人生を楽しみたいと思った。
今何気なく側にいる家族や友達や恋人が今ここに生きているということが、
どれだけ自分を支えてくれているか、
叔母の死はそんなことを教えてくれた。
私はだいぶ背伸びをして、叔母の通夜の前日、表参道のPRADA本店で靴を買った。普段はコンバースのオールスターだけどね。
棺の中で穏やかに眠る叔母はもう旅立った後だった。
5月10日の夜8時頃、叔母が心筋梗塞で倒れ、この世を去った翌々日、
私は仕事帰りに上尾から高崎線に乗り、埼玉県深谷市へ向かった。
深谷駅で降りると、そこには1年ぶりくらいに会う従兄弟が手を振って待っていた。
その日、先に車で叔母の家へ行っていた父と駅まで迎えに来てくれたのだ。
19時半すぎ、夜の道を走る車の助手席に座る従兄弟は言った。
「びっくりしたでしょ」
そう、この従兄弟こそ亡くなった叔母の息子だ。
従兄弟といっても私より16歳も年上だから、私にとっては従兄弟というより親戚のお兄さん、あるいは叔父さんという感覚だった。
従兄弟の顔は真っ赤で、お酒のにおいがした。飲まずにはいられなかったんだろう。
私が「本当にJ子おばさんが死んじゃったなんて、全然実感がなくて、ご愁傷様なんて言葉も出ないくらいだよ」というと、
「でしょ?あのねぇ、だってその日電話で話したんだよ、ほんとにどうでもいいようなことで珍しく一日に2回も電話がかかってきたの。そんなこと今までほんとに滅多になかったんだよ」
もしかしたら一言でも多く最後に話すように神様か誰かが計らってくれたのかもしれない。
きっと、その日の午後8時までの61年間が叔母さんにとっての寿命だったのだ。
車で駅から15分ほど走り、叔母の家に着いた。
夜に叔母さんちにいくというこの非日常のことが楽しいことで集まれたらよかったのにと思った。
「どうも、わざわざ来てもらって悪いね」
玄関を入ると、叔母の旦那であるS叔父さんが出迎えてくれた。
叔父さんは最愛の妻を亡くした哀しみの色に染まりきって、影に抱かれていた。
私は、それから真っ白な大輪の百合に囲まれお棺の中で眠る叔母の姿を見ることになる。
「会ってやってよ」
かなりいい大人の従兄弟は顔を真っ赤にしていつの間にか、泣きながらそう言った。
従兄弟は礼儀やマナーに厳しくて、私は会うたびに緊張していた。
そんな従兄弟が泣いていたのを、真正面から見ることはできなかった。
「なっこが来てくれたよ」
「ほら、色々心配してたじゃん」
「見てやって」
私は何かまるで、足がすくむような、何か現実を突きつけられてそれを受け入れる覚悟をしたばかりのような、そんな心持で棺を覗き込んだ。
叔母は黙っていた。静かに、ただ静かに、そこに横たわっていた。
ほっかむりして、「どうも」なんて言いながら現れそうなのに、そこに叔母の亡骸があった。
「なっこのこと本当に心配してたんだよ」
「おい、トシんとこのなっこちゃんが来てくれたんだよ、おい、起きてくれよ」
S叔父さんが、お棺の側に置かれた籐の椅子に座って妻の遺体を眺めがら、
そう言う。
私は、まるで何にも喋らない叔母さんを前にしてなにも言葉がでなかった。
なんで急にいっちゃうんですか。
私、今年のお正月はこっちにこなかったから会えなかったんだ。
従兄弟なんて、一人っ子で、東京に住んでて、叔父さんと二人でこんな贅沢な家に住んでたんじゃないですか。自慢の一人息子と、旦那残してどうしていっちゃうの。
しかもちゃんと聞いたら、材木屋始めたのおばさんだっていうじゃないですか。
創業者であり、実質社長であったおばさんがしんじゃったら、材木屋どうなっちゃうの。
うちの父さんも叔母さんのことをだいぶ頼りにしていたよ。
どうすんの。
こんなに沢山の叔母さんを頼りにしてる人を残してどうしてそんなに早くいっちゃうの。
私叔母さんに進路のこと心配してもらったままだよ。
その先の話、してなかったじゃんよ。
今上尾の建設現場で事務のバイトしてて、やっぱり建物に関わる仕事がしたいって思うようになった、そんな実感を持ったんだよ。
色んな思いがこみ上げてきて、棺の前で私は泣いた。
叔父さんも、従兄弟も、父も、皆泣いていた。
叔父は妻である私の叔母の側を離れようとはしなかった。
きっと亡くなった一昨日からずっと側にいるんだろう。
まだ、叔母の突然の死を受け入れられてはいないようだった。
伴侶を亡くすということは、どれだけ寂しいことだろう。
これから先の自分の人生をどう生きればいいのか、考えると寂しくて寂しくて
きっと夜も眠れないだろう。
叔母は若い頃、一人で材木を軽トラで現場に運んで大工に心配されたというくらいパワフルな人で、ある意味男前なところがあったのだけど、
9歳年上の旦那の前ではとても女らしかった。
それは周りの誰もが知っていた。
だから叔父の埋められない寂しさを思うといたたまれない気持ちになるのだった。
「これから二人で色々旅行にいこうって言ってたとこなのになぁ…いっちゃうんだもんよ、そりゃないよなぁ。やっと落ち着いて好きなとこ行けるって言ってたときだったのによう、死んじまうんだもの」
そんな叔父の言葉を聴いていてなんだか、女の人より男の人のほうが実は脆く、弱いもんなんじゃないかと思ってしまった。
私は、できることなら、結婚したら夫になる人よりも後に死にたいと思った。
こんなに哀しみに包まれて今にも消えてしまいそうな愛する人を残して死ぬくらいなら、自分がその哀しみや痛みを味わったほうがいいと思った。
そう思わせるくらい、残された叔父と従兄弟、男二人の悲しむ姿は痛々しかった。
棺の中の叔母は買ったばかりだという今シーズンのCHANELの春夏のツィードのスーツを着ていた。叔母はCHANELとHERMESが好きだったらしい。
靴もCHANELで首元には従兄弟がプレゼントしたHERMESのスカーフが巻かれていた。
そして体の上には初めての家族で行った海外旅行先の香港で買ったという、CHANELの冬のスーツがかけられていた。そして、家族やペットや家の写真と、リリーフランキーの『東京タワー』が棺の中に入れられていた。
「お通夜の日がね、ちょうど母の日なんだよ。前から母の日に『東京タワー』をあげようと思ってたら、これお母さんが死んじゃう話なんだよね。まさかこんな形であげることになるなんてね」
家族に囲まれ、大好きな百合の花に飾られ、お気に入りのCHANELのスーツに身を包み、旅立っていく叔母を心からかっこいいと思った。
太く短く生きたその生き方は叔母らしいと思う。
きっとその叔母が支えていたものは計り知れないほど大きく、これからは父も私も叔母が支えてきた何かを背負って大きくならなきゃいけないんだと思った。
「私が死んだら他の花はいらないから、百合の花をバーっと飾ってね」
叔母は生前から従兄弟に色々と自分が死んだらこうして欲しいようなことを言っていたらしい。心臓は悪かったらしいけど、特に最近具合いが悪かったようではなかったということだった。でも、生前から自分が死ぬときはこうして欲しいとか、自分はこれが好きだとかそいういう自分のスタイルが確立されているっていうのはなんてかっこいいんだろうと思った。
思う存分生きて、人との出会いを大事にして、人生を楽しみたいと思った。
今何気なく側にいる家族や友達や恋人が今ここに生きているということが、
どれだけ自分を支えてくれているか、
叔母の死はそんなことを教えてくれた。
私はだいぶ背伸びをして、叔母の通夜の前日、表参道のPRADA本店で靴を買った。普段はコンバースのオールスターだけどね。
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